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『観測不能な星の距離』

故郷の下関を離れ、東京という巨大な加速器に放り込まれた私たち。

そこは、標準語という異国の言葉が飛び交い、洗練という名の引力が働く場所だった。

幼馴染の岩井淳と私は、ボロボロの英単語帳と、潮風の染み付いたプライドだけを武器に、その街の片隅で必死に「観測」を続けていた。

お互いの存在は、暗闇のなかで現在地を確認するための、たった一つの不変的な定数のはずだった。

けれど、あの日。

五月の連休が明けた朝、彼から漂ってきた見慣れない香りは、私たちの安定していた軌道が、少しずつ狂い始めた合図だった。

これは、物理学の美しさに魅了された一人の男が、恋という名の「特異点」に飲み込まれ、そして再び地上に這い上がってくるまでの、あまりにも不器用な記録である。

第一章:エントロピーの増大


異変に気づいたのは、五月の連休が明けてすぐのことだった。

いつものように朝の図書館に並んでいた時、隣にいる岩井淳から、妙な匂いがした。

いつもなら、安物の洗剤と、少しの汗と、古本の匂いが混ざった「生活の匂い」がするはずだ。あるいは、前日に食べたニンニクたっぷりのラーメンの残り香。

けれどその日は、微かにシトラスのような、鼻の奥をくすぐる香りがした。


「……あんた、柔軟剤変えた?」


私が尋ねると、淳は文庫本(珍しく物理の専門書ではなく、夏目漱石の『三四郎』だった)から顔を上げずに答えた。


「ああ。前のやつ、切れたけぇ」

「ふーん。なんか、色気づいた匂いするけど」

「うるさいっちゃ。……これからは清潔感が大事なんよ、清潔感が」


その言葉の響きに、私は背筋が粟立つのを感じた。

淳の口から「清潔感」なんて単語が出るのは、物理学の法則が乱れる前兆に等しい。

見れば、いつもはヨレヨレのチェックシャツなのに、今日はアイロンのかかった無地のオックスフォードシャツを着ている。髪も、心なしかセットされている気がする。


「淳。あんた、熱でもあるん?」

「ないわ。俺の体調は常に平衡状態や」

「じゃあ何? その本。『三四郎』なんて読んで。迷える羊にでもなるつもり?」


淳はそこでようやく私を見た。


その目。


関門トンネルの暗闇で、難解な数式と格闘していた時の、あの鋭く飢えた目ではない。

どこか遠く、ここではない場所を見ているような、熱っぽく潤んだ目。


「静香」


淳が小声で言った

「俺、見つけてしもうたかもしれん」

「何を? 新素粒子?」

「いや。……特異点」


私はため息をついた。

また物理の比喩だ。でも、今回の比喩は、いつもと質が違っていた。

それは、未知の現象への探究心ではなく、抗いがたい引力に引きずり込まれていく者の、降伏宣言のように聞こえた。


第二章:銀河系の彼方


その「特異点」の名前は、如月きさらぎ真耶まやさんといった。

理学部物理学科の同級生。

ただし、淳のような泥臭い一般入試組ではない。国際科学オリンピックのメダリストとして推薦で入ってきた、正真正銘の「天才」だ。

一度だけ、キャンパスのカフェテリアで遠くから見たことがある。

淳が「あそこ、あそこの窓際」と、まるでUFOでも発見したかのように興奮して指差した先に、彼女はいた。


「……綺麗やね」


思わず、素直な感想が漏れた。

長い黒髪は艶やかで、姿勢が良い。白いブラウスがよく似合う、都会的で洗練された女性だった。周りの男子学生と議論をしているようだったが、彼女の周りだけ空気が澄んでいるように見えた。


「やろ? すさまじいんよ」


淳がトレイを持ったまま、陶酔したように呟く。

「見た目だけやない。あの子の脳みそは、俺らとはOSが違う。先週の演習で、俺が三日かけて解いた量子力学の難問を、あの子は黒板の前で即興で解いてみせた。まるでピアノでも弾くみたいに」


