青菜に塩
あの日のエキシビションを終えてから、1度も室田と会えていない鳥居。
己の中では達成感も満足感も充ち充ちている。
それだけにあの時ヒントをくれた長老の感想を聞きたかった。
しかし顔を合わせないままに日にちだけが過ぎている。
もしかしたら自分とは違う時間帯に来てるのかも、、、
そう思い、崇や他のメンバーに訊いてみたが誰も見ていないと言う。
もどかしさが胸を焦がすが、自分から連絡を入れて感想を聞き出すのは何か違う気がする。
(なんやねん、、、感想の連絡くらいくれてもええのに)
鳥居は少々拗ねていた。
お互いの連絡先は知っている、、、しかし向こうからの連絡が欲しかった。
(こっちからは連絡せえへんっ!)
そんな子供じみた、訳の分からない決意を固めて片意地を張る、、、自分の想いだけに引かれ、彼はまたもや「張るべき物」を誤っている事に気付かないでいた。
グラップス参戦からちょうど1週間後。
12月19日の夜、時刻は9時半を過ぎていた。
会員は全員帰り、スタッフ総出で片付けに取り掛かる。
入口付近担当の崇だったが、始めて間も無くの事、中を窺う様に見ている女性が目についた。
年齢は還暦を迎えたかどうかといった印象。
黒地に雪を被った松の柄、、、この季節に合った和服を着こなし、銀に染まったその頭髪は定番の「夜会巻き」に纏められている。
一言で表せば「品の良い婦人」だが、品の良さの中に得も言われぬ迫力があり、その目の奥には意志の強さが宿っている様に感じる。
「何か御用でしたら伺いますよ」
崇が声を掛けると
「御仕舞いされてる所、えらいすみませんなぁ」
そう言って首を傾げる様に頭を下げる御婦人。
その所作から、高級クラブのママや芸妓を連想させた。
「こんな所では何んですし、中へどうぞ」
「じゃあ、、、お言葉に甘えて失礼します」
少しの躊躇いを見せたものの、招かれるままに中へと歩を進める。
「こんなので申し訳ないですが、、、」
そう言って崇がパイプ椅子を差し出すと
「えらいすいません、、、」
微かな笑顔を浮かべ、腰を下ろした。
暗い外では気付かなかったが、こうして明るい下で改めて顔を見ると化粧気は殆ど無く、それどころか目の下は黒くなり頬は痩けて窶れている、、、
色濃い疲れがはっきりと見て取れた。
「私、、、室田静子と申しまして、、、」
その名を聞いて崇は心臓を掴まれた様な気分だった。
長く来ていない室田に代わり、同じ姓を名乗る女性が現れた、、、嫌な予感がする。
いや、むしろ嫌な予感しかしない。
「という事は長老、、、いや失礼、室田さんの?」
嫌な想像を掻き消し、努めて冷静を装う。
「ええ、、妻です、、」
微笑みを携えて崇を見たが、直ぐに外された視線は遠いものへと変わった、、、その様子から予感が確信へと近付いて行く。
忙しなく胸を打つ鼓動、それを深呼吸で無理矢理に抑え込むと崇は覚悟を決めた。
「いつもお世話になってます。最近来られてなかったので、皆も心配していた所なんですよ、、、で、御用件は?」
我ながら白々しい。
用件などとっくに気付いている、、、本当は聞きたくない。
よそ行きの仮面を被り尋ねている自分が、間抜けで滑稽に思える。
しかし心のどこかで「考え過ぎなのでは?」と思う自分も居る。現実逃避と言われようが思い違いであって欲しい、、、そう思う。
予感なんか外れちまえ、、、強く思う。
しかし目の前の御婦人から出た言葉、それは嫌でも現実に目を向けさせられる物だった。
「12月15日深夜、、、正確には16日の午前となりますが、主人の大二郎が逝きました、、、御報告が遅くなってすいません」
彼女も覚悟はしていたのだろう、その顔は疲れていても凛としている。
「、、、やはりそうでしたか、、、奥様が来られた時点でその報告なのではと思いましたが、、、嫌な予感ほど当たるものですね、、、心からお悔やみ申し上げます、、、」
教科書通りのお悔やみの言葉を返す。
「早く言って下されば、皆でお見舞いに行きましたものを、、、」
そう言うと、静子は微笑んで首を振り
「あの人に言われましてん。葬儀が終わってから報告せえって、、、気を使わせたく無いのんと、弱った姿を見せたぁ無かったんやと思います」
少し上に視線を游がせながらそう答えた。
(あの人らしいな、、、)
崇はそう思ったが、ラグナロクに間に合わなかった室田の無念を想うと複雑だった。そんな崇の心情に気付いたのか静子が更に続ける。
「あの人ね、転移が見つかった時、入院はおろか治療も断りはったんです、、、好きな事も出来ずに入院したまま長々とただ命を削るくらいなら、短かかろうが好きな事をして余命を使いたいって、、、」
そこまで言うと何んとも言えない笑顔を浮かべ、懐かしむように小さく頷く。
「そしてこちらのジムに入門しましてん、、、せやから無念も後悔も無い思います」
その柔らかい表情を見て崇は少し救われたが、掛けるに適した言葉は見当たらない。
黙って頷く事しか出来なかった
「その証拠に最期の日にこない言いはりましてん、、、ええ日や、死に日和やわっ、、、て。遺される身の事なんか関係無し、、、ええ気なもんや。でもそんな台詞言えるって事は、幸せに逝きはったんやなぁって」
言ったその笑顔は、先とは違い両の目に涙が溜まっている。
それが溢れてしまう前に指の背でそっと拭うと
「あ、そうやっ!これを渡して頂きたいんです」
それは真っ白い封筒に閉じられた1通の手紙だった。
達筆な墨字で「鳥居殿へ」としたためられている。
崇はそれを受け取ると
「確かにお預かりしました」
真っ直ぐに静子を見つめ、力強く答えた。
帰り行く静子が見えなくなるまで見送ると、堪えていた想いが溢れそうになる、、、
しかし明日この事実を皆に伝えなくてはならない。
その重責が暗雲の様にのしかかる、、、
皆に慕われていた長老の死。
それを伝えた時の光景や皆の反応は想像出来る。
みるみる心に押し寄せる黒い陰鬱、、、それと闘いながら中断していた片付けに取り掛かる崇。
その頭は力無く項垂れ、その口からは数え切れない溜め息が洩れていた。