越谷オサム『陽だまりの彼女』に横たわる黄色いマニエリスム
「女子が男子に読んでほしい本ナンバー1」という触れ込みで、各本屋の見えやすいところにうずたかく積まれていた本書を私が手にするに及んだ理由は、そのあおりを真に受けたわけでも、真に受けて手にとった読者がいるという背景を考察するためにでも、ましてやそこにあるエンターテイメント性だけを切り取って需要し、無聊の慰みとするためにでももちろんない。ならばなにゆえ本書を購入する仕儀とあいなったかといえば、何の気なしに書肆をぶらぶらし、さて次はどんな文献を渉猟しようかしらんと口笛吹く心地でいたところへ、劈頭のごとき惹句を見つけたものだから、有閑を持て余した老人が孫を玩弄するように「どれ」と思い、その時点ではさらさら買う気はなく、冒頭の数ページをひやかしたのだった。折り悪しく車軸を流したような沛然たる豪雨が連日降りしきっていたこともあり、しとどに濡れそぼった私のボロ靴はキュッキュッと足を組み替えるたびにゴマフアザラシの鳴き声めいた音を鳴らし、レジスター前の身を隠せる何物もない書棚の手前とあって、その姿はなかなかに目立っていた。客足がまばらだったこともあり、立ち読みし続けることにそろそろ限界を感じはじめた辺りで読みさした。越谷作品に触れたのはこれが初めてであった。雨の日に陽だまりと題した作品を手に取ったので、その印象は苛烈きわまりなかった。
『陽だまりの彼女』冒頭数ページでは、主人公の浩介が昔馴染みの真緒と取引先との商談中に再会して面喰ったりしている場面が描かれている。しかも真緒は、冒頭一文目、先方の人間として刺を通じてきたのだ。つまりは商売相手として、真緒というヒロインは浩介の前にやおら姿を現したのだった。
越谷作品が好きな読者は、あるいはこの『陽だまりの彼女』という小説が好きな読者は、言うまでもなく一度ならず二度でも三度でも本作を読み返しているだろうから、作品内に細かくちりばめられた伏線や、物語の顛末の示唆などには当然気づけているものとして、ここでは私は単にストーリーラインに沿った解説はせず(そちらの方は新潮文庫版にて瀧井朝世が紙幅を割いている)、作者によって技巧的に配色された実学否定のエクリチュールをつまびらかにしていきたい。というのも、私はさきにあげた冒頭数ページのビジネスの現場から、そこはかとなく作者の感性によるポストモダンの芳香を嗅ぎ取ることができたからだ。
そもそもポストモダン文学というのは、修正資本主義国のなかで国家がその本来になうべき役割を放棄していたり、また全体のために強権を用いて卑小な個をないがしろにしていたりする時に作家の表現の中に芽生える時代的なオブセッションの発露である。などといってしまうと、この小説がそんなごたいそうな旗を掲げた内容のようには読めないと思う読者もいることと思う。だが、たとえそれがエンターテイメントのために作られたものであっても、作家個人の興趣のおもむくまにまに書かれた低俗の域を出ない作品であるかというと、必ずしもそうではない。たとえば宮崎駿は、その著書『本へのとびら』の中で、児童文学がかかれるわけは作者の想像力が軒並み子供と同じ目線であるから、などという短絡な動機のはずはなく、むしろイデオロギーに凝り固まった大人に何を言っても無意味だと失望と落胆を禁じ得ないために、次の世代をになう子供達に真実を伝えるべく、子供の視程に合わせつつ同時に考えさせられるように仕上げるのである、というようなことを言っている。私なぞはミヒャエル・エンデの『モモ』がその最たるものだと思うのだが、いかがなものだろう。
ともあれ、およそ学問的な内容から遠ざかっている作品であっても十分にポストモダンたりえることは以上で一応の説明をしたものとする。尤も東浩紀はそのような傾向のある現代的なエンターテイメント小説・ライトノベルのことをして『動物化するポストモダン』と名付けているのだが、さて、本題に入ろう。私は冒頭の何を読んで、この『陽だまりの彼女』をポストモダン小説と読んだのか。
