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慟哭



母が死んだ。

あのいつまでも少女のような純粋な瞳を持っていた人が亡くなった。


長くはないと言われていた。だから覚悟はできていた、はずだった。

本当ならもう少し、もう少しだけ待っていて欲しかった。


八重は自分の腹部にそっと手を当てた。

「お祖母様に会いたかったよね……」


母の物は驚く程少なかった。遺品の整理といっても、今日中には終わってしまうだろう。


「八重……」

背後から八重を気遣う優しい声がした。


「身体にさわるといけないから、無理しないで。整理はまた明日にでもやればいいさ」

八重は夫の勇を振り返り、心配かけないようにニッコリと笑った。


「私は大丈夫! それより、見てこの箱。壊れてるのかしら。開けられないの」

勇は八重の手元の箱を一瞥するなり、興味深そうな顔をした。


「それはからくり箱だね。売られてるのを見たことはあるけれど、自分で最後まで動かしたことはないんだ。どれ、貸してみて」


……からくり箱?? 一体全体どんな物だろうか。

八重は勇の手元に移った箱と勇を交互に見遣る。


勇は慣れた手つきで箱の側面に指を這わせる。数回その動作を繰り返した後、左の箇所が五ミリ程度スライドするのを認めた。


八重は目を丸くしてその様を眺める。

しかしながらまだまだ箱は開きそうにない。


今度は移動した側面と反対の右側面の一部分を触り、一つ目とは反対方向に動かした。


勇が得意顔になったのも束の間、他の箇所を何度も弄り試行錯誤したが箱はうんともすんとも言わなくなった。


勇は首を捻りしばらく唸っていたが、急に何かを思いついたようだった。

今まで横にスライドしていたものを縦にスライドできないかと動かす方向を変えてみたのである。

それが功を奏し、底面に近い側面が下部に移動した。


そんなことをどれ程繰り返しただろうか、勇は辛抱強くその箱と格闘していた。


この箱にまさかこんな凝った仕掛けがあるとは露ほども思っていなかった八重は、呆気にとられながら勇の様子を眺めていた。


そうこうしているうちに、勇は愈々蓋を開け、中にあるものが八重の目に飛び込んできた。


それは八重宛の封書一枚と知らない男性へ宛てた複数の封書だった。



1


――明治二十年――


「まだ子どもができないのかしら?」


唐突に義母が放ったその一言に千春は箸を止めた。


思わず横目で夫の清一郎を盗み見したが、夫は能面のような顔をして興味がなさそうにしている。


千春の胸に失望が生まれた。


「……も、申し訳ありません」


「嫌だね、私は謝ってほしいんじゃないんだよ。ただね、孫の顔を見るのを楽しみにしているだけなんですよ」


「ええ……もちろんです」


ーー出来るはずないーー

千春は頭の中で叫ぶ。


清一郎は素知らぬ顔で食事を済ませ、立ち上がる。


支度をして玄関先まで出て行く清一郎に千春は鞄を手渡した。


「今日のお帰りは何時頃になられますか?」


「……今日は横浜港まで行って仕入れたものの確認をする予定だ。帰るのは遅くなるから先に寝ておくように」


ともすれば出てしまいそうな溜息を押し隠し、千春は微笑を浮かべた。

「かしこまりました。お気をつけていってらっしゃいませ」


女中の(はつ)も、千春の後ろで低頭して清一郎を見送った。


清一郎は待たせておいた馬車に乗り、すぐさま千春の視界から消えていなくなった。


居間に戻ろうとすると、そこに義母が立っていて千春はドキッとした。


「世の中では妾がいて子どもも複数いるのが当たり前というのに、清一郎は一体何を考えてるのかしらねぇ……」


千春はなんて言葉を返したら良いのか分からず恐縮した。

「左様で……」


フンっと聞こえるように義母は息を吐き述べた。

「私は店の方へ戻ります。千春さんも一緒にどうぞ。望月家の嫁として、もっと勉強してもらわないといけませんから」


「すぐ支度をして参ります」

胃がキリキリしてくる音が聞こえてきそうだった。


