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『理系な戦友と花火を見に行ったら、計算外に意識しちゃって大変です。』

いつもは活字や数式ばかり追いかけている、理屈っぽい大学生の二人。これは、彼らが「観測」という名目で足を運んだ花火大会での、小さなバグの記録です。ただの戦友だと思っていたあいつの、思いがけない一面。決して恋じゃない(はず)けれど、どうしても猛烈に意識してしまう……そんな不器用な夏の夜をお楽しみください。

第一章:非日常への招待状


七月の終わり。東京の暑さは、下関のそれとは質が違う。

アスファルトからの照り返しと、室外機の排熱。湿気が体にまとわりつくような、逃げ場のない熱気。

期末試験のレポート地獄をようやく脱したその日、私はいつものように図書館のラウンジでぐったりとしていた。


「……暑い。脳みそが沸騰する」


机に突っ伏して呟くと、向かいに座っていた岩井淳が、炭酸水を飲みながら言った。


「そりゃそうや。東京はヒートアイランド現象の実験場やけぇな」

「物理的な解説はいらん。涼しくなる情報をくれ」

「じゃあ、これ」


淳がスマホの画面を私に見せた。


『隅田川花火大会 開催決定』


画面の中で、デジタルの花火が鮮やかに打ち上がっている。


「……花火?」

「おう。今週の土曜。行かんか」


私は顔を上げて、淳を見た。

彼がこういう「リア充イベント」に興味を示すのは珍しい。


「あんた、人混みが嫌いなくせに。何、熱中症になりに行くん?」

「違うわ。純粋な『光と音の観測』や」


淳は言い訳がましく眼鏡の位置を直した。


「花火の炎色反応と、音速と光速のタイムラグ。それを現場で確認したい。それに……たまには、季節感のあることせんと、俺らの情緒が死滅する気がしてな」


情緒。確かに、ここ最近の私たちは「文字」と「数式」しか見ていない。

「……まあ、ええけど。どうせ暇やし」

私はぶっきらぼうに答えた。

あくまで「暇つぶし」のスタンス。けれど、いつもとは違う非日常のイベントに、少しだけそわそわしている自分がいるのも事実だった。


第二章:箪笥たんすの奥の秘密兵器


土曜日の午後。アパートの六畳間で、私は途方に暮れていた。


「……着る服がない」


クローゼットを開けても、あるのはジャージ、パーカー、チェックのシャツ、そして色褪せたジーンズ。

いつもの「戦場」ならこれでいい。

でも、今日は花火大会だ。淳は「観測」と言ったけれど、周りはカップルだらけだろう。その中で、私だけが「古文書を探しに来た院生」みたいな格好でいるのは、いくらなんでも浮きすぎる。

それに、あいつの隣を歩くのに、あまりに色気がないと後からネチネチからかわれるのも癪だ。


私は押入れの奥にある、実家から送られてきた段ボール箱を引っ張り出した。

防虫剤の匂いと共に現れたのは、藍色の浴衣だった。

白地に、金魚と朝顔が描かれた、古典的な柄。


「……入るんかな」


YouTubeで「浴衣の着付け」動画を再生しながら、格闘が始まった。

普段、ジャージのゴム紐に慣れきった腹部に、伊達締め(だてじめ)を巻く。苦しい。


「……なんで昔の女の人は、こんな拘束具をつけて生活しよったん」


悪態をつきながらも、帯をキュッと締めるたびに、何かが切り替わる感覚があった。

一時間後。鏡の中には、少しだけ見栄えの良くなった「女の子」がいた。

髪は後ろでまとめ、うなじを出した。化粧も薄く施す。


「……よし。これでからかわれる隙はないはず」


私は下駄を履いた。

カラン、コロン。

その音は、いつものスニーカーのゴム音とは違う。「今日は少しだけ特別」という、ささやかなファンファーレのようだった。


第三章:浅草駅、午後五時の邂逅


待ち合わせ場所の浅草駅前は、予想通りのカオスだった。

私は改札の柱の影に立って、淳を探した。


(あいつ、どうせまたヨレヨレのTシャツやろな)