ビジネスとは基本的に、競争である。これは自明である。小学校でも競争は当たり前にやられているし、むしろ人と競い合うことは自分自身の成長と修養につながって喜ばしいことと、誰もがそう確信していることだろう。しかし、ポストモダンとはそうした人々の間で「当たり前・普通・常識」とされてしまっている物事について真っ向から異を唱える思想のことをいう。『新自由主義批判の再構築』の筆者、赤堀正成はこう述べる。どこだかのジャングルに住まう民族に、「ここの木からあそこの木まで誰が速くに辿り着けるのか、やってみてくれ」とお願いしたところで、彼らは一向に誰一人駈け出そうとしない。競争をすることの意味がわからないばかりか、同じ人間同士で争うことの必要性を彼らは疑っているのだ。つまり、そこに人間的成長につながる機会があるという風には彼ら未開人は考えない。人間は本来、競争をしたがらない温和な生き物なのだというジョン・ロック的自然状態の存在を我々はこの話から知ることができる。
しかるに現代日本人は、コンペティションやなんぞで他者・他社を蹴落とすことを当たり前のごとく知覚しているし、そうすることが正義で、自然で……という感覚を集合的無意識として天から頑なに信じ切ってしまっている。P8で、その感覚が「自負」と記されているあたりに、私はポストモダンの残滓みたいなものを汲み取った。「それのどこがいけないのか? 現に社会がそう動いているじゃないか」という意見を持つ人間は多くいることと思う。しかしこの感覚を暗に批判することこそがポストモダンのいわば醍醐味でもあり、たかがエンターテイメント小説といわず、この作品は丁寧に読み込んでいく必要があるなと私は感じ入った。「それのどこがいけないのか」という意見にたいしては、そもそも修正資本主義というものは、資本主義が本来抱える冷たい構造――耐久商品の登場とともに財の売り上げが滞り、経済成長幻想は頭打ちをくらい、賃金がさがったり、大量失業につながったりして貧困層が拡大していく――によって爪弾きにされてしまった人々を、政府が何らかの形で救済・フォローをしてこそ成り立つ国家なのである。遅れた者の背中を押してやらない近代国家なぞ、もはや国家の名を冠すにはおよばない。しかし、アダム・スミスの「神の見えざる手」ばかりが学校教育やテレビの陳腐なクイズ番組によって一人歩きしてしまい、学問的な蘊奥は人々の希求する「わかりやすさ」の壁に阻まれ、ついには自分のことは自分でなんとかせよという、親方日の丸でいられる人間の言いふらす「自助努力」が大衆の心にすっかり根付いてしまった。その自助努力の考え方が、貧困者の生活保護の申請を難しくしているという事実は、話題になった湯浅誠の『反貧困』を読めば明らかだというのに。つまり、人々は資本主義の本来の意味をはきちがえて解釈してしまうあまり、「わかりやすい」言葉で教えてくれるテレビや学校教育のようなあり方・情報伝達のしかたこそが正しいもの――宮台真司風に言うならば、「よきこと」――だと、そのわかりやすさによって人々はすりこまれているのである。インターネット界隈では、こうした人々のメディアリテラシーの低下、クリティカルシンキングの欠如のことをして「(日本人の)総白痴化」などと差別的な揶揄がなされているが、しごく尤もといわざるをえない。
では、そうした日本人の価値観はどこで植えつけられ、すりこまれていったのか。それはとりもなおさず、アメリカに対する右へ倣え精神に、よってきたるところがあるだろう。敗戦後、日本はサンフランシスコ平和条約の調印を前にして、全面講和かアメリカ一国との単独講和かで大きく揺れた。道を踏み外したところがあるとしたら、ここにしかありえない。爾来日本人は、それはもうお追従のごとく急速にアメリカ化していき、その過程で本来の日本人的古式ゆかしい美意識は薄れ、一汁一菜はジャンクフードへととってかわり、ギブミーゲンパツの懇願で造られた地震のない国・アメリカ製の原発は期待通りメルトダウンを惹起した。