まご
午前9時半、開場まであと30分となっていた。
試合開始予定は午前11時、つまり崇の出番迄はあと1時間半である。控え室に集いし本日の主役達の間に僅かに緊張感が漂い始める。
そんな控え室を暖かな光で照らすべく、太陽の如き男と、その太陽を常に見つめる向日葵の様な女性、大作と優子の2人が訪れた。
先に会った時と違い、グレーのスーツに身を包んだ大作。
優子のスーツ姿は見慣れているが、大作の正装した姿は珍しい。
ほうっ、、と皆から感嘆の声が洩れる。
「馬子にも衣裳とはよく言うたもんやな」
崇が冷やかしの声を掛けると、照れ笑いを浮かべた大作が
「いやぁ、、、そんな歳でも無いんやけどね」
なんて事を宣った。
皆がきょとんとし、控え室いっぱいに「?」が浮かんでいる。
その空気の変化に気付き戸惑った大作、周囲へと小刻みに視線を走らせながら不安そうに呟いた。
「え、、この空気、、何?どゆこと?」
「いやいや、、それはこっちの台詞やがな。そんな歳でも無いって、、、どゆこと?」
顎に手をやり崇が逆に問う。
「え?いや、、今、福さんが言うたんやん、、孫にも衣裳って。確かに今でも爺ちゃん婆ちゃんは可愛がってくれるけど、俺もう成人なってるしな、そんなん言われたら何んかこそばいなっ、、、て、、」
優子よろしく大作が上目遣いで言った瞬間、控え室内に笑い声が爆ぜた。
まさに字の如く爆笑である。
中でも優子のそれは酷く、酸欠で死ぬんじゃないかという勢いで笑っている。
自分が何故笑われているのか理解出来ていない大作、今度は彼がきょとんとしていた。
盛大に笑い散らかした後で息を切らしながらも、崇がようやく口を開けるまでに回復した。
「ハアハア、、あ~死ぬかと思た、、、お前、ひょっとして馬子にも衣裳の馬子を孫っ子の孫やと思ってない?」
「え?孫みたいな小さい子でも、七五三やら入学式で着飾ったら立派に見えるって事やろ?、、、ちゃうの?」
大作が再び上目遣いになると、またもや笑いが巻き起こる。
「も、、もうやめて、、笑い死ぬぅ~」
屈みこんだ優子が悶絶しながら訴える。
涙でくしゃくしゃになったその顔は、最早笑っているのか泣いているのかも判らない。
息も絶え絶えの崇が、眉間に皺を寄せながらクレームを1つ。
「お、、お前、、、試合前に要らんエネルギー使わせんといてくれ、、、」
「俺かてそんなつもりは毛頭無かったわっ!!」
恥ずかしさと怒りが入り交じった様子で、赤い顔の大作が吠える。
ここで皆の間をすり抜けて来た藤井が大作の前に立つ。
「あのね、馬子にも衣裳の馬子ってのは、馬を引いて荷物を運ぶ人の事でね、普段ボロを纏ったそんな人でも衣裳次第で立派に見えるって意味だよ」
説明しながら頬が小刻みに震えている。
明らかに笑いを堪えているのが判る。
人に気を使う藤井らしく、これ以上笑っては失礼だと判断しての必死の我慢なのだろう。
中学生に説明を受けた上に気を使わせた成人の社長、、、
まるで立場が無い。
「マジかっ!?、、、ずっと孫やと思とったわ、、、勉強なりました、、、」
頭を掻きながら大作が言う。
面目丸潰れの状況だが、最後は彼らしい潔さを見せた。
暫くこの話題で盛り上がった後、大作が時計に目をやる。
「あっ!そろそろ俺行かなっ!スポンサーさん来てる頃やし挨拶せんとな。忙しいから試合前は声を掛けられへんけど、今の、、、そんで最後の福さんを特等席からしっかり見せてもらうわ。ほんじゃあなっ!」
そう言うと最後に不敵な笑みを残し控え室を出て行った。
後を追う優子を崇が呼び止める。
「さっきの話やけど、、、細かい事は訊かへんよ、ただ1つだけ答えてくれ、、、ほんまにアイツの足、大丈夫やねんな?」
優子は一瞬だけ戸惑いを見せたが、直ぐに真っ直ぐな目を向け黙って力強く頷いた。
「なら良かった。アイツは俺の憧れやからな、、、変な故障なんかで潰れて欲しく無いんや。でも今の返事で安心した」
その言葉に優子は驚いた。
「とうとうこの日が来てもうたなぁ、、、憧れの人の最後の日」
控え室に来る直前、大作が独り言の様にそろりと吐き出した言葉だった。
(相思相憧)
2人のシンクロに呆れるやら妬けるやら、、、
しかし何故かは解らないが自然と笑みが浮かんでいた。
「あっ!そうそうっ!福さんの試合見る為にこれ買ってん♪ジャジャ~ン!!」
優子が内ポケットから何やら取り出した。
自慢気に手にしているのはサングラスだった。
「、、、サン、、グラス?、、」
崇が不思議そうにそれを見る。
「あ~っ!自分で言うた事忘れてるぅ~っ!」
「はて、、サングラス、、俺、なんか言うたっけ?」
崇の顔にみるみる皺が寄る。
「太陽を裸眼で見たらアカンのやろ?」
優子の言葉で何やら思い出したらしく、顔の皺は瞬時に解放された。
大作のグラップス退団試合、あの時自分は確かにそう言った。だがしかし、、、
「アホ、、俺はどない頑張っても太陽なんかなれへんわ。そんな物必要あらへんよ」
優子から視線を外し、心外そうに吐き捨てる。
解放されたはずの皺が、再び眉間に刻まれていた。
「それを判断するんは福さんや無いよ。私が見て眩しく感じたら、、、これ使うから、、ねっ?」
「、、、好きにせぇ、、、」
ボソッと溢れたその言葉に小さくガッツポーズを取る優子。
「よしっ!!それじゃあ頑張ってねっ♪」
そう言うと跳ねる様な足取りで控え室を後にした。
それを黙って見送ると、大きく鼻息を吐き出した崇。
ふと時計に目をやると、既に開場時間を大きく過ぎている。
10時20分、、、その時まで、あと40分となっていた。