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『屈折率のシンデレラ、解析不能な美貌』

物質の中を進む光の速さは、真空中よりも遅くなる。その比率を「屈折率」と呼ぶらしい。

 難しい物理の話は専門外だが、要するに「レンズを通すと物は歪んで見える」ということだ。

 私の世界は、分厚いレンズによって守られている。

 度の強い眼鏡、手入れされていない髪、よれたパーカー。これらは私の「屈折率」を極限まで高め、世間の視線を逸らすための迷彩だ。

 史学科の地味な学生。図書館の住人。風景の一部。

 そう認識されている限り、私は安全だった。誰からも過度な期待をされず、古文書の解読に没頭できる至福の無名時代。

 だが、歴史が証明している通り、平和な時代は突如として終わりを告げる。

 たった一つの偶然、あるいは気まぐれな「観測者」の手によって、レンズが外された時――。

 隠蔽されていた真実は、暴力的なまでの輝きを持って世界を灼き尽くすのだ。

 これは、表参道という敵地で起きた「発掘作業」と、それによって定義が変わってしまった、ある二人の観測記録である。

第一章:表参道の「発掘作業」


その日、佐藤静香は不機嫌だった。

理由は明白だ。必要な史料が本郷の図書館になく、わざわざ表参道の古書店まで足を運ばなければならなかったからだ。

キラキラとしたブランドショップが立ち並び、モデルのように洗練された人々が行き交うこの街は、静香にとって「敵地」以外の何物でもなかった。

いつものヨレヨレのパーカー、膝が出かけたジーンズ、底のすり減った革鞄。そして、分厚い眼鏡。

この「迷彩服」を着ていれば、私は東京という砂漠の石ころになれる。誰の視界にも入らない、ただの背景。それが一番居心地が良い。

そう思っていたはずだった。


「すみません! そこの眼鏡の……そう、あなた!」


不意に、進行方向を塞がれた。

金髪のセンター分け、流行りのオーバーサイズジャケットを着たチャラそうな男だ。

(キャッチセールスか、宗教か、あるいは詐欺か)

静香は瞬時に警戒レベルを最大に引き上げ、無言で横を通り抜けようとした。


「待って待って! 怪しいもんじゃないから! 俺、そこのサロンの美容師やってるんだけどさ」


男は食い下がってきた。


「今、ホットペッパーの企画で『ビフォアアフター』の撮影してて。どうしてもカットモデルが見つからなくて探してたんだよ。君、すごくいい素材持ってるね!」

「……はあ?」


静香は低い声で唸った。


「素材? 私が? 冗談は顔だけにして」

「いやマジで! 骨格のバランスが神がかってる。ただ、今は……その、色々と『地層』に埋もれてるだけで」


男は失礼なことを言いつつ、必死に手を合わせた。


「頼む! カット、カラー、トリートメント、全部無料! さらに謝礼で一万円出す!」


静香の足が止まった。


(一万円……)


今探している古書は、八千円する。今月の生活費を切り詰めれば買えるが、淳と赤門ラーメンを食べる回数を減らさなければならない。

背に腹は代えられない。それに、髪も半年以上切っておらず、洗って乾かすのが面倒になってきていたところだ。


「……タダで、一万円?」

「そう! 君のその『垢抜けなさ』が逆に最高なんだよ! ビフォアの撮れ高として完璧!」

「あんた、一回殴っていい?」


こうして、歴史文化学科の地味な女子大生は、表参道の有名サロンという「実験室」へ連行されることになった。


第二章:修復師たちの狂喜


サロンの中は、宇宙船のコックピットのように眩しかった。

鏡張りの壁、薬剤のツンとする匂い、飛び交うドライヤーの音。


「じゃあ、始めるよ。テーマは『ダイヤの原石、発掘』だ」


先ほどの美容師が、ハサミを構えてニヤリと笑った。

アシスタントの女性が、静香の眼鏡を外す。


「……ちょっと、見えんのやけど」

「大丈夫、終わったら世界が変わって見えるから」


そこからの二時間は、静香にとっては「拷問」であり、美容師たちにとっては「遺跡の発掘作業」だった。

ボサボサの黒髪には、最高級のトリートメントが塗りたくられ、蒸気を当てられる。

伸び放題だった前髪はミリ単位で調整され、重たかった後ろ髪はレイヤーを入れられて軽やかに踊り始めた。


「うわ、肌めっちゃ綺麗……」


メイク担当の女性が、ファンデーションを塗ろうとして手を止めた。


「お客さん、普段日焼け止めとか塗ってます?」

「いや、何も。下関の山奥育ちなんで、紫外線には強いかもしれん」

「素材勝ちすぎる……。ファンデいらないかも。コンシーラーとハイライトだけで十分だわ」


メイクが進むにつれて、周りのスタッフがざわつき始めた。

最初は「地味な子をマシにする」という雰囲気だったのが、次第に「とんでもないものを掘り当ててしまった」という、考古学者が世紀の発見をした時のような熱気に変わっていく。