「へえ……」

「しかもな、解き方が美しいんよ。無駄がない。数式が詩になっちょる」


私は、味噌汁をすすりながら、胸の奥がチクリとするのを感じた。

嫉妬ではない。断じて、恋愛的な嫉妬ではない。

ただ、淳が「俺ら」という言葉を使ったことに違和感を覚えたのだ。

今まで、淳の言う「俺ら」は、私と淳のことだった。

下関の田舎から出てきて、都会の荒波に揉まれながら、必死にボロボロのオールを漕いでいる同志。

けれど今、淳は目の前の彼女に対して、圧倒的な敗北感と、それ以上の憧れを抱いている。

それは、私たちが共有していた「努力すればなんとかなる」という泥臭い世界とは、別の次元の話だった。


「で、話したことあるん?」

「あるよ。『その計算、係数が間違ってます』って言われた」

「……それだけ?」

「それだけ。でも、俺の存在が彼女の網膜に映った事実だけで、観測としては成功や」


淳は幸せそうに笑い、冷めた唐揚げを口に運んだ。

その笑顔を見て、私は悟ってしまった。

ああ、こいつはもう、関門トンネルにはいないんだ。

光の届かない海底トンネルで、私と二人、カンテラの火を頼りに歩いていた淳は、今、眩しい太陽の下に出ようとしている。

私は、自分の足元にある擦り切れた革鞄を見た。

淳も同じ鞄を持っているはずなのに、今の彼には、その傷が見えていないようだった。

寂しさと、ほんの少しの焦燥。

置いていかれる。

物理的な距離ではなく、精神的な速度で。


第三章:標準語のよそよそしさ


それからの淳は、滑稽なほどに変わっていった。

まず、方言が減った。

私と話すときは今まで通り「〜っちゃ」「〜やけぇ」が出るが、大学内で話すときは、ぎこちない標準語を使おうと努力していた。


「昨日の講義、難しかったね」


などと淳が言うたびに、私は背中が痒くなった。


「あんた、無理しなさんな。イントネーションが変よ」

「うるさい。郷に入っては郷に従えや」

「郷って……あんたのアイデンティティは関門海峡に置いてきたんか」


淳は、如月さんに近づくために、必死で「東京の大学生」になろうとしていた。

ボロボロだったリュックサックを新調し、コンタクトレンズに変え、物理学の雑誌だけでなく、ファッション誌を立ち読みするようになった。

私との「朝の図書館」の習慣は続いていたが、その時間は明らかに質の違うものになっていた。

以前のような、お互いの存在を空気のように感じながら集中する静謐な時間ではない。

淳は頻繁にスマートフォンを気にし、ため息をつき、ノートに何かを書いては消していた。

数式ではない。おそらく、彼女に送るためのLINEの文面だ。


「……静香」

「ん?」

「女子って、どんなカフェが好きなん?」

「知らん。私はスタバの注文すら緊張する人間よ」

「役立たず」

「なんとでも言えば」


私は突き放したが、内心では淳のことが心配でたまらなかった。

淳は、無理をしている。

自分の地金じがねを隠して、メッキを塗って、彼女という星に近づこうとしている。

でも、そのメッキは薄い。

下関の山と海で育った無骨な魂は、そう簡単に洗練されたものにはならない。


「淳、あんたそのままでええやん。物理が好きで、ラーメンが好きで、声がでかい。それで十分やん」


ある日、たまらずそう言うと、淳は真顔で首を振った。


「それじゃあ届かんのよ」

「届くって、何を?」

光円錐こうえんすいの外側におるんよ、あの子は。因果関係を持つためには、俺が光速を超えて移動するか、空間を歪めるしかない」


淳の目は真剣だった。

恋をしている男の目というよりは、解けない難問に挑む研究者の目だった。

彼にとって、如月真耶という存在は、攻略すべき「宇宙の真理」そのものになっていたのだ。

私は、それ以上何も言えなかった。

戦友が、私の知らない戦場で、たった一人で戦おうとしている。

それに水を差す権利は、私にはない。


第四章:事象の地平面


六月。梅雨の季節。

本郷キャンパスは紫陽花あじさいの色に染まり、連日の雨で湿度が上がっていた。

その日、私は淳に呼び出された。

場所は、安田講堂の裏手にあるベンチ。夜の八時を過ぎていて、雨上がりのキャンパスはひっそりとしていた。

遠くから歩いてくる淳の姿を見て、私は全てを悟った。

彼の肩は落ち、新調したはずのシャツは雨に濡れて張り付き、背中が小さく見えた。

あんなに大事にしていた「清潔感」が、泥水のように濁っている。


「……淳」


私が声をかけると、淳はベンチに座り込んだまま、力なく笑った。


「静香。……実験、失敗したわ」


淳の手には、潰れた缶ビールがあった。

私は何も聞かずに、隣に座った。

濡れたベンチの冷たさが、スカート越しに伝わってくる。


「言うたん?」

「おう。言うた」


淳は空を見上げた。厚い雲に覆われて、星など一つも見えない。


「『好きです。付き合ってください』って。ド直球でな。小細工なしの、ニュートン力学的なアプローチや」

「……うん。で?」

「あの子、きょとんとしちょった」


淳は、缶ビールを一口飲んだ。


「『岩井くんって、私のこと人間として見てたんだ』って言われた」

「は?」


私は思わず声を上げた。どういう意味だ。


「あの子にとって、俺は『優秀な計算機』か『物理の話ができるスピーカー』やったらしい。性別とか、感情とか、そういうパラメータが存在するとは思ってなかったって」


淳の声は震えていた。


「『ごめんなさい。私、今は研究以外のノイズを入れたくないの。特に、あなたのそういう感情は、私の研究の邪魔になるから』」

「……何それ」


私の腹の底から、どす黒い怒りが湧き上がってきた。

邪魔? ノイズ?