そう思っていた。しかし。


「……静香?」


声をかけられて振り返ると、そこには甚平じんべい姿の淳がいた。

黒っぽい麻の甚平。足元は雪駄せった


「……あ」


言葉が詰まった。

見慣れた猫背や眼鏡はそのままだが、甚平から覗く鎖骨や、腕の血管、骨張った手首が、妙に男っぽく見える。


普段はダボっとした服で隠されている「オス」の部分が、突然目の前に現れて、一瞬誰だか分からなかった。

淳もまた、目を見開いて私を凝視していた。

その視線が、私の足元の塗下駄から、藍色の裾、帯、そしてうなじへと移動する。


「お前……」


淳が喉を鳴らした。


「……なんか、いつもとちゃうな」

「浴衣着てくるなんて思っとらんかったろ」


私は謎の動揺を悟られまいと、わざとぶっきらぼうに言った。


「母さんが送ってきてうるさいけぇ、虫干し代わりに着てやっただけよ」

「……そうか」


淳は視線を逸らし、首筋をかいた。耳が少し赤い。


「ええんやないか。その……涼しそうで」

「あんたこそ。何その甚平。似合わん」

「ドン・キホーテで安売りしとったんよ。機能性重視や」


お互いに、いつもの軽口が少しだけぎこちない。

いつもの「戦友」という安全地帯が、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。


「……行くぞ。場所取りせんと」

「うん」


歩き出す。いつもなら大股で歩く淳が、今日は私の歩幅に合わせてゆっくり歩いている。


(なんだよ、急に気なんか遣って)


悪態をつきながらも、その変な優しさに調子が狂うのを感じていた。


第四章:人波という名のトンネル


隅田川沿いへ向かう道は、殺人的な混雑だった。


「うわっ……」


後ろから押され、よろめいた私を、淳がとっさに支えた。

彼の手が、私の二の腕を掴む。

浴衣の薄い生地越しに、彼の手のひらの熱が伝わってくる。


「大丈夫か」

「う、うん。すごい人やね」

「流体力学的に見れば、これは乱流や。予測不能な動きをする」


淳はそう言いながら、私の腕を離さなかった。


いや、離すどころか、人混みが激しくなるにつれ、その手は私の手首へと滑り降り、最後にはしっかりと手を掴んでいた。


(手……)


高校三年間、毎日一緒にいた。

参考書を貸し借りし、じゃれ合いで肩を叩き合うことはあっても、手を繋いだことなんてなかった。


「はぐれたら面倒やけぇな」


淳が前を向いたまま言った。


「物理的接触を維持する。これはリスク回避や」

「……分かっとるわよ」


私は掴まれた手を、少しだけ握り返した。

心臓が変なリズムを刻んでいる。

好きとか、恋とか、そういうロマンチックな感情じゃない。


ただ、今まで完全に「無機物」や「同志」として見ていた相手の、生々しい体温と男の骨格を不意に突きつけられて、脳がバグを起こしているのだ。


(落ち着け私。相手は淳だぞ)


心の中で念仏のように唱えながら、私は前を歩く広い背中を、変に意識しすぎないよう必死で睨みつけていた。


第五章:言えなかった方程式


奇跡的に、川沿いのフェンス際の一角が空いていた。


「ここや。視界確保。風向きも良好」


淳が私の手を離した。急に手のひらが涼しくなって、私は少しだけホッとした。


ドォォォォォン……!