ごく当たり前の家族形成として『サザエさん』一家の例とともに紹介される核家族化などもアメリカ化による弊害と解釈でき、郊外にマイホームをローンで建て父親が都内へ働きに出て、母親が教育ママとして家事の切り盛りをしていくという構図のルーツはアメリカ労働者の価値観なのである。父は高額なローンを組んでしまったために夜遅くまで働き、長い通勤時間を経て自宅と会社を往復し、文字通りのベッドタウンとして家に帰りつく。家に帰ってもそこでの父親の扱いはさんざんで、お金を運ぶためのマシーンとして労働者の父はこの国に存在している。……思い出してみてほしい、真緒と浩介が最初に別離を経験したその理由が、ほかならぬ浩介の引っ越しにあったのだという事実を……。そのために作者は、二人の蜜月の舞台を世間的に融通の利く郊外から巧みにずらさなければならなかった(P194)。
さて、長々と書いてしまったが、ざっと以上のことに対する不満が形をとって現われたのがポストモダン小説なのであり、本文中にある「アメリカだなぁ」(P32)や「ねずみ色のプロペラ機」(P40)は、いずれも読み飛ばすにはおしい作者の残した強烈な皮肉だとは読めまいか。とりわけ後者の「プロペラ」というのは随所に登場していて、たとえばそれは換気扇であったり、時には喞筒であったりと、周期的な動きを続ける機械として物語の間あいだに登場する。これらは個人としての物語を破棄して集団の中の一労働者としての物語を当たり前のように甘受し、アクシデントや椿事を忌み嫌い日常のサイクルの維持を何よりも好む一般人への一種のアンチテーゼのようにも読める。だからこそ、「陽だまり」と題して終始ポカポカする気持ちに読者を包んでくれる暖かなストーリーが進行する裏で、吹かれる空気はいつでも寒く冷たく、二人が睦みあう季節は冬で「ビル風」(P60)が吹きおろし、不要とも思われるビジネス的会話が露骨に二人の恋の中に割って入ってくるのである。同時期に文庫化された有川浩のベタ甘恋愛小説『レインツリーの国』には、職場で受ける嫌がらせ等の実態は暴露されつつも、「陽だまり」に頻出するようなビジネス的シーンは一切描かれない。その理由を「越谷オサムが等身大の自分として多くの読者の共感を呼びたかったからじゃないのか」と言われてしまえばそれまでなのだが、しかしやはり私にはどうしてもマーチャント主義的なものの著しい台頭がプラトニックラブの背景にいちいちついて回っている(プロペラ、換気扇)のが気にかかってならなかった。
さて、ここまででざっくりとではあるが、作品に流れるポストモダン的傾向については理解いただけたことと思う。説明不足の感がいなめないのは当の私とて同様なのだが、語りたい「読み」がまだまだあるので、ここらで話頭を転じようと思う。次に私が論じたいのは、これまた作品に流れる「記号」化とペルソナの剥離だ。
いきなり記号化といわれたところで越谷オサム読者の多くはなんのことだかわからないだろうから簡単に説明しておくと、つまりこの「簡単に説明する」という行為自体が一つの記号化であるといえる。
その原義、もとい元ネタにあたるのは大塚英志の『サブカルチャー文学論』で、その中に「まんが・記号的リアリズム」という言葉が出てくる。サブカルチャー研究を事とする山田夏樹はそれを「記号の身体」とテクニカルターム化して、様々な作品を関連させて論じるという凄い言説を可能にした。その意味するところは手塚治虫が『鉄腕アトム』内で煩悶させた、心をもたない不完全な象徴としてのロボット=アトムを記号の身体として、対立する構図を持つ「完璧」の表象が生身の身体であると。山田夏樹はマンガに多く見られる必殺技とは子供=「父」を持たぬ不完全たる日本が、大人=完全なアメリカを打倒する手段として解釈しており、子供/大人という構図に日本/アメリカという図式を見出す。これを踏まえて山田は、「ロボット(不完全表象)が出てくればそれは文学」と大胆な読みをひけらかしていた(小林秀雄が学生時代に「文学とは何か、なんて答えがあるわけないだろ」と激怒してレポート提出を拒んだことを思えばなおさらだろう)。