さよならの惑星
その写真家には小指がなかった。
なかったと言ってももともとあったものを切ったりして失くしたのではなく、生まれつき付け根からまったくなかった。過不足無く四本指の手、という感じで、まるでそれが当たり前の姿のように見えてくるから不思議だ。
彼に小指がないことに気づいたとき、たぶん痛ましい表情をしていた僕に、彼は笑って、小指がなくても写真は撮れるからまったく問題はないんだと言った。
笑ってたけど何だか寂しそうだった。
思えばそれが彼の本音だったのかも知れない。
***
彼に出会ったのは、ある夏の日の夜。とてつもない山奥の辺鄙な村にある、寂びれたバス停でのことだった。
僕は長い間、ベンチに座ってバスを待っていた。
そこに声を掛けてきたのが彼だった。
「余計なお世話かもだけどさぁー。」
と、その男はどこか間のびをした声で言った。
彼が話しかけているのは僕なんだ、と気づくまで、ふにゃけた頭で数秒かかった。
一見二十代後半の、写真家というよりはフリーターか売れないミュージシャンという印象だった。少し長めの髪は脱色気味で、いかにもやる気のなさそうな感じを抜きにすれば、モデルをやっているといっても疑わないかもしれない、そんな羨ましい容姿。そんな奴がいきなりこのど田舎に現れるとは思っていなかったので、思わずまじまじと見つめてしまった。
「聞いてるー?」
「えっ、あ、ハイ。聞いてます。」
ふん、と男は笑った。
「たった“今”聞こえた、て感じだったけどな。」
言いながら彼は、背負っていたバックパックから三脚やら天体望遠鏡やら、重そうなものを次々と取り出し、セットし始めた。
バス停はちょっとした高台にあり、夜空をとらえるにはちょうどいいところだと言えた。
慣れた手つきでカメラを固定し、レンズを覗き込む様子はさながらプロのようで、待たされていることも忘れて見入ってしまう。
しかし彼は気にもしない様子で、あくまでマイペースに機材を組み立てていく。
おもむろに次の言葉を吐いたのは、完全にカメラを固定し終えた後だった。
「まぁ、……どーでもいいが少年、」
最後の仕上げにレンズを覗き、ピントを調節しながら彼は、本当にどうでもよさそうに言った。
「もうバス来ねぇぞ。」
「………………えっ。」
たっぷり十秒ほど思考を停止させ、なんともまぬけな声で、僕は聞き返した。
「ここの最終バスは午後三時。んでもって現在時刻は午後六時。」
「げっ。」
「諦めて引き返すか、ここで野宿でもするんだな。」
「……今更引き返せな」
「なら野宿だな。幸い今は夏だ、凍え死ぬこともない。」
「…………。」
繰り返すが、ここはとてつもないド田舎だ。バスは一日三本。電車はない。歩きで行くといっても、タクシーが走るような街までは三時間かかったって行き着かないだろう。加えて夜道だ。今更引き返せないのは本当だったが、だからといって何の抵抗もなく野宿が出来るほどワイルドには育ってこなかった。
「……安心しろ、とって喰いやせん。」
「当たり前だ!」
がははは、とひとしきり笑って男は再びカメラに目を戻した。
「山はいいぞォ? 空気が澄んでるから星が綺麗だ。」
あえて空気を読まない人間というのは、結構存在するものだ。
いちいち目くじらを立てていてもしようがないので、短く息をついてもやもやとした気持ちは振り払ってしまうに限る。
「……ここにはよく来るんですか?」
「あ? まあ、週に七日くらいはな。」
「毎日じゃん。」
「飽きないぞ。」
「写真も?」
「全然。」
「ひとりで?」
「…………。」
カシャン、とシャッターを切る音が響く。
プロかもしれない、と僕は思った。それほど彼がカメラを構える姿は堂に入っていたし、なによりその目が素人らしからぬ真剣さと鋭さを放っていた。
黙々と何枚か撮ったあと、男はぽつり、落とすように言った。
「熱い星ほど冷たく光るんだ。」
「ハイ?」
唐突に呟いたその言葉は、ひとり言にしては教訓めいていたし、語り掛けにしては突飛すぎた。
「赤い星より青い星の方が温度が高い。」
「……そうらしいですね。」
「昔、月は太陽より熱いと思ってた。」
「はぁ……。」
「でも違った。」
「そりゃ、太陽は恒星で月は衛星だから……。」
「最近の若いヤツは月を見上げたりするのかなァ?」
「ハァ……?」
芸術家というのは、こうも話に脈絡がないものなのか?