千春が、東京で繁盛している老舗の呉服屋の長男清一郎と結婚したのは、一年半前のことである。


数回ほどお見合いをした後、両親からの強い勧めと堅実そうな清一郎の様子に結婚を承諾した。


結婚生活が薔薇色になるなんてことは信じていなかった千春だが、それにしても夫にこんなに距離を作られるなんて思いもしなかった。


日を追うごとに千春の悩みは色濃くなっていった。


確かに他家では、本妻と妾の争いとか、主人が遊郭にはまって家の財産を投じてしまったとか、そんな噂話が少なくなかった。


しかしうちは、それ以前の問題なのである。


清一郎は、結婚してから今まで千春を抱いたことがない。

その事実は、幼い頃より良妻賢母になるべく育てられた千春の心を追い詰めていた。


自分に女としての魅力がないのかしら、と思い、寝所に流行りという香を焚いてみたり、手触りの良い寝間着を新調してみたりしたが夫にその気がなければ如何ともしがたい。


抱くどころか清一郎は自分に触れもしないのだ。

最近は努めてそのことを忘れようとしていたのだが、義母は事あるごとに家を訪問し、責め立てるかのように子供の話題を持ち出す。


なんとも辟易する毎日ではあるが、千春には唯一の救いがあった。

それは呉服屋でのお仕事が興味深くってたまらなかったことだ。

丁稚二人に手代や番頭ともすっかり仲良くなって、日々新しいことを教えてもらっていた。


自分の知らなかった事柄を吸収していくのは千春にとって心踊ることであった。

それに、いつか夫の役に立てるようになれれば、妻として認めてもらえるかも知れないと希望を捨てずにいられた。



2


千春と千春の夫の清一郎は、格式ばったホテルの料理屋で、得意先である地主のご夫妻と共にフランス料理を食べていた。


店内にはかなりの数の外国人客がいて、聞こえてくる異国の言葉に千春は目を白黒させる。


義父の勧めにより初めて洋装で身を包んだため、落ち着かなくって仕方ない。


緊張して料理の味が分からない千春をよそに、隣席の清一郎は涼しい顔をして給仕人を呼び止め、ワインを追加している。


ご夫妻が話す内容の殆どが自慢話或いは西洋に関する蘊蓄で、千春はひたすら頷き、微笑することしか出来なかった。

一方家では寡黙な清一郎は、上手い具合に合いの手を入れ、良い聞き役に徹していた。

それに気を良くした夫妻は、益々舌を滑らかにする。


最後のコーヒーを飲み終え、漸く歓談が途切れたところで皆が席を立つ。


千春はこの窮屈な時間から解放されることを内心喜びながらも、それをおくびにも出さず、清一郎と一緒に静々と玄関へ向かった。


すると前を歩いていた清一郎が突如として立ち止まり、危うく千春は彼にぶつかりそうになった。


刮目した清一郎の視線を辿ると、そこには千春たちより若干歳下に見えるカップルがいた。


眉目秀麗な男性は高級そうな服を着て、煌びやかな帽子を被った女性をエスコートしている。二人の様子はまるで物語の一場面のようだ。


清一郎の視線に気づいた男性は目を見張り、動揺を露わにした。


最初に声をかけたのは清一郎だった。

「やぁ、こんな所で会うとは予想だにしなかったな。こちらは私の家内です。そちらの綺麗なお嬢さんはどなたかな?」


千春は清一郎の笑顔に違和感を感じたものの、紹介された手前きちんと彼らに向き合い、丁寧に挨拶をした。


「望月 千春と申します。いつも主人がお世話になっております」


男性は泣いているような顔で笑い、隣の女性を紹介した。

その笑顔は千春の印象に強く残った。


「こちらは、今度私の妻となる、菊と申します。今日は旦那様と大奥様から婚約のお祝いにとこちらにお招きいただいた次第で……」


千春はそんなカップルの様子を見ていたので、清一郎の変化に気づけなかった。

「それは、おめでとうございます!」と満面の笑顔で伝えると、女性も優雅な微笑で返答した。


「ありがとうございます」


そのあと然るべき会話が繰り広げられるだろうと思ったが、男性と清一郎の言葉は続かない。不自然な沈黙に千春が何か言いかけたところで、清一郎は「人を待たせておりますので、失礼致します」と会釈して足早に歩を進めた。それは何かを振り切るようだった。