さて、『陽だまりの彼女』には明確にロボットが出てくる描写はないが、この小説は果たして文学と呼べるだろうか。ロボットとはそもそもにおいて、抑圧された労働者自体を体現する言葉であるから――ロボットとは、カレル・チャペックの戯曲『エル・ウー・エル』に初出するチェコ語「robota」とスロバキア語「robotonik」の合成語であり、それらは「労働」を意味する――、ビジネスパーソンとしての当たり前の生活が描かれている本作はその意味でエンタメの枠を食い破り、十分に文学たりえているといえる。
閑話休題。要するに私のいう記号化とは、現実に生きる人間をフィクションの登場人物と一緒くたにして十把一絡げに扱ってしまう人々の感性のことをさすものであり、具体的にいうと、「Aさんはお堅くてまじめなキャラだから、今度の食事会には誘わなくていいよね」だの、「Bさんはおちゃらけたところのある人だから、ちょっとぐらいからかってもいいよね」だのといった、主観のおしつけと個人の物語の圧殺・ネグレクトがそれにあたる(最近では「肉食系」、「草食系」などに顕著)。村上春樹『アンダーグラウンド』でコリンエステラーゼ値の下がった方々から見た「信者の側」に対する意見などはまさに記号化の最たるもので、「心」をないがしろに扱う近代合理主義的価値観に村上が眉根を寄せているのは『約束された場所で』も併せて読めば明白である。ビジネスマンとは、その採用面接などで自己の人となりを簡潔に説明させられるわけだが、そもそも人間一個の内面を簡潔にまとめて正確にその人の心根を伝えられるかというと、まず間違いなくいえるのは不可能だということだ。そのため時間の限られた面接では自己をいかに記号化できるかによって心象が違ってくるという寸法だ。『陽だまりの彼女』本文で挙げるなら「クラシック・イコール・洗練」(P19)をはじめとして、「1」章全体では浩介は昔懐かしさや真緒の美しさ可愛らしさというよりも、その演技力、肩書に惚れ込んでいるように読める。カール・グスタフ・ユングは「社会的肩書(=職業や地位)」というものをペルソナと言い表しており、私はそれの獲得に齷齪すること自体を「記号化の論理」と呼ぶ。プライベートタイムで真緒と落ち合い、ランジェリーメーカーの広報というペルソナから離れた渡来真緒という一個の人間に戻るまで、浩介の神髄にうそ寒くなるほど張り付いていた記号化の定理はヒロインの外観に適用され、途中に過去の「人間的な」生身の体験――マーガリン事件――が挿し挟まれていなければ、おそらく誰もが私の覚えた記号化の気持ち悪さを実感して、この物語に疑念を抱いていたことだろう。しかし作者は巧みな演出方法で、序盤の間あいだに中学時代のエピソードをぶつぎりにいれて社会に「飼い慣らされた」(P数はメモし忘れ、不覚orz)浩介を読者に意識させない。このあたりに私はストーリーテラーとしての力量をみる。
ともあれ、社会人としての浩介はさまざまな意味で色んなものを記号化して解釈したり――オペラのことを「デブの男女が大仰に歌う退屈そうな劇」(P148)と言ったり、挙げたらきりがない――、あるいは億劫がってしたがらないこともある。その、他人の物語を無視するという姿勢が彼女の物語に向き合わないという形で現れ、具体的には音楽への無関心の描写が繰り返しなされる。これについても作者は感動材料の一つとしてちりばめた伏線を最後にものの見事に回収しているが、しかしクライマックスで読者の涙を誘わずにはおけないあの曲以外にも、たとえばBGMとして店内を流れる曲だとか、総じて音楽自体に関心を示さない。本当に誰かを想う気持ちがあるのなら、何にもまして率先してその人の物語を理解しようとあがくはずなのに、社会人・浩介は諸々の雑事や煩瑣な手続きに追われて彼女と物語を共有させようとはしなかった(映画評論家の伊藤洋司は、堀貞一監督作品『妄想少女オタク系』を例に、本当にその人と恋をしたいのであれば、その人が包まれている物語をも愛さねばならないと語っている)。もし作者の技倆が少しでも劣っていて、最後の歌詞が登場しないかすれば、疑いなく多くの人間が浩介の不理解を指摘していたであろう。その意味で、越谷オサムの非凡なる才は目隠しする覆いの両手といえる。
