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『情報の洪水のなか、僕らは不完全なままシモキタで再会する』

かつて私たちは、関門海峡の轟音響くトンネルで英単語を叫び、物理の公式を呪文のように唱えていた。それが未来への切符だと信じて。だが今、掌の中にあるAIは、私たちが六年かけて刻んだ知識を一瞬で凌駕する。「人間が学ぶ意味とは何か?」。これは、自身の価値を見失いかけた三人の旧友が、下北沢というカオスの街で再会し、効率化された世界に対する「人間であることの証明」を探そうとする、ひと夏の物語である。

第一章:下北沢の「ノイズ」


週末の下北沢は、情報の洪水だった。

古着屋から溢れ出す極彩色の服、ライブハウスの重低音、スープカレーのスパイスの香り、そして若者たちの喧騒。

整然とした本郷キャンパスや、静寂に包まれた関門トンネルとは対極にあるこの街に、佐藤静香は圧倒されていた。


「……人、多いね」

「東京の人口密度は異常値やけぇな。エントロピーが増大しすぎて、カオスの一歩手前や」


隣を歩く岩井淳が、ボロボロのリュックを前に抱えながら呟く。彼もまた、この街の「サブカルチャー」という名の独特な磁場に馴染めていない様子だ。


「おーい! こっちこっち!」


南口の改札前。人波の向こうから、手を振る男がいた。

高田たかだ裕也ゆうや

明治学園時代の同級生であり、現在は九州大学医学部に通う秀才だ。

彼は、下関から東京へ出てきた二人とは違い、福岡の「九大」という九州最高峰の砦を守る道を選んだ男だった。


「久しぶり! 元気にしちょった?」


裕也は、洗練されたジャケットを着こなし、笑顔で駆け寄ってきた。高校時代、学年トップを淳と争っていたガリ勉の面影はなく、すっかり「博多の大学生」らしい垢抜けた雰囲気を纏っている。


「裕也、久しぶり。なんかシュッとしたね」

「そうか? 博多は美人が多いけぇ、身だしなみに気を使わんと淘汰されるんよ」

「出た、医学生の余裕」


淳が茶化すと、三人は顔を見合わせて笑った。


「で、なんでまた下北沢なん?」


静香が尋ねると、裕也は苦笑いしながら頭をかいた。


「いや……普段、医学部のキャンパスと病院の往復やろ? 無機質なんよ、世界が。だから東京に来た時くらい、こういう『わけのわからんもん』がごちゃ混ぜになっとる場所が見たかったんよ」

「わけのわからんもん、か」


淳が古着屋の店先にある、誰が着るのか分からない派手な柄シャツを指差した。


「確かに、ここはカオスやな。俺らの好きな『秩序』がない」


第二章:スープカレーと偏差値の亡霊


三人は、路地裏にあるレトロな雰囲気のスープカレー屋に入った。

スパイスの複雑な香りが漂う店内。木製のテーブルを囲むと、自然と会話は高校時代の「戦場」の話に戻る。


「懐かしいね、朝の小テスト。裕也、いっつも満点やったもんね」

「あのプレッシャーは異常やったよ。間違えたら負け、みたいな空気やったし」


裕也がラッシーを一口飲み、ふと真顔になった。


「なあ。俺ら、死ぬほど覚えたやん? 英単語も、化学式も、解剖学の骨の名前も」

「おう。脳みそのシワが擦り切れるほどな」


淳がチキンをほぐしながら答える。


「最近、思うんよ」


裕也の声のトーンが、一段階落ちた。


「俺らが必死に積み上げたその『知識』って、もう価値がないんやないかって」


静香の手が止まった。


「……どういうこと?」

「こないだ、AIに医師国家試験の過去問を解かせたんよ。数秒やぞ。数秒で合格ラインを超えやがった」


裕也は自嘲気味に笑った。


「俺が六年かけて、睡眠時間削って、吐きそうになりながら脳みそに詰め込んだ膨大なデータを、あのプログラムは一瞬で出力する。診断も、治療方針も、論文の検索も、俺より速くて正確や」


店内のBGM(けだるい洋楽)が、妙に遠く聞こえた。


「俺はずっと、記憶力と処理能力が自分の武器やと思っちょった。でも、それはもう『人間がやる必要のない作業』になりつつある。俺らはただの……容量の少ないUSBメモリやったんかもしれん」


裕也の言葉は、鋭いナイフのように静香の胸に刺さった。

静香もまた、歴史の年号や史料を暗記することに青春を費やしてきた。


「関門トンネルの暗闇で、一番集中して単語を覚えられた」


あの成功体験が、今、根底から否定されようとしている。


「頭がいいって、何なんやろうな」


裕也は天井を見上げた。


「俺、最近怖くて勉強に身が入らんのよ。これから何十年も医者やるのに、俺の脳みそ、AIの下位互換なんやないかって」


第三章:あいつらは「痛み」を知らない


沈黙が流れた。

スパイスの香りだけが、場違いに食欲を刺激する。

口を開いたのは、淳だった。


「裕也。お前、相変わらず頭ええけど、バカやな」

「はあ?」


裕也がムッとした顔をする。


「事実やろ。計算速度と記憶容量で負けとるのは」

「物理の話をしてええか?」


淳は、いつもの調子でスプーンを振り回した。


「AIはな、答えを知っちょるだけや。プロセスを『体験』してない」

「体験?」

「そうや。例えば、このスープカレー。AIは『20種類のスパイスが配合されており、辛さは中辛』ってデータを出せる。でも、いま俺らが感じとる『舌がヒリヒリする感覚』とか『熱くて汗が出る不快感と爽快感』は分からん」


