自責 2
妊娠を告げられた時、一瞬頭が真っ白になった。
しかしそれはショックや戸惑いから等では無く、純粋に驚きからの事だった。
その証に真っ白となった頭のキャンパスは、直ぐに色鮮やかに彩られていった。
喜び、興奮、感動、、、色んな感情が頭の中を染めて行く。
しかし想いに反比例して、言葉は何も出て来ない。
美佐を抱き締めるのが精一杯で、それがもどかしかった。
「産んで、、、いいよね、、、?」
不安を圧し殺したその言葉に、松井は抱き締める腕に力を込める事で応えた。
そして1ヶ月後、2人は正式に籍を入れた。
自分が父になる、、、
その事で世界の全てが変わった気がした。
仕事はただ「食う」為の手段では無くなり、なんとなく続けていた空手も単なるケンカの「道具」では無くなった。
守るべき者が増える、それにより全ての事の意味や価値は変わり、取り組む意識すらも変化した。
美佐も看護学校を辞め、母となる準備を始めていた。
そんな来たるべき幸せな日々に備え、3ヶ月が過ぎたある日の夜、、、
松井は道場での練習を終え、美佐が実家に帰っていたので近所の中華料理屋で食事を済ませた。
店を出て直ぐに声を掛けられた。
「オイッ、コラッ!」
ささくれ立った声が響く。
見ると昔に敵対チームのメンバーだった2人が立っていた。
見覚えはあるが、こんな雑魚の名前までは覚えていない。
自分がそういう世界から引退して2年以上が経つというのに、その2人は相変わらずあの頃の空気のままだった。
「よぅ久々やのぅ松井、、、あの頃はえらいどついてくれたのぅ~」
「ほんまほんま、、、世話なりっぱなしやったなぁ」
不快な笑みと物言いでゆっくり近付いて来る。
「なんやお前ら、、、20歳も越えたっちゅうのに未だそんなザマかいや、、、成長しとらんみたいやな」
冷やかな視線と言葉を返す。
すると直ぐに「事」は始まり、直ぐに「事」は終わった。
ズタボロになった2人を見下ろすと
「2度と俺に関わんな、、、」
そう言い残し立ち去った松井。
しかしである、、、2人はこの警告を無視した。
腹いせに、日中買い物帰りの美佐を襲ったのだ。
突然バットで殴り、倒れた美佐の腹に蹴りを入れた。
ここで通行人が叫び声をあげた為に走って逃げた。
目撃情報から直ぐに2人は逮捕されたが、2人の供述から原因となったケンカの事も警察の知るところとなり、松井も「傷害罪」で略式起訴処分となった。
しかし最大の悲劇は、、、
この時に受けた蹴りが原因で、美佐の中に息づいた新しい命の灯が消えた事だった。
自分の軽はずみな行動で、2人の希望であり美佐の望んだ幸せは露と消えた。
今思い出しても、重くのし掛かる自責の念で息が乱れる、、、
そしてようやく2人で悲しみを乗り越えた頃に、今度は松井がバイク事故で重度の障害を抱える事となってしまった。
下半身不随となった以上、美佐を母親にすらしてやれない、、、あれほど色んな物を与えてくれた彼女に、自分は何一つ与える事が出来ない。
いや、それどころか彼女にとって自身がとてつもなく重い足枷となってしまう、、、
別れよう。
病院のベッドで自ら下した悲しい決断。
その想いをしたためた手紙を、見舞いに来た美佐へと手渡した。
(帰ってから読んで)
筆談で彼女に伝える。
しかし、その手紙の封は開かれる事無く、その場で破り捨てられた。
美佐の顔は怒りとも哀しみとも取れる表情で、切れそうな程に唇を強く噛んでいる。
みるみる溜まっていく涙が行き場を求めて溢れ出る。
それを拭いもせず、震える声を発する美佐。
「書いてる事は大体の想像つくよ、、、でも私、決めたから。私が貴方の足になるから、、、口にもなるから、、、だから、、、」
それ以上は言う事が出来なかった。
堪え切れない感情を、泣き崩れる事で放出している。
こんなにも愛してくれる女性を泣かせた上に、今は寄り添う事も抱き締める事も出来ない、、、情けない。
動かぬ身体を呪い、自分勝手に別れを選ぼうとした己を恥じた。
松井は知らぬ間に自らも落涙していた。
そして言葉を発っせなくなった役立たずの口でも、嗚咽が洩れる事を知った。
こうして事故から10年経った今も、誓いの通りに足となり口となってくれている美佐。
そんな彼女が、先日誕生日を迎えた。
いつもなら
「何が欲しい?」
と尋ねても
「何もいらない」
と松井を困らせるのだが、今年は珍しく彼女の方から
「1つ、どうしても欲しい物があるんやけど、、、」
とおねだりして来た。
「何?」
松井が手話で尋ねると
「やっぱり貴方の遺伝子をこの世に残したい、、、」
そう言って人工受精に関する書物や、病院で貰ったらしいパンフレット等を取り出した。
こうして人工受精を決めた2人は、今カウンセリングを受けている。
思い出自体は苦い物だが、今はこうも思う、、、
こんな身体になったからこそ気付けた事や得た事もある、、と。
普通に生きていたなら、、、健常者ならばそれらは知る事が出来なかったかもしれない。
何より自分には宝物に等しい美佐が居る。
もし人工受精が成功したなら、宝物が増える事にもなる。
そうしたなら、3人でゆっくりハッピーエンドに向かって歩いて行こう。
今はまだ道の途中だが、障害を抱えていても自分の人生は「悪くない」今はそう思えている。
そんな事を考えながら、後ろに立つ美佐を車椅子から見上げると、吉川と藤井のやり取りに目を細める顔が見えた。
松井の視線に気付いた美佐が
「ん、何?」
という顔を向ける。
(あ・り・が・と)
1文字1文字、ゆっくり心を込めて口を動かす松井。
口の動きを読み取った美佐は一瞬キョトンとしたが、直ぐに心の内まで読み取ったのか、笑顔で首を振り
「こちらこそ、ありがとう」
そう言ってその美しい笑顔を近付けた。