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楽園は回帰した  作者: 経塚悠介


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4/4

深淵

1. 模範的な日常


アーバンの朝は、常に一定の彩度で始まる。

カイは、整合塔コンペア・タワーの白亜の廊下で、同僚のシノと合流した。

彼女の歩幅はカイと正確に同期し、白いロングコートの裾が交互に、規則正しく翻る。

「おはよう、カイ。今日の睡眠ログを見たけれど、レム睡眠の割合が少し不安定ね。気圧の変動のせいかしら?」

シノの声は、どこまでも穏やかで、同僚を気遣う親密さに満ちていた。

それは、アーバンの市民が共有すべき「標準的なコミュニケーション」の枠内に収まっている。

カイは、自身のバイタルデータが共有されていることに、わずかな煩わしさを覚えながらも、短く答えた。


「……微細な誤差だ。業務に支障はない」

「そう。あなたがそう言うなら、きっとそうなのね」


シノは微かに微笑んだ。

それは、慈愛に満ちた、しかしどこか教科書的な正しさを感じさせる笑みだった。

彼女にとって、カイの体調や精神状態は、管理すべきリソースの一部に過ぎない。


静寂のなか、二人は並んでコンソールに向かっていた。

巨大なホログラムには、アーバンの全住民の「幸福度指数」が、穏やかな波形となって揺れている。

カイは、無意識にある特定の座標――廃棄予定区22-Aの境界線――を、サブモニターに表示させていた。

そこは、何の価値もない無(nIx)の領域。

本来、優先的に監視する対象ではない。


「……カイ。そこの区画、何か気になることでもあるの?」


シノが、ふと手を止めてカイの横顔を見た。

「昨日の熱源異常の件よ。あなたの報告書、少し記述が簡潔すぎたから。……もしかして、何か私に隠して、自分だけで処理しようとしてる?」


彼女の言葉には、疑念よりも「心配」の響きが混じっていた。

同じ整合官として、職務を分担する役割分担(パートナー)としての純粋な関心。

だが、その親切さこそが、鋭いナイフのように感じられた。


「……いや。センサーの誤作動のパターンを再確認しているだけだ」

「真面目ね、あなたは。でも、あまり根を詰めすぎないで。今日の午後は、少しパルス調整メンタル・メンテナンスを受けたほうがいいかもしれないわ」


シノはカイの肩に、そっと手を置いた。

その手の温もりは、アーバンの空調と同じ、至適な36.5℃を保っている。

カイは、その正しすぎる体温に、言いようのない違和感を覚えた。

昨夜触れたエーファの、あの泥と煙にまみれた、不規則で、火傷しそうな「熱」。それと比較して、シノの温もりは、あまりに清潔で、あまりに記号的だった。


2. 剥製の鏡と対話

正午過ぎ、カイはシノと共に、高層階のラウンジにいた。

全面ガラス張りの向こうには、ペールブルーの空と、秩序正しく並ぶ白い街並みが広がっている。

シノは、栄養ペーストのパックをエレガントな仕草で扱いながら、遠くを見つめていた。


「ねえ、カイ。時々思うの。……私たちは、この街を愛しているからこそ、不純物を許しちゃいけないって」

「……愛、か」

「ええ。この平和を維持することが、私たちの『生』の証明でしょう? 95.5%の純度を守り抜くこと。それが、人類が長い苦難の果てに手に入れた、唯一の正解なんだから」

彼女の言葉は、アーバンの教育課程で誰もが叩き込まれる教条ドグマだ。


シノは、その教えを誰よりも深く信じ、実践している理想的な市民だった。

彼女には迷いがない。

システムと自分を完全に調和させ、その一部として機能することに、至上の喜びを感じているように見えた。


「シノ。君は……自分の意志で、何かを無駄にしたいと思ったことはないのか?」


カイの問いに、シノは少しだけ目を丸くした。

そして、年少の弟をたしなめるような、優しい笑い声を上げた。

「無駄? ふふ、それは疲れている証拠よ。無駄はコストを生み、コストは不幸を生む。……私たちは、そんなものから解放されたはずじゃない」


彼女の横顔は、陽光を浴びて透き通るように白かった。

その美しさは、完成された芸術品のようで、同時に、自ら呼吸することを止めた剥製のようでもあった。

彼女がシステムに従順なのは、彼女が人間としてその幸福を選び取ったからだ

――そう自分に言い聞かせた。

だが、その人間らしさの裏側に、触れてはいけない深淵が潜んでいるような予感が、霧のように立ち込めていた。


「……そうだな。忘れてくれ」

「いいわ。でも、心配よ。……あなたのその『揺らぎ』、私が支えてあげられたらいいのに」


シノは、カイの手の上に自分の手を重ねた。

その接触は、どこまでも優しく、どこまでも規範的だった。

カイは、彼女の瞳の中に映る自分の姿を見た。

そこには、白いコートを着て、システムの一部として振る舞う「整合官カイ」が、空虚な表情で立っていた。

自分は、もう、この鏡の中の自分には戻れない。

シノが信じている正解が、色彩を失った失楽園のように思えた。

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