3、 9月12日(1日目)・石鹸万能説
「‥‥あー、マジで死ぬ。これ、かなりヤバい」
現在地は愛媛県・新居浜にあるマルナカの店先のベンチ。くらうはアクエリアス片手に完全にうなだれていた。あまりに疲れすぎて、ここに至るまでの記憶が早くもかすんでいる。というか周りを見る余裕もほとんどなかったので、記憶に残るような何かが一切なかったというべきか。
なんたって現在時刻は午後4時である。けっこうな頻度で休み休みしながら、ようやくちゃんとした形で休憩を挟んだ今に至るまでおよそ3時間。ひたすら無心に自転車をこぎ続けていたのだ。楽しいはずの旅行がだいぶシュールな感じになってきてしまった。というかこの展開は物語的にマズイ。
アクエリアスを一口飲んで、息を吐く。
「おいおい、まだ初日だろ。どんな速度でフラグ回収してんだよ。行く前はあんなに余裕ぶってたくせにさ」
「フラグってのは、回収するためにあるのさ‥‥」
「なんだよその約束は破るためにあるみたいなくだらねえ言い訳は‥‥」
くらうはベンチに座り込んだまま憔悴の色を隠せない。ちなみに甘い物が飲みたいと言いつつ、結局スポーツドリンクしか買っていないのは貧乏s‥‥質素倹約を旨とするくらうには、ジュースなど過ぎた代物であると思えたからだ。
「今日中にできれば今治まで行きたいとか思ってたけど、無理っぽいなあ」
「今治って、家からどんくらいの距離なんだ?」
「150kmくらい」
「そりゃ無理だろ!」
全力でツッコまれてしまった。
「いやだって、四国ん時の最終日は180kmとか走ったし」
「だってそれ次の日がないからって無理しまくっての距離だろ!? しかも途中で完全に参ってたじゃねえか!」
「オレはできる子だ!」
「できてねえから言ってんだよ! バカなの!? 死ぬの!?」
「オレは賢い子だ! そして、この世界で、オレは生き抜いてみせるっ!」
「何で無駄に壮大になってんだよ!」
「旅とは! 壮大で、勇壮で、幻想的でファンタスティックでエキセントリックでろりぷにでつるぺたっとしたものだからだ!」
というやり取りを、くらうはイスに座ってぐったりと項垂れたままおこなっている。我ながら器用な芸当を披露していると思う。
とりあえず、休憩はとった。水分も補給した。ここまで来たら気力が持つ限り進み続けるしかない。寝たいのはやまやまだが、いくらなんでも今から野宿の準備をするのはあまりに早すぎる。
「さあて、気合い入れて、出発進行だ」
という言葉を、くらうは生気の抜けた顔で呟いた。
そしてそこから、1時間も経たない時点である。
場所は道路両脇を自然に挟まれた山道。なだらかな坂がだらだらと続いている道の途中。前を見ると上り坂と緑しかなく、振り返ると下り坂とぽつりぽつりと建物が見えるのみ。
ここに来て、くらうの体力は底をついてしまった。
正直、笑えない。前後には何もなく、手持ちの飲み物もなくなってしまった。ゼリー飲料も2つほど持ってきていたが、それもつい先ほど飲みきってしまった。
上り坂になっているせいで、ただでさえ重い足はほんの数m進むことすらかなわず、ペダルに足をかけても車輪は前へ進もうとしてくれない。
絶望的。そんな言葉がこれ以上似合う状況は他にないだろう。前進も後退もできず、水分補給も食事もできないのでこの場で野宿というのも、あまりに過酷な手段となる。そもそもまだ日は高く、わきに避けるほどのスペースもほとんどないこんな道のど真ん中で寝られるはずもない。
「なあくらう、どうすんだよ。さすがにちょっと、ヤバいんじゃないか」
「そうだな‥‥いい加減ケチ臭いことも言ってられないと思ってるんだけど、自販機すら見当たらないんだよ。正直、どうしようもない」
くらうはわずかに広くなった歩道の縁石に腰掛け、とにかく足を休めていた。先程から何度も何度も立ち止まりながら這うような速度で歩を進めていたが、いい加減気力が尽きかけている。
あまりの状況にきょーこですら不安げな表情を浮かべている。唯一モアだけはいつもと変わらない様子だが、きっとモアはどんな状況に陥ろうと平静を維持し続けるのだろう。その無の心を少し分けてほしい。
緩やかな上り坂もこの山道もいつまで続いているのか全く分からない。どの程度進めばまともに休める場所にたどり着けるのか。今の状態ではほんのわずかな距離でさえ途方もない遠距離に思えてしまう。
前回に引き続き、自転車を押して歩くことはしないという縛りを、くらうはこんな状況下ですら律儀に守っていた。守っていたというより、無意識に行ってしまっていたというべきか。今にして思えば、こんな状況でくらい歩けばいいと思うが、この時はどうしても譲れないこだわりとして意識下に定着させてしまっていたのだろう。
「参ったな‥‥ここまで脚がなまってるとは思わなかった」
「準備を怠るからだろ。2日前に決めたって時点で、かなり無謀だったんだって」