「目、大きいな! 眼鏡の度数が強すぎて小さく見えてただけじゃん」

「リップはこの色だ。粘膜の色に近いローズ系。これで血色感を足すと……」

「やばい、鳥肌立ってきた」


静香はされるがままになっていた。

鏡の中の自分がどうなっているのか、近視の裸眼ではぼんやりとしか見えない。

ただ、筆が顔を走る感触や、髪が丁寧に扱われる感覚は、古文書の修復作業に似ているな、とぼんやり考えていた。


「よし、完成。……眼鏡かける前に、コンタクト入れてみて」


渡された使い捨てコンタクトレンズを、震える手で装着する。

世界がクリアになった。

そして、目の前の鏡を見た。


「…………誰?」


そこには、佐藤静香はいなかった。

いや、いるのだが、静香の知っている静香ではなかった。

艶やかなダークブラウンの髪は、計算された無造作感で肩に揺れている。

肌は陶器のように白く輝き、薄く引かれたアイラインが、切れ長で涼しげな瞳を強調している。

唇は潤み、知的でミステリアスな、それでいて触れたくなるような色気を放っていた。

いわゆる「クラスの隅にいる地味子」が、実は「学園一の美女」だったという、少女漫画でしかあり得ない現象が、物理法則を無視して発生していた。


「最高だ……」


美容師が恍惚こうこつとした表情で呟いた。


「ビフォアがこれ(ボロボロのパーカー姿の写真)で、アフターがこれ。この落差、バズるぞ」


撮影用の衣装——シンプルな白のブラウスとタイトスカート——に着替えさせられると、静香はもはや自分という自我を保つのに必死だった。

鏡の中の女は、銀座の高級クラブのナンバーワンか、あるいはキー局のアナウンサーか。

少なくとも、赤門ラーメンをニンニク増しですする女には見えなかった。


第三章:モーゼの十戒


撮影と謝礼の受け渡しを終え、静香はサロンの外へ放り出された。


「メイク、落としていきますか?」


と聞かれたが、古書店の閉店時間が迫っていたため、


「そのままでいいです」


と答えてしまったのが運の尽きだった。

表参道の人混み。

静香が一歩踏み出すと、奇妙な現象が起きた。

人波が、割れるのだ。

普段なら、誰かに肩をぶつけられたり、急ぐ人の邪魔になったりして「すみません」と頭を下げるのが常だった。

しかし今は、向こうから避けていく。

それも、驚いたような顔で。


(な、なんやこれ……)


すれ違う男性たちが、例外なく振り返る。


「え、今の誰?」


「モデル?」


「女優じゃね?」


という囁き声が、聴覚の鋭い静香の耳に届く。

中には、あからさまに立ち止まって見とれる者もいた。

視線が熱い。痛いほどに突き刺さる。

それは、いつもの「値踏みされるような視線」や「無視される感覚」とは全く異質のものだった。

畏怖いふと、羨望せんぼうと、欲望が入り混じった、強烈なエネルギー。

静香は恐怖を感じた。


(見らんで……そんなに見らんで……!)


中身は、下関の農家の娘なのだ。ジャージでコタツに入ってみかんを食べるのが至高の喜びとする人間なのだ。

こんな「絶世の美女」の皮を被らされても、操縦方法が分からない。

古書店に入ると、店主の老人がギョッとして立ち上がった。


「あ、あの……何かお探しで……?」

「……『明治初期官僚制の研究』、取り置きしてた佐藤です」

「えっ!? さ、佐藤さん!? いつもの!?」


店主の狼狽ろうばいぶりを見て、静香は少しだけ冷静になれた。


(ああ、やっぱり外見の威力ってすごいんやな)