結局あの方がどういうお知り合いなのか夫は教えてくれなかった……。

几帳面な夫なのに珍しいこともあるものだと千春は思う。

それにしてもあの態度……夫は祝辞すら述べなかった。どうにもおかしい……。


頑なな清一郎の横顔は何の質問も受け付けないように見えた。

馬車に乗った後沈黙が続いたが、千春に為す術もなかった。



この時のことを、後に千春は何度も反芻することになる。

苦い後悔と一緒に。



3


あの会食の日以来、清一郎の様子はおかしかった。


食欲もないし、話しかけてもいつも上の空で、心ここに在らずだった。

心配しても何でもないと言うばかりで、千春はどうしたらいいか分からなかった。


夜も眠れないのか寝室を抜け出し、自分の部屋に籠っていることが続いた。

それを追いかけて尋ねても、やはり梨の礫だった。


日に日に痩せて眼は落ち窪み、恐ろしさを感じた千春は義母にも相談した。

しかし事態は一向に変わる気配を見せず、千春は考えあぐねていた。


そんなある夜、帰宅した清一郎に千春は文が届いていることを伝えた。


「あなた、こちらは今朝届いた貴方宛の文でございます。ですが、差出人の名前がなくて……」

その手紙を受け取りながら、困った様子で話しかける千春に清一郎は言った。


「あぁ……。少し自分の部屋に行くから、下がっていてくれ」


「かしこまりました」


千春は女中の初に夫の分の食事を用意するよう伝えて二階に上がろうとすると、清一郎が上から降りてきた。


「千春」と珍しく自分の名が呼ばれたので、千春はとても驚いた。


「はい、いかがされましたか?」


「……少し出かけてくる」と言う清一郎に訝しがる千春。


「こんな夜分にですか? ……明日に延ばすことはできないのですか??」


不安そうな千春を見て、清一郎は言葉を紡ぐ。

「大事な用事を思い出した。これから浅草まで行かないといけない。適当な宿に泊まるから……」


千春の耳にはそれがまるで弁解のように聞こえた。

ここ最近思い出せる限りでは、それが二人の間で交わされた一番長い会話だった。


千春は何だか胸騒ぎがして、清一郎の着物の袖をキュウっと掴んで離さなかった。


「千春」

清一郎はそっと千春の手を取って、自分の袖から千春の手を離す。


「きっと帰ってきて下さいね?」


真摯な物言いに、清一郎は困ったように笑う。

千春は随分久しぶりに彼の笑顔を見た気がした。


それには答えず玄関に向かう清一郎は、後ろを振り向いて、浮かない顔をした千春に声をかける。


「いろいろ、済まなかった」

それ以上に何かを伝えようとした唇は、結局閉じられてしまった。


千春は首を傾げ、夜に紛れる清一郎の姿をいつまでも見送っていた。



4


涼しくなってきた風が夏の終わりを告げていた。

昨日までの暑さも和らぎ、長閑な午後だった。

やるべきことを終わらせて、ホッと一息をついた千春は、今日も昨日の続きだと思っていた。

いつもと同じ、何気ない一日ーー。

外では物売りと、それを冷やかす人々の声がする。


千春は窓際に座って頬杖をつき、清一郎のことを思った。

清一郎の言動が気になり、昨夜はほとんど眠れなかった。

目を瞑ると睡魔が急激に襲ってきて、転寝しそうになった千春は、番頭の佐助の逼迫した喚き声に意識を戻された。


「若御寮人さん! 大変です、若旦那さんが!!!」

外から叫ぶ佐助の尋常でない様子に息を飲んだ千春は、性急に一階へと降りて家の外へ出た。


「…っはぁ、っはぁ。一体どうしたのです?」

息急き切って尋ねる千春に、普段赤ら顔の佐助は真っ青になって肩を震わせる。


「っ旦那さんが…若旦那さんが……」

言葉が詰まる佐助を、勇気付けるように頷く千春。

それを見て観念したように口を開いた。


「荒川で遺体として発見されました……」


千春は絶句した。


最近の清一郎の並々ならぬ様子にある程度のことは予想していたはずだった。

しかしこんな事態になるとは、一体誰が予想できたであろうか。少なくとも千春の念頭には全くないことだった。


全身を震えが襲い、千春は噛みきりそうになる程唇を強く結んだ。

動揺を押し殺し、必死の思いで聞く。

「……主人は今どちらに?」


佐助は一層渋い顔をした。

「若御寮人さんは、お会いにならない方がよろしいかと……とてもまともに見られる状態ではありません……」


頭がクラクラして、立っていられなくなりそうだった。

それでも尚、気丈にも佐助に懇願した。


「連れて行って下さい!!!」

その鬼気迫る様子に佐助はしばし固まっていたが、何とか首を縦に振った。



二人が河原に着くと、そこは凄い人でごった返していた。

噂好きの野次馬がヒソヒソ話している声が千春の耳に入ってくる。


「入水自殺だって?」

「あぁ、でもすごいのはそんなことじゃない。今回のは男と男の心中だよ!」


相手の男は興味を持ったようだった。


「何、そいつは珍しいな。一体どこのどいつだ?」

血の気が引いた千春の耳にはそれ以上の話は聞こえてこなかった。


気づけば佐助が、両手で千春の耳を塞いでいた。その大きくて分厚い手は震えているようだった。

遣る瀬無い顔をして千春を庇おうとしている佐助を見て、千春は静かに彼の両手を下ろした。


「……ありがとうございます、佐助さん。私は、大丈夫ですから……」


人混みを掻き分けて、噂の元へと少しずつ近づいていく。


見えてきた二体の遺体の上にはゴザが敷かれていた。ゴザからはみ出ていたのは、下腿だけだった。

ふらりと近づく千春。


その一体の遺体に覆い被さるようにして、一人の女が泣いていた。

泣きながら天を仰いだ女の横顔を見て、千春は衝撃を受けた。


その女は、フランス料理店精養軒で挨拶した女だった。

夫の知人の婚約者である女ーー


点と点が繋がり、全てのことが符合した。


夫は、あの美しい男性と、恋に落ちていたのだーー


急に地面が消え去ったような錯覚を起こし、足元が覚束なくなった。

膝から崩れ落ちた千春を、佐助は慌てて支える。


「どうしてーー」

涙が溢れてくる。


「どうしておっしゃって下さらなかったのですかーー」

虚無感でいっぱいになった千春は、それ以上何も出来ず、唯々涙を流した。




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