淳は、自分の頭を指差した。


「俺らが高校時代、あの電車の中で単語帳と格闘した時、ただ情報をインプットしただけか? 違うやろ。眠気と戦って、揺れに耐えて、隣のやつのページめくる音に焦って……そういう『身体的な負荷』と一緒に記憶したやろ」


静香は、あの頃の感覚を思い出した。

革鞄の重み。トンネルの轟音。冬の寒さ。

それら全ての「ノイズ」と共に、知識は身体に刻まれている。


「それが何になるんよ」


裕也が反論する。


「結果が全てやろ。患者を治せれば、プロセスなんてどうでもいい」

「治すのは『正解』を出すことだけじゃないやろ」


静香が口を挟んだ。


「私もね、歴史の研究してて思うんよ。史料のデータ化はAIの方が得意。でも、その古文書についた『虫食いの跡』とか『筆跡の乱れ』を見て、書いた人の焦りや悲しみを想像するのは、人間にしかできん」


静香は、裕也の目を見て言った。


「裕也が医者になった時、患者さんが欲しいのは『0.1秒で出される最適解』だけじゃないと思う。裕也が六年かけて苦しんで、迷って、それでも勉強し続けたっていう『厚み』みたいなもんが、言葉の端々に出るんよ。それが安心感になるんじゃない?」


第四章:不完全なCPUたちの逆襲


裕也はしばらく黙り込み、冷めたラッシーを見つめていた。

やがて、小さく息を吐き出した。


「厚み、か……。抽象的やな」

「人間やけぇね」


淳がニカっと笑った。


「俺らは不完全なCPUなんよ。エラーも吐くし、熱暴走もする。でも、その『ノイズ』を含めて思考できるのが、生物としての強みや」


淳は、窓の外を歩く奇抜なファッションの若者たちを指差した。


「見てみぃ。AIにあんな格好は思いつかん。効率が悪すぎる。でも、あいつらはあれが『楽しい』と感じとる。俺らがわざわざ勉強して、分からん問題に頭抱えて、『あーっ!』て叫びたくなるあの感覚も、AIには理解不能な娯楽かもしれん」

「勉強が娯楽かよ。変態やな、お前」


裕也がようやく笑った。憑き物が落ちたような、少し柔らかい顔だった。


「俺らは、記憶媒体じゃない」


淳は断言した。


「俺らは『考えるあし』や。風に吹かれて、揺れて、折れそうになりながら考えることに意味がある。答え合わせはAIにさせときゃいい。俺らは、問いを立てるんや」

「問いを立てる、か」


裕也は頷いた。


「……そうやな。なんで人間は病気になるんか、なんで生きたいと願うのか。それはデータじゃなくて、哲学の領域か」

「ま、そんな高尚なこと考えんでも」


静香は笑って言った。


「とりあえず、今日は久しぶりに三人集まれた。それがAIには予測できん『奇跡』ってことでいいやん」


第五章:迷路の出口


店を出ると、下北沢の空は夕焼けに染まっていた。

雑多な電線が空を切り取り、どこか懐かしいような、切ないような景色を作っている。


「なんか、すっとしたわ」


裕也が伸びをした。


「九大戻ったら、また解剖学の暗記地獄やけど……まあ、それも『厚み』を作る作業やと思って耐えるわ」

「おう。頑張れよ、未来の名医」


淳が裕也の背中をバシッと叩いた。


「お前らもな。物理学者と歴史学者か。食えん職業ばっかり選びやがって」

「うるさいっちゃ。ロマンで飯を食うんよ」


駅へ向かう道すがら、静香はふと、自分の使い古した革鞄を撫でた。

AIには、この鞄の傷の歴史は語れない。

底がすり減るまで歩いた時間、染み込んだ雨の記憶、そして今日、この下北沢で友人と語り合った温度。

それら全てが、私の知性の一部なのだ。


「ねえ」


静香が言った。


「AI時代を生き抜く方法、分かった気がする」

「ん? なんや?」


二人が振り向く。


「AIに使われるんじゃなくて、AIと一緒に『旅』をすればいいんよ。うちらが電車の中で、単語帳と旅したみたいに。あいつらは最強の参考書やけど、ページをめくって、感動するのはうちらの役目」

「……お前、たまに詩人みたいなこと言うよな」


裕也が笑い、淳が頷いた。


「ま、そういうことや。思考停止せん限り、俺らは廃車にはならん」


下北沢の駅前。

三人はそれぞれの帰路につく。

裕也は羽田空港へ。淳と静香は本郷へ。


「またな!」

「おう! 次は博多でラーメン食うぞ!」


人混みの中に消えていく友人の背中は、来る時よりも少し大きく見えた。

シリコンの海がどれほど広がろうとも、私たちはこの足で、迷路のような現実を歩き続けていける。


関門海峡の荒波を越えた、あの日のように。

静香は強く地面を踏みしめ、改札を抜けた。

その横顔には、もう迷いはなかった。

効率化が進む現代、私たちはつい「最短ルート」や「正解」ばかりを求めがちだ。しかし、友人と無駄話をし、悩み、回り道をすることこそが、AIには生成できない「人生の厚み」を作るのではないだろうか。彼らがスパイスの香りと共に噛み締めたのは、カレーの味だけでなく、苦くも愛おしい青春のプロセスだった。不完全さを愛すること。エラーやノイズを含めて思考すること。それが、AI時代を生きる私たちの最大の武器なのだ。

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