煩瑣な手続きによって物語を共有していない、と私は述べたが、その姿勢は役所に書類を提出したことによって「結婚」という、形にこだわって充実を感じるというあたりに見受けられると思う。きょうび結婚を経験した若者ならばほとんどが、あるいは同衾よりも盛大な結婚式よりも、婚姻届を提出してはじめて「ああ、結婚したんだなぁ」としみじみ実感するのではなかろうか。真緒と浩介もその例にもれず、駆け落ちという一昔前のメロドラマか何かで流行っていたような劇的な行為に踏み切りながら、やはり書類によってその事実を実感としてかみしめている。むろん、二人の愛の印を客観という象をまとわせてアウトプットさせた紙媒体を見てこみ上げてくる心理というものもあるにはあるが、やはり私が思う恋愛小説というのは、何もかもの、一切合財の――そう、猫も杓子もという表現が一番ふさわしいか――、世間的なしがらみから抜け出してこそのボーイ・ミーツ・ガールという気がしているので、そこに書類とかシステムとかいうものが生木を裂くでもなく厳然と登場してくるというのは、どこか野暮ったいように思う。また、本作において象徴的なエンゲージリングの贈呈シーンを読んでみればそのことが一層明らかなようで、家事に忙しい真緒は浩介が想いを形にしようとした企てになかなかのってくれずに、ついには喧嘩になりかけてしまう。浩介としては当然、自分の仕掛けに跳ねるほど喜ぶ真緒を想定して仕掛けたプレゼントなのだから、真緒にすぐ見つけてもらいたいという気持ちがはやっていた。しかしタイミングがいけなかった。世間的な「家事」という、一見なんでもないようでいてそれでいて完遂するころにはぐったりと疲れてしまうこの毎日の重労働にとり憑かれたように従事する真緒は、お気楽なものでいられる浩介に苛立ちを禁じ得ない。結果としてこの後、浩介の企ては見事に成功して生じかけた亀裂はすぐに元通りになるのだが、一瞬読者の前に姿を見せかけた「世間的なるもの」が物語の主流に游ぐプラトニックラブにどれほど無粋な波紋を広げたことだろうか。こうした随所随所に頭をもたげる「不十分な悪としての現代社会のフラクタクルで卑小な一面」が装置として、二人の仲を裂くようでいて、しかし徹底して恋路の破局に乗り出そうとはせず、この物語にそれがなんのために機能しているのかわからせない象で常に暗躍しているのだ。美しい恋に実際的な要素が立ち入る隙はないということなのだろうか……とまれかくまれ、二人は社会的な障壁に阻まれることなく――たとえあったとしても、二人ならば真緒の父親に駆け落ちという手段で反抗したように、何らかの形で乗り越えていただろうが――、ちょっぴり塩辛くとも、結末は心に留め置かれること請け合いの大団円で結ばれるにいたるのである。
ところで本作を読まれた読者ならば、この作品の全編をとおして真緒が浩介よりもお姉さんというか、上手のようにして描かれていることにお気付きのことと思うが、どうだろう。浩介は大学に一浪して進学したため、社会人として真緒は一年だけ先輩なのである。しかしそれだけでなく、かつての「学年有数のバカ」であった真緒に浩介は、仕事の面で遅れをとっている。しかし私が考えるのは、浩介が真緒にリードを許していた理由は時間のせいではなく、鉄研の佐藤をして「業界っぽいキャラでもない」(P211)と、まさに記号的表現で言い表されていた浩介の方にあるのではないかと。この佐藤という人物は、大学を卒業したら就職するのが当たり前という世間の常識から外れた人物であり、要するに彼はその意味でペルソナをかぶっていない存在と読める。社会の提供する物語に踊らされず、自分自身の物語をしっかりとわきまえたこの男の発する言葉はそのまま予言のように浩介を左右し、果たせるかな、真緒に一歩遅れるという形でそれが表面化する。浩介は社会の物語にコミットしようしようと努力したのだろうが、旧知にいわせればそれは彼らしからぬことだったということに他ならない。ならばなぜ、真緒は社会に溶け込めテキパキとたちばたらけているのか? これまでネタバレをおそれてあえて避けてきた真緒の読みにこれから移らせていただく。というのも、真緒にはなんとしてでも他の人に追いつこう、人間並みの能力を獲得しようと、浩介以上に必死に努力しなければならない訳がらがあったのだから。
