表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/14

『透明な栞(しおり)を挟んだまま、きみは笑う』

人生にはいくつもの分岐点があります。安定した平坦な道を選ぶか、先が見えないけれど心が強く惹かれる険しい道を選ぶか。本作は、就職活動という画一的な波に呑み込まれそうになっていた二人の大学生が、立ち止まり、自分たちの本当に進むべき道を見つけるまでの物語です。「迷う」という行為の裏にある、残酷で美しい真実を味わっていただければ幸いです。

第一章:リクルートスーツの拘束衣


大学三年の冬。キャンパスは黒に染まり始めていた。


リクルートスーツ。


個性を殺し、髪を黒く染め、同じ鞄を持ち、同じ歩幅で歩く「就活生」という名の軍隊。

佐藤静香は、その黒い波の中で溺れかけていた。


「……足、痛い」


パンプスのかかとが悲鳴を上げている。


大手出版社のインターンシップ説明会からの帰り道。慣れない敬語と、作り笑いと、「学生時代に力を入れたこと(ガクチカ)」という空虚な問いに答え続ける数時間に、静香の精神は摩耗していた。


(私が力を入れたこと? 関門トンネルで単語帳と心中したこと以外に何があるんよ)


本郷キャンパスのベンチに座り込み、ヒールを脱ぎ捨てる。


そこへ、岩井淳が現れた。彼もまた、似合わない黒いスーツを着ていたが、ネクタイは緩み、シャツの裾が少し出ていた。


「おう。死にそうな顔しちょるな」

「……淳。あんたこそ、喪服みたいよ」

「否定せん。企業の合同説明会行ってきたけど、空気が薄すぎて酸欠になるかと思った」


淳が隣に座り、缶コーヒーを開ける。


「なあ、静香。俺ら、本当に『就職』するんか?」


その問いは、ここ数ヶ月、二人の間で何度も浮かんでは消え、消えては浮かぶ亡霊のような問いだった。


静香は歴史が好きだ。古文書の匂い、文字の向こうに死者の息遣いを感じる瞬間。大学院に行って研究を続けたいという欲求は、喉元まで出ている。


淳も同じだ。物理の世界、宇宙の真理を記述する数式に魅せられている。企業の研究職ではなく、純粋なアカデミズムの世界に残りたいはずだ。

だが、現実は甘くない。


文系の院進(大学院進学)は「就職の墓場」とも呼ばれる修羅の道。


理系とて、博士号を取ったあとにポストがある保証はない。


実家は裕福ではない。いつまでも親のすねをかじるわけにはいかない。


「……安定を取るか、夢を取るか。ありふれた悩みやね」


静香は自嘲気味に笑った。


「あんなに必死に勉強して東大に入ったのに、結局は『金』と『将来』の天秤にかけられるんや」

「エントロピーは増大する一方や。選択肢が増えれば増えるほど、俺らの迷いは拡散していく」


淳が空を見上げる。冬の空は高く、突き放すように青い。


「誰か、答えを教えてくれんかね」

「……答え合わせなんか、誰にもできんよ」


その時、静香のスマートフォンが震えた。

実家の母からではない。

高校時代のクラスのグループLINE。普段は誰も書き込まない化石のようなグループに、一件の通知が上がっていた。


『みんな、久しぶり。神崎かんざき小夜香です』


静香の心臓が、ドクンと跳ねた。


第二章:止まったカレンダー


神崎小夜香。

高校二年の秋、突然学校に来なくなった女の子。

彼女は「文芸部」のエースで、いつも窓際の席で文庫本を読んでいた。静香とは同じ班になったことがあり、淳とも数学の補習で一緒だった。

穏やかで、少しはかなげで、でも芯の強い子だった。


『急でごめんね。来週、一時帰宅できることになりました。もしよかったら、誰かその前に病院まで会いに来てくれませんか』


「……小夜香ちゃん」


静香は画面を見つめたまま呟いた。


「覚えとる? 二年の時に、入院した……」

「覚えとるよ。白血病やったっけ。ずっと福岡の病院におるって聞いとったけど」


淳の表情から、軽口の色が消えた。

あの日々。


静香と淳が、関門トンネルの轟音の中で単語を詰め込み、偏差値という数字を追いかけていたあの日々。


その裏側で、教室から静かに消え、闘病という孤独な戦場へ移っていった彼女。


「……行こうか」


静香が言った。


「え?」