腹に響く重低音と共に、夜空に光の大輪が咲いた。


「おお……すげぇ」

淳が少年のように目を輝かせている。


「見ろ静香、あの球状の広がり! 爆発のエネルギーが均等に分散しとる証拠や!」

「うん……綺麗やね」


私は空を見上げた。


花火の光が、淳の横顔を照らす。

いつもは「むかつくほど生意気な顔」としか思っていなかったのに、暗闇と光のコントラストのせいで、やけに大人びて見えた。


「なあ、静香」


不意に、淳がこちらを向いた。ドキリとした。


「……ん?」

「お前、うなじ見せると、なんか……寒そうやな」

「はぁ?」


私は拍子抜けして、思わず吹き出した。


「何それ。もっとマシな感想ないん?」

「いや、物理的に表面積が増えとるから、放熱量がやな……」


淳は口ごもった。そして、ボソッと言った。


「……まあ、悪くはない。似合っとる」


ドキン、と胸が鳴った。

その不器用な一言に、顔が一気にカッと熱くなるのが分かった。


恋心なんて気の迷いはないはずなのに、なんだこの破壊力は。普段褒められない相手から不意打ちを食らったせいだ。絶対にそうだ。


「あ、あんたの甚平も……まあ、見慣れたら悪くないよ。ドンキの安物にしては!」

「『見慣れたら』は余計じゃ」


私は真っ赤になった顔をごまかすように、夜空を見上げた。


金色の雨となって降り注ぐ花火の明るさに救われた。今顔を見られたら、絶対にからかわれる。


第六章:鼻緒の痛みと、背中の温度


花火大会が終わると、現実はすぐに押し寄せてきた。


慣れない下駄で数時間立ちっぱなしだったせいで、鼻緒が食い込み、足の指の間が擦りむけていた。


「……痛っ」


路地裏で、私は思わずしゃがみ込んだ。


「どうした? 靴擦れか?」


淳がすぐに駆け寄ってスマホのライトで私の足先を照らした。


「うわ、結構いっとるな。絆創膏、持っとるか?」

「忘れちゃった……」

「まったく。詰めが甘いんよ」


淳は自分の信玄袋から絆創膏を取り出し、手際よく貼ってくれた。


その慎重な指先から伝わる体温に、またさっきの「バグ」がぶり返してくる。


「……ごめん。迷惑かけて」

「別に。お前が無理して下駄履いてきた時点で、こうなる確率は八割と予測しとった」


淳は絆創膏を貼り終えると、私に背中を向けた。


「乗れ。駅まで歩けんやろ」

「え? 無理無理! 重いし!」

「うるさいっちゃ。このままじゃ終電逃すぞ。緊急搬送や」


淳は強引に私の腕を引き、背中に乗せた。

甚平の生地のざらっとした感触。淳の背中の温かさ。


「……重くない?」

「重い。教科書二十冊分くらいある」

「一言多いんよ、あんたは」


淳の雪駄の音が、ザッ、ザッ、と響く。

私は、淳の首に回した腕に無駄な力が入っていることに気づいた。

背中が広い。男の匂いがする。

やばい。猛烈に意識してしまう。


(好きじゃない。絶対に好きじゃない。私たちはただの悪友だ)


自分に言い聞かせるけれど、心臓の音が彼に伝わってしまわないか、そればかりが気になって仕方がなかった。


「淳」

「ん?」

「……あんた、意外と背中広いんやね」

「骨格と筋肉量の問題や。お前が軽すぎるわけやないから安心しろ」

「……ほんとムカつく」


軽口を叩き合えることが、今は無性にありがたかった。


第七章:脱ぎ捨てた魔法、残った熱


アパートの前に着いたのは、日付が変わる直前だった。


「降ろすぞ」


淳は私を玄関の前に立たせた。


「気をつけて帰れよ。ちゃんと消毒しろ」

「うん。あんたも……今日は、ありがと」


淳は少し躊躇うように立ち止まり、「おう」とだけ短く返事をして、闇の中に消えていった。


部屋に入り、電気をつける。

私は帯を解いた。シュルシュルと解ける音が、魔法が解ける音のように聞こえた。

いつものTシャツと短パンに着替えると、鏡の中の私は、見慣れた「佐藤静香」に戻っていた。


「はぁ〜……疲れた」


私は布団に倒れ込んだ。

あの変なドキドキは、夏の暑さと人混み、そして慣れない浴衣のせいだ。


ただ、異性の友達と花火を見て、手を繋いで、おんぶされた。その非日常なイベントに、脳が少しエラーを起こしただけ。


「……私としたことが、変に意識しちゃったな」


一人で呟いて、苦笑いする。

恋に落ちた、なんていう劇的な変化はない。

明日の朝には、また図書館でボサボサ頭のまま、難解な顔をして彼と議論を戦わせる「悪友」に戻るだろう。


でも、絆創膏の貼られた足先を見るたびに、彼の不器用な優しさと、意外に広かった背中を思い出してしまうのは事実だった。

窓の外では、少し生ぬるい東京の夜風が吹いている。


「まあ、たまにはこういう夏も悪くないか」


私は目を閉じた。

とりあえず明日は、今日の気まずさを吹き飛ばすくらい、容赦なくあいつのレポートの矛盾点を突いてやろうと決意しながら。

最後までお読みいただきありがとうございます。「恋愛の一歩手前」特有の気まずさや、急に相手が異性に見えてドギマギしてしまう瞬間を描いてみました。翌日にはまた、照れ隠しで憎まれ口を叩き合う二人の姿が目に浮かびますね。この計算外のドキドキがいつか二人の関係を変えるのか……それはまた別のお話です。

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