「猫」は中国語で「mao」の三声で発音する。炯眼な読者ならば、真緒という名前と処々に散在する伏線から、真緒の正体をたやすく看破できていたことだろう。そう、瀧井朝世がその解説で言っている「ファンタジー」要素とは、真緒が猫であるということなのだ。比喩でもなんでもなく、正真正銘猫だから、人間ではないから、彼女は人並み以上の努力を必要とするし、それを惜しまない。社会は人間ばかりでなく、猫だからといって手加減したりはせず、まだ仔猫なのにダンボールに置き去りにしたり――「病気の動物をわざわざ拾ってくれるほど、世の中優しくはないでしょ」(P184)という台詞が胸に突き刺さる――漢字が書けないからといってヒドイいじめに遭わせたり平気でするから、彼女は炬燵で丸くなったりせずに凍てつく風に敢然と立ち向かっていけたのだ。浩介と再び巡り逢うその日を信じて。
彼女が記号化の論理渦巻く社会に器用にコミットできていたのは、そうした苦い経験と「もっと普通にしろよ」(P216)という魔術が折れない心棒となって真緒を支えていたからに他ならないが、彼女が命尽きるタイムリミットのそのギリギリになってほとんど執念で探し当てた浩介には中途半端ながらも物事を記号化する習慣がついていたにもかかわらず、彼女にはそれがなかった。型にはまった計画的なチェックシートを「おおいに捨てなさい」(P120)と言ってのける真緒はこの冷えきった空気の中で、記号化の論理から外れた街路を――夏毛の陽だまりの中を――歩んでいたのだ。「一般に、女の方が切り替えが早いとはいうけど」(P215)という浩介の記号的な見解に対して、「私、そういうのがわからないの」(同)と応じているあたりに、私は「一般」をとんと解さない、また染まりもしない真緒の温かい心を知る。そんな真緒の友人たる山井もまた、真緒をして「モモにはリミッターが付いてない」(P206)と、およそ機械的な人間でないというお墨付きを得ている。真緒を取り囲む陽だまりは、物語という垣根を越えて我々の胸の裡をも温かく照らし出してくれる。
……さて、長くなってしまった本論は、今更ながら三つの柱から成り立っていることをここで明らかにしておく。まず一つ目は、紡がれる恋愛の裏に吹く冷たいビル風を浮き彫りにしようとする作者のポストモダンの姿勢を読み解くこと。柱の二つ目はそれとは反対に、暖かな陽だまりたる生身の身体としての真緒表象に気づくこと。そしてこれから論じる三本目が、作品の技巧的な面、越谷オサム一流のメチエに気づくことである。前の二柱については浩介・真緒を主軸に述べてきたが、以下からはあくまで越谷オサムがどの登場人物にも仮託していない、それゆえに誤魔化しのきかない地の文の妙に視点を絞ってみる。深読みといっても行間を読むようなことはせず、書かれている文章から言質をとるような形で拾い読みしていこうというスタンスだ。
まず手始めに、そもそも真緒の名前がなぜ「真緒」でなければならなかったのかというところから考察していきたい。すでに述べている通り、「マオ」とは中国語での「猫」の発音であるから、ここについては特に不思議がる点はないように思われる。しかし、本作において記号を持たない真緒に「渡来真緒」という記号を付して、人間社会に入るための洗礼をほどこしたのは、果たして越谷オサムだっただろうか? 答えは否。真緒に名前を授けたのは、警察官として彼女を保護した父親であって、これは物語上の当然だが作者ではない。では、真緒の両親は偶然にも、猫の示唆に富む真緒という名前を考え付いたのだろうか? 少なくとも作中では名付けの由来が明確にされていないから、やはり名付けの親として我々は部外者たる越谷オサムの存在を意識してしまう。