歴史を学んでいれば分かる。クレオパトラ、楊貴妃。美貌が国を動かし、滅ぼした事例は枚挙にいとまがない。

美しさとは、単なる形質ではなく、圧倒的な「暴力」であり「権力」なのだ。

本を受け取り、逃げるように店を出た。

一刻も早く、この魔法を解きたい。

家に帰って、顔を洗って、いつものジャージに着替えたい。

その時、スマホが震えた。


『今どこ? 本郷戻った? 飯行かんか』


淳からだった。


第三章:観測者、撹乱かくらんする


待ち合わせ場所は、渋谷のハチ公前になった。

本郷に戻る時間も惜しいほど腹が減っているという淳の希望だ。

土曜の夜のハチ公前は、カオスだった。

静香はその雑踏の中に立っていた。

周りの視線が集まる。ナンパ待ちと勘違いした男たちが数人、声をかけようと近づいてくるが、静香が放つ「氷点下の拒絶オーラ」を感じ取って、すごすごと引き返していく。


「……遅い」


静香はイライラしていた。

そこへ、改札から淳が出てきた。

いつものヨレヨレのチェックシャツ。背中には巨大なリュックサック。

見慣れた、安心する姿。

淳はキョロキョロと辺りを見回している。

そして、静香の方を見た。

目が合った。


(……気づくか?)


しかし、淳の視線は静香を素通りした。

まるで「そこには関係ない人がいる」と認識したかのように、すぐに視線を外し、再び人混みの中へ「地味な眼鏡の女」を探し始めたのだ。

静香は、少しだけショックを受けた。

いや、当然だ。今の自分は、淳が知っている佐藤静香の対極にいる。

でも、六年間も毎日顔を合わせていた相手だ。骨格とか、立ち姿で分からないものか。


「……淳」


静香は声をかけた。

人混みの騒音にかき消されないよう、少し張った声で。

淳が振り返った。

目の前にいる「超絶美女」が、自分に話しかけていることに戸惑っている。


「え、あ、はい? 何か落としました?」


敬語だ。

淳が、私に敬語を使った。


「何寝ぼけたこと言いよるん。私よ、私」


静香は、いつもの不機嫌なトーンで言った。


「足痛いけぇ、早くして」


淳の時が止まった。

口が半開きになり、瞬きが停止する。

彼の脳内で、高度な画像解析処理と音声認識のマッチングが行われているのが手に取るように分かる。


「……は?」


淳がうめいた。

一歩、後ずさる。


「え……し、静香……?」

「そうよ。他に誰がおるん」

「嘘やろ!? お前……ええ!?」


淳は大声を上げた。周りの人がギョッとしてこちらを見る。


「なんやその顔! その服! 誰の皮を剥いで被ってきたんや!」

「人聞きの悪いこと言うな! ちょっと……事故みたいなもんで、こうなったんよ」


淳はおそるおそる近づいてきた。

まるで、未知の地球外生命体に触れようとする科学者のように、指先で静香の肩(ブラウスの生地)をつつく。


「実体がある……。ホログラムじゃない……」


そして、改めてまじまじと静香の顔を見た。

至近距離で。

淳の視線が、目元、唇、鎖骨のラインへと移動する。

その目が、次第に「驚愕」から「動揺」へと変わっていく。


「……お前、眼鏡取ったら、そんな顔しとったんか」


淳の声が、少しかすれていた。


「知らんかった。毎日見よったのに、俺は何も見えとらんかったんか」

「……化粧の力よ。騙されんさんな」


静香は顔を背けた。

淳に見つめられると、表参道の男たちに見られるのとは違う、胸の奥がざわつくような感覚に襲われた。

恥ずかしい。

裸を見られるよりも、今のこの「作り込まれた完璧な姿」を見られる方が、なぜか恥ずかしかった。


「……行こう。腹減ったんやろ」

「あ、ああ。そうやな」


二人は歩き出した。

いつもなら並んで歩く距離感が、今日は微妙に遠い。

淳が、意識して距離を取っているのが分かった。


第五章:ラーメン屋のヴィーナス


連れて行かれたのは、センター街の路地裏にある、床が油でヌルヌルするような豚骨ラーメン屋だった。


「こんな格好の女が入っていい店じゃない」


と静香は抗議したが、淳は「ここじゃないと俺の精神が保たん」と言い張った。

カウンター席。

白いブラウスに紙エプロンをつけ、髪を耳にかけてラーメンを待つ静香。

その姿は、場違いを通り越して、シュールレアリスムの絵画のようだった。

店員も、隣の客も、チラチラと静香を見ている。


「……食いづれぇ」


淳が小声で言った。


「隣にこんな美女がおると、ラーメンの味がせん。視覚情報が味覚情報を阻害しよる」

「知らんがな。目ぇつぶって食え」


静香は、出てきたラーメンに紅生姜を大量に乗せ、いつも通り豪快に麺をすすった。

ズズズッ!

