恐怖を凌駕せし物、、
リングでは第2試合が始まっていた。
朝倉が率いる明石の格闘集団「烏合衆」より、キャリア10年のベテラン遠野 匠が参戦。
対するのは、かつてグラップスの試合で水戸に秒殺された、佐々木 昇である。
2人がお互いの存在そのものをぶつけ合っていたその頃、試合を終えた藤井は控え室で吉川と過ごしていた。
「頑張ったご褒美に、週末ご飯奢ったげる。何食べたいか考えときぃな」
自分で言っておきながら、吉川は驚いていた。
心の病を抱えてからと言うもの、個人的に誰かと関わる事は極力避けて来た。
もちろん藤井とはよく話すしLINEをやり取りしたりもするが、一緒に出掛ける事は無かったし、今後もそのつもりは無かった。
それが自分から食事に誘っている、、、その事に驚いたのだ。
離婚して子供と離れて以降、人を愛せなくなっていた。
それどころか自分の事すら大切に出来なくなった。
自分を愛せない人間が、他人を愛せるはずが無い、、、だから当然ながら恋愛もしていない。
言い寄って来る男も居たし、行きずりのSEXを楽しむ事もあったが、恋愛関係になる事だけは断じて拒んで来た。
いや、、、厳密に言うならば、愛せなくなったと言うより愛する事が怖くなったと言う方が正しい。
離婚した夫の事などはどうでもいい、しかし子供との別れは今思い出しても心が沈む、、、
泥沼に飲み込まれる様な絶望感に襲われ、全てが嫌になってしまう。
大切な人間を失う事の辛さと恐怖を知ってしまった。
あんなに辛いのなら、誰の事も愛さなければ失う事も無くて済む、、、と、「愛」その物を否定する事で、自分を守って来たのだ。
正直に言えば、自分を慕ってくれる藤井を受け入れる事も怖かった。
しかし彼を見ていると、忘れていた母性がじくじくと滲み出るのを抑えきれなくなる。
確かに今までは、離れた息子とその姿をどこかで重ねている部分があった。
それだけに思い出して苦しくなる事もあったし、藤井に対しての罪悪感があったのも確かだ、、、
しかし今日はっきりと自覚した。
自分はこの子を見ていたい、、、
関わっていたい、、、
すなわち愛しているのだと。
息子の代役などでは無く「藤井 一彦」を愛しく想っているのだと。
人との関わりや愛情を拒んで来た吉川の中で、関わりたいという「愛情」が失う事の「恐怖」を凌駕した。
吉川は思う。
受け入れよう、、、と。
もう1度だけ人を、、、
勇気を出して自分の事をママと呼んでくれたこの子の事を、、、精一杯愛してみようと。
想い想われる悦びを思い出させてくれた少年。
その顔をまじまじと見つめる内に、吉川は無意識に呟いていた。
「ありがとう」
それに気付いた藤井が不思議そうに顔を向ける。
「なんで?ぼく、、、お礼言われる事、、、してない」
「いいのっ!気にせんといて。で、何食べたいか決まった?」
問われた藤井が、何やら言いにくそうにモジモジし始めた。
俯き、両の手を擦り合わせ、時々上目遣いに吉川を見ている。
「何?、、、何んでもええで。ステーキでも焼肉でも遠慮せんと食べたい物を言いぃや」
優しく問い掛ける。
「、、、ママのご飯、、、ママの作ったご飯が、、、食べたい、、、」
言ったは良いが目は游ぎ、体はクネクネと落ち着かない。その様子からも勇気を振り絞っての言葉だったのだと理解出来た。
「わかった。ママ、腕によりをかけるわ。何作って欲しいん?」
しゃがんで目線の高さを合わせるが、藤井が俯いたままなので、覗き込む様にして尋ねる。
その表情は木洩れ日の様に暖かい。
吉川のその言葉に安心したのか、ようやく子供らしさを取り戻した藤井。
「えっとね、、、カレーがいい、、、ママのカレー食べたい、、、」
弾ける様な笑顔で体を揺らしている。
「わかった!じゃあ土曜日に作ったげるから、家においでね」
そう言って撫でた吉川の手を頭に載せたまま、喜色満面で小躍りする藤井。
直ぐ傍では、子供が作れない為に人工受精を検討中の松井夫婦が、その様子を微笑ましくも何処か羨ましそうに見つめている。
その時、試合終了を告げるゴングの音が遠くで響くのが聞こえた。