猫だから真緒。そんなダジャレみたいな理由で決めてしまって本当にいいのだろうか。その疑問に及んではたと思いだされるシーンが、浩介と真緒のファーストコンタクトのあの時だ。そこは息苦しい思い出のつまった中学校の教室……ではなく、そう、あの銀杏公園、眼の茶色い猫を拾ったシーン。二人の運命の邂逅にしては、「ダンボールに仔猫」というのがいかにも多くの物語で使い古された表象のようで、いささか陳腐に感じたのだが、この古典的ともいえるダンボールの捨て猫と、ダジャレから着想をえたような名前が意味するのは、この作品が単にオーソドックスな換骨奪胎の集合に終始しているなどということでは一切なく、作者によって技巧的に作られた――フィクションであることを、例のテロップを必要としないでもそれとわからせる――フィクション性の強調に一役買っている。ジャン・ジャック・ベネックス作品などの八十年代映画が常に新しいことを求められるヌーベルバーグの磁場から脱するために、作品内の装飾で人工性を高めていったのと同様に、この『陽だまりの彼女』においても、作られるべくして作られたという印象を私は受けた。それが作品の序盤から蜜柑やオレンジなど言い方や形を変えなどして幾度となく現れる橙色の形容である。二人の住まう部屋に射し込む夕陽はいつもその系統の色であるし、どうもページをめくっていくにつれ、作者の色に対する描写の精度はなぜか増していく。どうしてだろう。
ドイツ文学を研究する岩本剛は、ギュンター・ベルン原作『ブリキの太鼓』の映画版を例に、「映像はずるい」ともらしている。というのも、ちょっとしたシーンの移行の間にハーケンクロイツが意味深にちらついたり、キリスト表象としての魚が画面のどこかに映りこんでいたりと、つまりは文字と違って容易に気付かせない技巧を文脈にちりばめることができてしまうからだ。それでいて、たとえば本ならばアクビしいしい読んでいると読み飛ばしてしまいがちな部分も、映像ならば音と画面でボーっとしている視聴者の意識を惹きつけることもできるから、気づいてほしいところ、ないし、「ここがこの物語の一番の盛り上がりどころですよ」というサインを野暮ったくないかたちで送ることができるのだ。小説ならばたとえば、「窓の外から陽光が彼/彼女の面をうった」という表現があれば、それはまさに彼/彼女の表情に注目してほしいから書かれた一文なのだが、うとうと船を漕ぎかけている読書はともするとこの重要な作者の腐心がつまった表現を読み飛ばしてしまうことがある。が、映像はその心配には及ばず、重要なシーンであれば必ずといっていいほどBGM・効果音の類が視聴者の耳朶を打つ。おまけに映像によるわかりやすさ・情報の読み取りやすさも手伝って、眠気を覚えるという人は小説よりぐっと少ないに違いない。
だが近年の小説は積極的に様々な文化を取り入れるようになってきており、その技巧を進化させてきている。『陽だまりの彼女』では見事に小説が映像に譲るところが大きいその表現方法を取り入れられているといえる。具体的にいうと、小出しに用いられるオレンジ色の形容が読者にある程度免疫を植え付けたところで、物語が佳境に入ると、画面――本でいうところのページか――全体を突如として、真っ黄色な情景が曼荼羅華のごとき光彩を放ち、読者の脳裏に一面の金桜を想起させずにおかない演出がなされる。あの銀杏公園での景観だ。
そもそもなぜ、二人の出会いは、初キスの場所は、そして、真っ黄色なそれがバックグラウンドに咲き誇り風に散って舞っては二人を優しく包んで照らす、この物語の随一の盛り上がりどころは「銀杏公園」でなければならなかったのか。同じ花吹雪の役目なら、季節が移ろうのを待ってからの桜でもよかったのではないか。銀杏は臭うし、しかも花ではなくて葉だ。美しさでなら桜の方が断然いい。その疑問はしごくごもっともだろうが、果たして「陽だまり」にこれほどうってつけのガジェットが他にあるだろうか、私はそう考える。