その音と、変わらぬ食べっぷりを見て、淳はようやく肩の力を抜いたようだった。


「……あー、安心した。中身は静香や」

「当たり前やろ。外側が変わったくらいで、魂まで変わるか」

「いや、変わるやろ普通。その顔なら、港区でシャンパンタワーさせられるぞ」


淳は水を飲み、改めて静香を見た。

今度は、恐れるような目ではなく、少し寂しそうな、でも優しい目で。


「綺麗やな」


淳がポツリと言った。

茶化すでもなく、媚びるでもなく、物理的事実を述べるように。

静香の手が止まった。

心臓が、大きく跳ねた。


「……その髪も、化粧も。よう似合っとるよ。今まで隠しとったんが罪深いレベルでな」

「……やめてよ。どうせ魔法は解けるんよ。顔洗ったら元通り」

「元通りにはならんよ」


淳は言った。


「俺が知ってしもうたからな。お前の中に、こういう『可能性』が潜んでるってことを」


淳は、自分のラーメン鉢を見つめた。


「量子の世界ではな、観測されるまで状態は確定せんのよ。お前はずっと『地味な静香』として確定しとったけど、今日、観測結果が変わった。これからは、俺がお前を見るたびに、この姿が多重露光みたいに重なって見えるはずや」

「……それ、迷惑なんやけど」

「知るか。俺の網膜に焼き付いた責任を取れ」


淳は笑った。

その笑顔を見て、静香もつられて笑った。


「ふふっ。バカみたい」


店内は油臭く、男たちの話し声でうるさい。

けれど、この瞬間だけは、どんな高級フレンチのディナーよりも満たされていた。

外見がどれだけ変わろうと、この「会話の周波数」が合う相手は、世界中でこいつしかいない。


「……でも、やっぱり不便やわ、この顔」


静香は髪をかき上げた。


「みんなが見てくるし、気を使うし。研究には邪魔なだけや」

「贅沢な悩みやな。ま、安心しろ」


淳はチャーシューを頬張りながら言った。


「お前がどんなに美人になっても、俺の中では『関門トンネルで単語帳見ながら白目むいて寝てた女』っていう事実は揺るがんから」

「……殺すよ?」


第六章:魔法が解けたあとに


本郷のアパートに帰り着いたのは、深夜だった。

静香は洗面台の前に立った。

鏡の中には、まだ「知らない美女」がいる。

一万円の謝礼と引き換えに手に入れた、一夜限りの仮面。


「……楽しかったけど、疲れた」


静香はクレンジングオイルを手に取った。

丁寧にメイクを落としていく。

アイラインが消え、リップが消え、陶器のような肌がいつものそばかす混じりの肌に戻っていく。

コンタクトを外し、分厚い眼鏡をかける。

そこには、いつもの佐藤静香がいた。

少し猫背で、目つきの悪い、本の虫。

けれど、鏡の中の自分に向かって、静香は小さく微笑んでみた。

以前よりも、自分の顔が少しだけ好きになれた気がした。

この地味な外見の下には、あの表参道をざわつかせ、淳を動揺させた「輝き」が眠っている。

それを知っているだけで、背筋が少し伸びる気がした。


『風呂入ったか? 明日は五時集合な』


淳からLINEが入る。


『了解。遅れるなよ』


静香は短く返信した。

革鞄には、今日買った古書が入っている。

髪からは、まだ高級なトリートメントの良い香りがする。

明日の朝、図書館で淳に会ったら、きっとまた「いい匂いさせるな」とからかわれるだろう。

でも、その時にはもう、私はただの静香だ。

そして淳も、ただの淳だ。

それでいい。いや、それがいい。

極上の美貌は、ここぞという時のための「秘密兵器」として、深層心理の金庫にしまっておこう。

静香は電気を消し、いつもの煎餅布団に潜り込んだ。

夢の中でなら、もう一度くらい、あの姿で街を闊歩かっぽしてもいいかもしれない。

そんなことを思いながら、彼女は深い眠りへと落ちていった。

翌日の学食。淳は冷やし中華をすすりながら、不躾に私を凝視した。

「何なん」

「いや、昨日の『異常値』との差分を確認しとるだけや。やっぱ今のボサボサの方が、データの整合性が取れて落ち着くな」

「喧嘩売っとる?」

「事実や。美貌は維持コストが高い非効率な形態やし、お前には豚骨の脂がお似合いや」

「殺すよ?」

 結局、世界は元通り。ただ、私の「屈折率」が狂ったという事象だけが、彼の観測ログに淡々と記録された。

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