適当に相槌を打っていたらいつの間にやらとんでもない話になっていそうだ。
「きっと、昔に比べたらふと月を見上げることなんてなくなっちまったんだろうなぁ。まして月に向かって話しかけるヤツなんて天然記念物並みなんだろうな……。」
「絶滅危惧種でしょ。」
「月も淋しがるかもしれない。」
「まあ、そうかもしれませんね。」
自棄になって適当に答えているが、男の方は構わないらしい。しゃべりながら撮影した方がうまく撮れるのかもしれないと勝手に解釈して、僕はしばらく放っておくことにした。どのみちろくな相槌はうっていないのだから、黙っておいても問題はないだろう。
「太陽はもっと孤独だ。月のように宇宙船が来ることもない。」
話のついでみたいにシャッターを切る男。
そういえばお互い名前も知らないな、とのんきに考えながら空を見上げる僕。
その後延々十分も淋しい月と孤独な太陽の話をして、ふいに男は手を止めた。
「……星になりたい。」
「…………。」
聞き流しを決め込んでいた僕は、そのセリフもさらっと聞き流そうとして、はっとした。
星になる。
ひどく遠まわしで詩的な表現だが、それは時に『死』を意味する。
男を見ると、レンズ越しではない、皓々と照る月を見上げていた。
「冷たく光る星。でも燃え尽きない、月。みたいな。」
「……自分で光ろうとは、思わない?」
「人間ひとりじゃ生きてないだろ。自分だけの力で光るなんてのは、無理な話だ。きっと、誰かが輝いて見えるとすればそれは、またほかの誰かが投げかけてくれる光のせいに違いない。」
「周りがいさえすれば輝けるかといえば、そうでもないだろう」
どうやら死んでどうのこうのの話ではなく、生き方の話らしい。僕はとりあえずほっとしてちょっとした厭味を言ってやった。
男は肩をすくめ、それに抗議した。
「それにしたって、星には名前がある。」
僕は溜め息をついた。脈絡もなければ意味も分からない。
「学者やなんかが名前をつけて、とりあえず存在くらいは認めてくれるだろ?」
「アンタにも名前くらいあるだろ。」
「そういう意味じゃないさ。要は誰に……どんな奴に呼んで貰いたいかって事。」
「……わけがわからん。」
「だろうな。」
「見るからに友人・知人の多そうなアンタが、まるで誰とも繋がってないみたいな言い方をする。」
「確かに掃いて捨てるほどいるな。」
「どんな?」
「…………。」
それには答えず、男は再びレンズを覗いた。
淋しくて孤独なのは、太陽でも月でもなく、この男の方なのだと、唐突に悟ってしまった。毎日ひとりきりで、今日だって僕がいなければこの男はひとりきりだったんだろう。
「今名乗れば、少なくとも僕はアンタの名前を呼んでやれるけど?」
「今だけはな」
どうせこれっきりさ、とでも言いたげに、男は眉を上げてみせる。
そんなもの、欲しくはないんだと、続けて言う。
今度は僕が肩をすくめた。
男はカメラを離れ、やおらベンチの下に手を突っ込んだと思うと、自分のバックパックを引きずり出してきた。
「飲むか?」
そう言って持ってきたのは缶コーヒー。
受け取りながら僕は、ある違和感に気づいた。
「……あ」
小さく声をあげてしまってから、「しまった」と思う。気付かない振りという選択肢をあっけなく捨ててしまったのだ。
この男には、小指がなかった。
それも両手の、だ。
俗に言う、「指を詰めた」状態とは違う。
遺伝子レベルの異形。生来のものに見えた。
人間って四本指の生き物だっけ、と思わせるくらい、その形状は自然だった。薬指にあたる指から手首までの線はそれほどまでに滑らかで、違和感がなかった。
「珍しいか。」
「…………。」
謝る言葉が出かけて、それを飲み込んだ。なぜかそうしてはいけない気がした。
「その、……不都合はないのか?」
「いや?」
全然、と男は笑った。
「小指なんかなくても写真は撮れるし。まったく問題ないな。」
「そう、か。」
「そっちこそ不都合はないのか?」
「何で。」
「多すぎて絡まりそうだ。」
***
それから僕らは、他愛もない話をした。
何処から来たんだとか、今年は特に異常気象だったとか、好きな野球チームについてとか。名前以外のことは、かなり。
気づくと月は傾きかけていて、風も冷えてきていた。
男は長時間露出で月を撮っていて、――つまりシャッターをタイマー付きの長押し状態にして――僕らは夜空を眺めた。
男は天文学については、かなりの博識だった。ほとんど全ての星座について、星の名前や特徴を知っているらしかった。しかも自分の印象で星を擬人化してみせる。
曰く、アルデバランは「酔っ払い男」。アラビア語で「ついてくる者」という意味で、牡牛座の首星で〇・八等星。オレンジ色に光りながら美女の集団にたとえられるプレアデス星団のあとから昇る、とか。