「説明会なんかサボって。会いに行こうよ。私ら、一度もお見舞い行けてなかったやん」


それは、就活からの逃避だったかもしれない。

でも、今の二人には、過去からの呼び声が必要だった。

迷いの中にいる自分たちを、原点に引き戻してくれる何かが。


第三章:北九州の白い城


週末。二人はリクルートスーツを脱ぎ捨て、新幹線に乗った。

小倉こくら駅で降り、バスに揺られて向かったのは、北九州市内にある総合病院だった。


消毒液の匂い。

硬質なリノリウムの床。

行き交う看護師たちの足音。


大学の図書館とも、スーパーの喧騒とも違う、生と死が隣り合わせにある場所特有の、張り詰めた静寂。


病室のドアをノックすると、懐かしい声がした。


「はい、どうぞ」


ドアを開ける。

窓際のベッドに、小夜香がいた。

痩せていた。パジャマの袖から覗く手首は、折れそうなほど細い。

肌は透き通るように白く、被っているニット帽が、彼女が失ったものを無言で物語っていた。

けれど、その瞳だけは。

高校時代と変わらない、いや、それ以上に澄んだ光を宿していた。


「……静香ちゃん。淳くん」


小夜香が、花が咲くように笑った。


「久しぶり。……うわぁ、二人とも、すっかり大学生の顔になって」

「小夜香ちゃん……」


静香は言葉に詰まった。


「元気そう」なんて言えない。「大丈夫?」とも聞けない。

ただ、そこにいる彼女の存在の重さに、圧倒されていた。


「座って。狭いけど」


小夜香はパイプ椅子を勧めた。

窓の外には、北九州の工業地帯の煙突が見える。かつて、明治学園の坂道から見下ろしたのと同じ景色。


「ごめんね、急に呼び出して。なんかね、寂しくなっちゃって」

「ううん、全然。うちらもちょうど、帰りたいと思っとったとこやから」


淳が努めて明るく言う。


「東大、どう? 楽しい?」


小夜香の問いかけに、二人は顔を見合わせた。

楽しいことばかりではない。苦しいことの方が多い。

そして今、人生の岐路に立って立ちすくんでいること。

二人は、正直に話した。

就職活動の虚しさ。研究への未練。

将来への不安。

「贅沢な悩みかもしれんけど」と前置きしながら、静香は吐き出すように語った。

小夜香は、ずっと笑顔で聞いていた。

時折頷き、時折「わかるよ」と相槌を打ちながら。


第四章:観測者の特権


一通り話し終えると、部屋に沈黙が降りた。

加湿器の蒸気がシュウシュウと音を立てている。


「……いいなぁ」


小夜香が、窓の外を見ながらポツリと言った。


「え?」

「迷えるって、いいなぁって」


小夜香は静香に向き直った。

その目は、羨望せんぼうでも嫉妬でもなく、もっと深い慈愛のような色をしていた。


「私ね、高校二年の時から、時間が止まってるの」


彼女は自分の細い指を見つめた。


「みんなが受験勉強して、大学行って、サークル入って、バイトして、恋をして……。そういう『動いている時間』を、このベッドの上からずっと想像してた」


静香は胸が締め付けられた。

自分たちが「辛い」「苦しい」と言って走り抜けてきた時間は、彼女が喉から手が出るほど欲しかった時間だったのだ。


「就職か、大学院か。どっちに行っても、きっと大変だと思う。でもね」


小夜香は、枕元から一冊のノートを取り出した。

そこには、びっしりと小説のようなものが書かれていた。


「私は、物語を書くことしかできない。ここから動けないから、空想の中でどこへでも行くの。でも、あなたたちは自分の足で、どこへでも行ける」


小夜香は淳を見た。


「淳くん。物理、好きなんでしょ?」

「……おう」

「だったら、やればいいじゃない。宇宙の謎を解くんでしょ? 私、淳くんがノーベル賞取ったら、自慢するんだから」


次に、静香を見た。


「静香ちゃん。歴史が好きなら、過去の人たちの声を拾ってあげて。私みたいに、歴史の中に埋もれていく人たちの声を」


小夜香の声は、力強かった。


「『迷う』っていうのはね、未来がある人の特権なんだよ。明日が来るかどうかわからない人は、迷ってる暇なんてないの。今日をどう生きるかだけで精一杯だから」


彼女の言葉は、鋭いつぶてとなって、二人の甘えた心臓を打ち抜いた。

安定? 金? 世間体?