いつも通り憎まれ口を叩いているようで、しかしいつものようなトゲはあまり含まれておらず口調はどこかいたわるような柔らかさがあった。
「もう‥‥ゴールしていいよね」
「できたら苦労しねーよ」
「きょーこラッシュ、僕はもう疲れたよ‥‥」
「なんか技名っぽい! もしくは帰省ラッシュ的なすごい勢いのあたしか!? どっちにしても天使は迎えに来てくれないからな!」
「ちょっと長めのオフいただきまーす。お休みなさーい」
「なんか急に軽いノリになったな!」
「とかやってても現状は変わらないんだよなー‥‥」
「ちょ、急に素に戻んなよ。虚しくなるだろ」
なんだかんだで、このノリを楽しんでいるらしいきょーこである。
と、疲れ切って何もできない状態のくらうの目の前で突如1台の車が路駐をかました。なんだろう、と思う間もなくその車の窓が開き、中からやたら威勢のいい声が響いた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
窓からちょこん、と顔を出したのは1人の妹系幼女――ではなかった。出てきたのは残念ながらおばちゃんの声だけだった。
いまいち状況を理解できないまま、しかし呼ばれているのはどうやら自分らしいということだけはわかり、くらうはその車へと近づいた。窓から漏れる車内の冷気が顔にかかり、それだけでも心地いい。
と、突如窓から伸びた太い腕がくらうの首を締めあげ、車内に引き込むと同時にくらうの腹を掻っ捌き、瑞々しい内臓を引っこ抜いた! ――ではない。
中にいたのは可愛らしい顔をした無邪気系幼女で、その幼女が言うには様々な事情があり彼女は今日からくらうの義妹になるということだった! ――でもない。
中にいたのは1人のおばちゃん。おばちゃんはごそごそと助手席の荷物を漁ると、ずいっとくらうに向かって筒状のものを突き出した。
「ほら、お茶が入ってるから飲みなさい!」
「え‥‥あ、ありがとうございます」
差し出されたのは水筒だった。正直、あまりに唐突な出来事で意味がわからない。しかし、今この状況でこれは願ってもいないことだった。どういう心境かはよくわからないが、くらうはありがたくそれを受け取り、コップにお茶を注ぐとぐいとのどに流し込んだ。
「‥‥美味しい」
そのお茶はよく冷やされており、のどの渇きが急激に潤されていくようだった。
「そのペットボトル、空なんでしょ!? それの中に残りのお茶入れときなさい!」
「え、あ、ありがとうございます」
おばちゃんがカバンに刺さった空のペットボトルを指して言う。くらうはその勢いに若干気圧されながらも、ありがたくペットボトルに残りのお茶を注がせてもらった。
「はい! あと飴もあげる!」
「ど、どうも」
おばちゃんはさらにくらうの手の中に数個のきんかんのど飴を押し込んだ。
「この坂越えて、もうちょっと先に行ったら左手にお弁当屋が見えるから、そこでこの広告持って行って、私に教えてもらったって言えばお弁当もらえるから! そこ私の家だから! お遍路ですって言えばもらえるから!」
おばちゃんはさらに弁当屋の広告をくらうに押し付ける。
「あ、いえ、僕はお遍路じゃなくて」
「いいから、お遍路じゃなくてもお遍路ですって言えばいいから! それじゃあ気をつけてね!」
おばちゃんはほぼ一方的にそう言い残すと、そのまま走り去って行ってしまった。
「‥‥‥‥」
「‥‥なんだ、今の」
嵐のような出来事に立ち尽くすくらうに、きょーこも戸惑いを隠せないようだった。
突然のことすぎて、色々と意味がわからない。
「えーっと、これもあれかな。お接待の一種、なのかな」
「さあ、どうなんだろうね。それにしても、すげえ勢いのおばちゃんだったな」
「なんにせよ‥‥ありがたい!」
くらうはぐっと拳を握って、潤ったノドを感じ、冷たいお茶の入ったペットボトルを見つめた。
「ワケはわかんないけど、でも助かった! ちょっと元気戻ったかも!」
少なくとも、飲み物がないという状況と、先が見えないという状況はひとまず解消されたのだ。距離は知らないが、少し進めば弁当屋があるということだけは確認できた。おばちゃんが車だったので、車感覚の『少し』がどんなものかは若干不安要素だが、ともかく最悪の状況は打破できたような気がする。
「弁当もらえるって、ホントなのかな」
「そりゃあ行ってみないとわかんないけど」
そう言ってくらうは渡された広告に目を落とす。それはほっかほっか亭の広告だった。色々な種類の弁当が美味そうに紙面に整然と並んでいる。どれもそれなりにいい値段をしているが、もらえるというのならこれ以上ありがたいことはない。
「‥‥弁当、こん中のどれでもいいんだろうか」
「それならあたしは肉がいいな!」
「そりゃまあそうだな。ま、とりあえず行ってみるか」