オリオン座のベテルギウスは「気まぐれ女王」。〇・四等星から一・三等星まで不規則に光度を変える変光星だとか。
月の次に好きなのは大犬座のシリウス、「ちいさな王様」。マイナス一・五等星の青白い光を放つ恒星で、名前の意味はギリシア語で「熱い」という意味だとか。
「そういえば、なんで冷たく光る星が好きなんだ?」
「喩えなんだ。熱き思いを秘めたる者ほど、人からは時に近寄りがたく、冷淡だとさえ思われる。本当は誰より熱血漢な癖して、努力なんてかけらも感じさせない。周りから疎まれるくらいクールなヤツが、実は一番熱意に燃えている、っていう。」
「静かに燃やす熱意、って感じ?」
「うまく言えんが、そんな感じだ。」
確かに赤い星は目立つし、いかにも燃えている感じがする。けれどその横で静かに燃えている青い星の方が、本当は熱い。
普段は努力も見えないかもしれないが、ある時きらりとその片鱗が目を灼く。
大声で己の功績や努力を叫ぶんじゃなく、目に見えないところで力を発揮して、さりげなく結果を支える。
「なんか、憧れるだろ。」
「けど、燃え尽きたくはないんだろ?」
「だから月なんだ。ここから見える月はいつも青白く冴えてる。しかも燃え尽きたりしない。反射で光ってる。一人の力じゃなく。」
「だから?」
「だから。」
カシャン、とシャッターが下りる。
男は立ち上がり、カメラを取り外しにかかった。今日の撮影はこれで終わりらしい。
「さて、寝るか。」
言っておもむろに男は地面に寝転んだ。
「て、地べたに?」
「じゃあお前が地べたで寝るか?」
「……ありがたくベンチで寝させていただきます。」
「おやすみ、少年。」
「これでも社会人なんだけど……。」
「関係ない。」
「さいですか。」
「もう寝ろ。」
ごそごそと寝返りをうつように背を向け、男は静かになった。置いてきぼりを食らったようでなぜか寂寥感を覚える。
ひとりでここで寝るとしたら、どんな感じなんだろう。ふと考えて恐くなる。
普段なんとなくいつも感じている人の気配が、ここには一切ない。夜の闇の中で、ひとりでいるというのはあまりに心細い。この男は毎日だと言っていたが、こと自分に当てはめれば狂気の沙汰としか思えなかった。
「…………なぁ。」
「何。」
寝てしまったかもしれないとも思ったが、男はまだ起きていた。安眠を邪魔されたのが気に障ったのか、心なしか不機嫌な声が返ってくる。
一呼吸おいて僕は言ってみる。
「やっぱり名前くらい教えろよ。」
男は背中で溜め息をついた。長い長い沈黙が返ってくる。
シカトかよ。
そう思ってあきらめかけたとき、呆れたような返事が返ってきた。
「……明日、気が向いたらな。」
「約束だぞ?」
その言葉を信じて、僕は目を閉じた。
存在しない小指のせいで、色々苦労もあるのかもしれない。
ただ、自分で思うよりこの男は孤独じゃないんじゃないか。
少なくとも今この瞬間はひとりじゃない。
明日起きたらそう言ってやろう。
そう思っていた。
***
けれど、朝が来て、目を開けたときには、もう彼の姿はどこにもなかった。
そのかわり、メモ用紙代わりの写真のウラに伝言を残していった。
曰く、『始発は五時』だそうだ。ちなみに次は九時〇七分。
僕は腕時計を見て、溜め息をついた。
「起こしてくれたっていいじゃんか、バカ。」
現在時刻は六時〇二分。
さよならの一言もなく、僕らは別れた。
アイツは明日もあさっても、撮りつづけるんだろうか。
夜ばかり。
星ばかり。
月ばかり。
ひとりぼっちで。
いつか自分が星になる日まで?
どうしようもなく悲しくなって、半分ごまかしてるみたいなけのびをした。
涙が出るのはあくびのせいだ。
もしくは朝日が眩しいからだ。
アンタは言った。
『孤独な太陽』、『淋しい月』。
そして『熱い星ほど冷たく光る』とも。
―――じゃあ地球は?
自らを生み出したこの星を、アンタは何と形容する?
結局名前も聞けなかった。
約束したにもかかわらず、君は行ってしまった。
だから蜘蛛男と君を命名する。
***
僕が出会った寂しがり屋の天体写真家。
両手の指はあわせて八本。
約束のできない男だった。
君に小指があったなら、少しは違っていたんだろうか。
バスが来るまであと二時間。
今度こそ寝過ごさないように、アンタのくれた写真でも眺めていようと思う。
一つ一つの星にキャッチコピーをつけていったら、二時間なんてきっとあっという間なんだろう。
はじめまして。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
この作品は四年前に書いた同名の小説の一部改稿です。
ご意見、ご感想など、よろしければお寄せください。