そんなもので迷っている自分が、恥ずかしくなった。

明日が約束されているという傲慢さが、迷いを生んでいたのだ。


「……私ね、もし退院できたら、大学に行きたいな」


小夜香はノートを抱きしめた。


「文学部に入って、もっとたくさんの本を読みたい。……もし、もしも叶わなくても、そう思ってるだけで、今は幸せだから」


静香の目から、涙が溢れた。

止まらなかった。

リクルートスーツの窮屈さも、パンプスの痛みも、将来への不安も、全部がちっぽけなノイズに思えた。


「……やるよ」


淳が、低い声で言った。眼鏡の奥が光っていた。


「俺、大学院行くわ。親に土下座してでも、奨学金借りまくってでも、物理やる」


淳は拳を握りしめた。


「お前が『いいな』って言った俺の未来を、中途半端な妥協で終わらせるわけにはいかん」

「私も」


静香は涙を拭って顔を上げた。


「私も行く。歴史やる。いつか本書いて、小夜香ちゃんに読ませちゃる」


小夜香は、嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。


「うん。楽しみにしてる。……約束だよ」


第五章:不可逆の決意


面会時間は短かった。


「また来るね」

「うん、待ってる」


病院を出ると、外はもう夕暮れだった。

空気が冷たい。でも、来る時のような重苦しさはなかった。

冬の風が、火照った頬に心地よい。

バス停に向かう道すがら、二人は無言だった。

言葉にする必要がなかった。

「戦友」としての意識の共有シンクロが、最高レベルに達していたからだ。


「……淳」

「ん?」

「やめるわ、就活」

「おう。俺もマイナビ退会する」


清々しいほどの決断だった。


いばらの道だ。貧乏生活は続くだろうし、将来の保証は何もない。


でも、小夜香のあの笑顔を見た後で、安定した椅子に座るために自分を偽ることは、生きている者への冒涜ぼうとくのような気がした。


「俺らが背負うもんは、重くなったな」


淳が言った。


「自分の人生だけじゃない。あいつの『止まった時間』の分まで、俺らは進まんとあかん」

「重いね。でも……」


静香は、使い古した革鞄をぎゅっと握った。


「持てるよ。うちら、重い荷物を持つのには慣れとるし」


高校三年間、辞書と参考書を詰め込んで通った、あの鞄の重み。

それは、未来への希望の重みだった。

今、その重みが再び肩に戻ってきた感覚だった。


「帰ったら、教授に土下座やな」

「院試の勉強も始めんと。英語、忘れてしもうた」

「バカか。単語帳、捨ててないやろな?」

「当たり前やん。神棚に飾ってある」


二人は顔を見合わせて笑った。

久しぶりに、心からの笑顔が出た。

帰りの新幹線。

関門トンネルを抜ける時、窓の外は真っ暗だった。

轟音ごうおんが響く。

かつて、不安と希望を抱えて通り抜けたこの闇。

今、再びこの闇を抜けて、東京へ戻る。

でも、もう迷いはない。

トンネルの先には、自分たちで選んだ「修羅の道」が待っている。

そして、遠く離れた病室で、一人の少女がノートに向かいながら、自分たちの背中を見守ってくれている。


(見ててね、小夜香ちゃん)


静香は暗い窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

リクルートメイクは崩れ、疲れ切っているけれど、目は死んでいない。


「……よし」


隣で淳が、物理の専門書を開いた。

静香も鞄から、歴史の新書を取り出す。

車内という名の自習室。

二人の戦いは、ここからまた始まる。

止まった時間を背負い、不可逆な未来へ向かって、全速力で走るために。

東京駅に着く頃には、二人の足取りは、行きの時よりもずっと軽く、そして力強くなっていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。静香と淳が選んだのは、決して楽な道ではありません。しかし、小夜香の「止まった時間」を胸に刻んだ彼らの足取りは、もはや迷いなく力強く前を向いています。今、人生の選択で思い悩んでいる方の背中を、この物語が少しでもそっと押すことができたなら、これ以上の喜びはありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