くらうは広告をポケットに押し込むと、再度自転車にまたがった。
あいかわらず足はマトモに動いてくれない。が、もう少しくらいなら踏ん張れそうだった。
ありがたいことに上り坂はそこからさほど続いておらず、しばらくもしないうちに下り坂に差し掛かった。
「うおー、気持ちいいー。下り坂がこんなにありがたいと思ったのは久しぶりだー」
「どうせだったら、一番高いやつもらおうよ。肉がいっぱい入ってるヤツ」
きょーこはいつの間にかポケットから広告を抜きとり、じっくりとそれを眺めていた。食い物のことになると急に元気になるヤツである。
「すぐって言ってたけど、すぐには見当たらないな」
坂を滑るように下りながらきょろきょろと左手を確認しているが、それらしい店は見当たらない。
下り坂が終了し、平坦になった道をしばらく走り、もしかして見落としてしまったのだろうかとやや不安になりかけていた頃、ついにその看板はくらうの視界に飛び込んできた。
「あ、あった! あった! くらうも1個、みーつけた!」
「えー、あたし見落としたりしてないのにー」
と、某聖杯系幼女の台詞を借りながら辿り着いたのは、小ぢんまりとした弁当屋だった。やや距離はあったように感じたものの、概ねおばちゃんが言っていた通りの場所で、広告の通りのほか弁だ。間違いないとは思うが、なんだか色々と不安になり店の前で立ち尽くす。
ここで間違いないのだろう。が、しかしあのおばちゃんの存在がそもそも謎なのだ。弁当をくれると教えてはくれたが、突然押し掛けて「すいません弁当くださーい!」なんて言うわけにもいかないだろうし、どうしたものか。
「なに悩んでんのさ。突っ立ってても仕方ないだろ。とりあえず入って、聞いてみなよ。ダメならダメで帰りゃいいじゃん」
「‥‥それもそうか」
入って出るだけというのも気まずい気はするが、こんな場所に立ち寄るのなんてどうせ今回限りだ。よくわからないが、ダメもとで行ってみるか、と決意を固めた。なんたってタダで弁当がもらえるのだ。本当にもらえるのならこんな美味しい話はなく、失敗しても損することはない。
――となれば、退くという選択肢はない! 貧乏性の精神は、遠慮という精神をも上回るのだ! ‥‥いや、貧乏性じゃねえし!
「たのもー!」
なんて言って入ったら変態なので、くらうは控えめに「こんにちはー‥‥」と言いながら店のドアを開けた。
店内は狭く、入ってすぐにカウンターが設置されており、カウンターの下部はガラス張りのケースになっていて、様々な弁当のサンプルが並べられている。今現在カウンターに人はいないが、奥の厨房でなにか調理をしているらしき音が聞こえてくる。
「あのー、すいませーん。こんにちはー」
くらう自身が半信半疑ゆえに、あまり大きな声は出せず控えめに何度か呼びかけていると、ようやくくらうの存在に気づいた店員が店の奥から姿を現した。
「いらっしゃいませ」
「あのー、えーっと」
なんと説明したらいいものか。やや言葉に詰まりながら、くらうはどうにかここに来た経緯を説明しようと試みる。
「そのー、さっき偶然おばさんに出会って、その、自分に会ったことを伝えれば、お弁当がいただける、みたいなことを、お聞きしたんですが‥‥」
試みるが、どうにも上手く説明ができない。なぜなら状況がよくわかっていないからだ。
店の人はもごもごとしゃべるくらうをしばらく不思議そうに見つめていたが、やがて得心したと頷いた。
「あ、お遍路の方ですか?」
「えっと‥‥そうです」
「ちょっと待っててください」
ウソをつくのは少しためらわれたが、教えてくれたおばちゃんが良いと言ってくれたのだ。だからまあ良いのだろうと肯定すると、店の人は再び店の奥へと行ってしまった。説明の内容よりは、くらうの明らかに旅行中な服装を見て思いついてくれたのかもしれない。
ここで待っていればいいのだろうか、とよくわからないままとりあえず待っていると、店員は慣れた手つきで弁当を袋に入れて、くらうに差し出してくれた。
「はい、どうぞ。頑張ってくださいね」
「‥‥あ、ありがとうございます」
それが目的で来たとはいえ、やはり信じがたい状況に戸惑いながらもそれを受け取ると、くらうは弁当屋を後にした。
あまり店の前でじっとしているのもアレなので、弁当をカバンの中に傾けないよう詰め込むと、くらうはすぐに自転車を走らせた。
「‥‥マジでもらえたな」
「すげえじゃんくらう! やったな、今日の晩メシはパンだけじゃないぞ! やっほう!」
種類は選べなかったのできっと一番安いノリ弁とかなんだろうけど、豪華でなくとも少なくとも質素ではない晩メシが確定し、きょーこはハイテンションだった。なんか、少しずつくらうの貧乏に順応してきている気がする。
とはいえ、ありがたいのは否定しようのない事実だ。なんだかんだで上機嫌になりながら、くらうは疲れ切った体で自転車をこぎ続けた。