独り呑み
湊川公園の直ぐ東側、居酒屋ファンの間で全国的に有名な店がある。
「丸萬」
この店の1本東の通りは風俗街の福原エリアとなるのだが、そんな地域に在りながら夜の9時半には閉まるという、健全な営業時間が意外な店。
尤も午前中から開いているので、健全と呼ぶには微妙なのだが、、、
それはともかく多くのファンに愛され、昭和の香りを色濃く残す名店である。
店内は一風変わった造りとなっており、店の中央に剥き出しの板場がある。それを馬蹄形に囲む形でカウンター席があり、その目の前には透明ケースが置かれている。その日の魚介ネタが見える仕様という訳だ。
東側を除いた3方向の壁沿いにはテーブル席が複数設けられ、一応はグループ客にも対応している。
崇はその中の2人掛けテーブル席に陣取り、独りで呑んでいた。
障害の部のメンバーが全員早く帰ったので、スタッフに後を頼んで自分も早く上がらせてもらったのだ。
肴はマグロの刺身と小鉢の筑前煮、だが何よりのアテは前日の試合の記憶である。
飲んべえ達の奏でる心地よい喧騒の中で、あの日の大作の凄さ、不様さ、そして、、、カッコよさ。
それらを思い出しながらチビチビと日本酒を舐めている。
マグロを一切れ口に放り込み、それを噛みしめながらあの試合の流れを頭でなぞり始めた。
イエローカードが出た後も一進一退の展開が続いた。
打撃も組技もほぼ互角と思え、永久に決着がつかないのでは?、、、そんな考えすら頭に浮かんだ。
しかしその均衡は突然に崩れた。
大作の動きがおかしい、、、
鑪を踏みバランスを崩す事が増えている。
それでも果敢に攻めていたが、時間の経過と共にスリップまでもが目立つ様になった。
明らかにおかしい動きに観客も気付き始めており、ザワつきが会場に広がって行く。
当然レフリーも異変に気付き、何度目かのスリップで中断するとドクターにチェックを求めた。
しかし、、、
大作はそれを断固として拒否した。
大丈夫大丈夫とばかりに笑顔で手と首を振っている。
だがそれは裏をかえせば、重大な異変が大作の身体に起こっている事の証明と言える。
チェックされたら確実に試合を止められてしまう程の、、、
崇はタオルを手にした。
それに気付いた大作は、今迄に見せた事の無い形相で崇を睨み首を横に振る。
崇は投げかけたタオルを握りしめたまま、歯を噛み動きを止めた。
確かに敗けられない試合ではある。
しかし、万一にも選手生命にかかわる怪我だったなら、、、
まだ若く、前途ある大作をここで潰す訳にはいかない。
たとえ今回敗れる事となっても、また1から地道にやり直せば良いのだ。
崇がタオル投入を決意した時、悲痛な叫びが耳を貫いた。
「福さんっ!!!」
声の主を見る。
先の鬼の形相が嘘の様な、悲しい程に弱々しい顔がそこにはあった。
痛いくらいに懇願を込めた顔が首を降っている。
そして、、、
その目から溢れる物が見えてしまった。
(そんなん見せられたら、、、)
崇は骨を拾う覚悟を決めると、手にしていたタオルを再び首に掛ける。
「ええのん?止めた方が良く、、、」
高梨が言いかけるが、その言葉を遮って崇は叫んだ。
「わかっとるっ!!」
自らの声にハッとして冷静さを取り戻す。
「スマン、、、わかっとるんやけどな、、、もう少しだけやらしたってぇな、、、」
今度は消え入る様に弱々しく呟いた。
リング上でも問答が暫く続いていたが、次にスリップかダウンをしたら強制的に試合を止める、、、そういう事で話はついた。
普通なら今の段階で止められてもおかしくは無い、それを考えたら異例の甘やかし発動である。
だが再開直後、その時は唐突に訪れた。
そこに攻防など無かった。
ただただ無造作に振った水戸の右フック、それが大作の米噛みを打ち抜いたのだ。
棒切れの様に倒れた大作。
同時にけたたましくゴングが試合の終わりを告げた。
崇と高梨がリングに飛び込んだ時、確かに大作の意識は飛んでいた。失神KO、、、
しかし、ここからの大作が凄かった。
意識が無いままにヨロヨロと立ち上がると、本能だけで水戸の方へと向かおうとしたのである。
立ち上がった大作は白目を剥き、涙も鼻水も涎も垂れ流すがままとなっていた、、
そしてタイツが濡れ、太ももを液体が伝っている。
失神と同時に失禁したのだろう、、、リングに黄色い水溜まりが出来ていた。
しかし、、、
不様なはずのその姿は、ひどく美しく、とても神々しかった。
だが水戸にとってはたまったものでは無い。
そんな状態になっても向かって来る男を見て、水戸の顔面には恐怖が張り付いている。
崇と高梨が両脇を抱え、慌てて大作を止めた。
そのままゆっくりとリングに横たわらせる。
すると意識の戻った大作が、呆けた表情で辺りを見渡した。
「あれ?俺、、、そっか、、、」
状況から全てを理解したらしく、それきり黙って手で顔を覆う。
そこへドクターがチェックをしにやって来た。
結果、右足首には骨折の疑いがあり、右手小指と薬指はその場で骨折を言い渡された。
至急病院へと運ばれる事となり、鈴本の時と同じく担架が持ち込まれる。
すると驚いた事に、あの高梨が声を荒げて喚いたのだ。
「こいつを、こいつをそんなもんに載せんなっ!」
担架を用意したグラップスの若手は、その気迫に圧されて動けないでいる。
それを押し退けると高梨は
「俺が運ぶ、、、」
そう穏やかに告げ、大作を背負ってリングを下りた。
崇も後に続き花道を戻って行く、、、
勿論ファンは花道に群がったが、誰も触れようとはしない。
当然、大作が怪我をしているというのもある、、、
しかし皆、それを見てしまった故に触れる事が出来なかったのだ、、、
場も考えず、人目も憚らず、涙を流しながら進む3人の男達の姿を。