物語の荘重なBGMがぶわっと流れるのは銀杏公園がなによりもふさわしい。なぜなら、この後真緒が姿をくらますまで、夕陽は心なし明度をおとして二人を照らすようになり、落ちようとする「しゅう君」の脱げかかったシャツは橙色なのである。翌朝のカーテンは警告を告げるかのような「トマトのように鮮やかな赤」(P298)と形容され、真緒が作った料理は真っ黄色な玉子焼き。そして、真緒を探して会社まで出向いた浩介の前に立ちはだかったのは、オフホワイト色をしたロビー……彼女と包まれた黄色い風景は、寒天に林立する会社からはとうてい望めなかった。黄色い銀杏は、時として作者の言明しないところにも感動のギンナンをふり播く。
このような作者の細かな技巧は、この恋愛小説全体にどのような示唆をはらませているだろうか。最後にこの疑問を片づけて本論をたたもうと思う。
アカデミー賞受賞作、ダニー・ボイル監督作品『スラムドッグ$ミリオネア』は、まさに経済成長著しいBRICsの幻想に躍る社会の中で、お金よりも愛の本懐をひたすらに追い求める主人公・ジャマールの純愛が、駆け抜ける人生を主軸に描かれている。この映画でジャマールは想い人・ラティカと結ばれて幕が閉じるのだが、その際に「It was written.」という文字が画面に表れてから、インド映画お決まりの出演者によるダンスがはじまる。日本でいえば要するに「この物語はフィクションです」というテロップに相当するのだが、しかしこれは作中にて「本当のアメリカを見せてあげるわ」と、なんでもかんでも金で解決しようとするアメリカへの強烈なアイロニーがあったように、「現実の経済成長国で、こんな純愛なんてありえないよねぇ」という、資本に埋もれてしまい映画のような恋が万が一にも成り立たない社会をあてこすったフレーズのように読める。ラティカがマフィアの家でジャマールに駆け落ちを唆された際、「愛がある」といった彼に対しにべもなく「正気とは思えない」と返して突っぱねる。彼女は現実にそくした――どこどこで働き、どこどこに暮らし、といったような――言葉を期待していたのであり、ジャマールの望むようなプラトニックラブなど形も見えてなどいなかったのだ。ダンスシーンでフィクションであることを強く強調しているのも、ジャマールのような成功が現実にはあり得ない社会であることのアナロジーであるといえる。
ひるがえって、『陽だまりの彼女』の愛はどうだろうか。出逢いでいえばまったくの偶然に違いない真緒と浩介の邂逅も、しかし大人になってからの再会は真緒……もとい、作者・越谷オサムに仕組まれたものとなっているではないか。つまりこのことは、経済的にも科学的にも成熟しきった現代においておよそマニエリスム的でない恋はありえないという、いかにもポストモダン的想像力の一フラグメントを窺見できはしないだろうか。「偽ったのは再会の経緯であり、心ではない」(P217)という一文が、それを証明しているように読める。瀧井朝世にも、せめて「解説」と題するからにはこれくらいの読みを披歴してもらいたかった。
ところで、現今の想像力の貧困さを主張しているのはなにも東浩紀一人だけではない。アニメやゲーム、マンガ、テレビドラマやバラエティー番組など、サブカルチャー方面のトレンドは空気系――中身のない、という意味でのヤオイ的色彩を帯びた――想像力に傾いている。そのことに憮然とする方々は各界に多くおられることは既に周知なのかもしれないが――。
私はいまここに、「猫化するポストモダン」の存在していることを世に問いたい。「初冬の風も暖めてしまいそうな」(P292)陽だまりが、この狭隘なる共同体の必ずどこかにあることを期して。
書店を出ると、外はからりと霽れあがっていた。
私は胸に越谷オサム『陽だまりの彼女』をかき抱きながら、パシャリと水たまりを跳ね上げる。大事なヒトを、かいなにおさめるように、優しい気持ちで。
今日も同じ道を歩む。