淳の、この不器用で、真っ直ぐで、必死に磨き上げた想いを、ノイズ呼ばわりしたのか。


「なんて嫌な女……! 天才か知らんけど、人の心がないんか!」


私が立ち上がって叫ぼうとすると、淳が私の袖を掴んだ。


「やめろ、静香」

「だって、あんた……!」

「違うんよ。あの子は、悪くない」


淳は静かに言った。


「あの子は、正真正銘の『物理屋』なんよ。世界を数式でしか見てない。俺が勝手に、彼女に『人間らしいロマン』を期待して、勝手に近づいて、勝手に自滅しただけや」


淳は、悔しそうに、でもどこか納得したように笑った。


「住む世界が違ったんよ。最初から。俺は海峡の底を這うカニで、あの子は成層圏を飛ぶ鳥やった。それだけの話や」


淳の目から、一雫ひとしずく、涙がこぼれた。

雨のせいではない。

それは、彼が初めて見せた、子供のような涙だった。


「……痛いなぁ、静香」

「……うん」

「失恋って、こんなに物理的な痛みがくるんか。心臓が圧縮されよるみたいや」


私は、淳の背中をさすった。

慰める言葉なんて持っていなかった。

「次があるよ」なんて軽薄なことは言えない。

「あんたは素敵だよ」なんて言ったら、嘘くさくなる。

ただ、隣にいること。

同じ温度で、同じ湿度の中で、呼吸をすること。

それが、私たちが六年間、電車の中でやってきた「生存確認」だった。


「……あんたは、カニかもしれんけど」


私は、喉の奥の詰まりを飲み込みながら言った。


「世界一、根性のあるカニよ。ハサミはボロボロやけど、中身は詰まっとる」

「……なんやそれ。褒めとんか」

「褒めとるよ。バカ」


二人の間に、沈黙が降りた。

雨上がりの湿った風が、紫陽花の匂いを運んでくる。

それはシトラスの香りではない。土と、草と、雨の匂い。

私たちの知っている、地上の匂いだ。


第五章:基底状態への帰還


翌朝。

私はいつものように、午前五時に起きて図書館へ向かった。

昨日の今日だ。淳は来ないかもしれない。

そう思いながら列に並んでいると、背後からあくびの音が聞こえた。


「……ねむい」


振り返ると、そこには淳がいた。

オックスフォードシャツではない。ヨレヨレのチェックシャツ。

髪は寝癖がついたまま。

眼鏡のレンズが少し曇っている。

そして、あの懐かしい「生活の匂い」がした。


「淳」

「おう。……昨日はすまんかったな、見苦しいとこ見せて」


淳は頭をかきながら、ばつが悪そうに言った。


「別に。見慣れとるし。あんたが模試でE判定取って泣きよった時と同じ顔やった」

「うっさいわ。過去のデータは破棄しろ」


開館のチャイムが鳴った。

私たちは慣れた足取りで入館し、いつもの窓際の席を確保した。

淳は鞄から、物理の専門書を取り出した。

そして、もう一冊。ボロボロになった英単語帳『ターゲット1900』を机に置いた。


「……何それ? まだ使うん?」

「いや。お守り」


淳は単語帳をポンと叩いた。


「俺の原点はここやけぇ。小洒落た服着ても、標準語使うても、俺の中身はこの手垢まみれの紙束なんよ。それを忘れて調子乗っとったバチが当たったんや」

「……そう」


私は、自分の革鞄を撫でた。

「おかえり、淳」

「ただいま。……さて、やるか」

「うん」


淳はシャープペンシルをノックし、猛然と計算を始めた。

その横顔は、昨日の夜の弱々しいものではない。

獲物を狙う野獣のような、あるいは修行僧のような、あの集中した顔だ。

失恋の痛みは消えていないだろう。

でも、彼はそれを「燃料」に変えたのだ。悔しさを、惨めさを、全部エネルギーに変換して、また泥臭く進もうとしている。

(やっぱり、あんたは私の戦友や)

私は心の中でそう呟き、歴史の資料を広げた。

静寂が戻ってくる。

心地よい、真空の静寂。

隣にいる淳のシャーペンの走る音だけが、鼓動のように響く。

窓の外では、東京の空が青く晴れ渡っていた。

関門海峡は見えない。潮騒も聞こえない。

でも、私たちがここに座っている限り、ここは「移動する自習室」だ。

どこへでも行ける。どんな壁でも越えられる。

ふと、淳が顔を上げずに言った。


「静香」

「ん?」

「今日の昼、赤門ラーメンでええか。ニンニク増しで」

「……臭くなるよ」

「ええやん。誰に気兼ねする必要もないしな」


淳はニカっと笑った。

その笑顔には、メッキが剥がれた後の、強くて錆びない鉄のような輝きがあった。


「しょうがないね。付き合っちゃる」

「おお、恩に着る」


私たちは視線を戻し、再びそれぞれの世界へ潜っていった。

失恋という小さな特異点を通過して、私たちの軌道は少しだけ修正された。

でも、進む方向は変わらない。

傷だらけの鞄を背負って、果てしない知の荒野を、二人で歩いていく。

それだけで十分だ。

恋だの愛だのという名前のつかない、この強固な関係がある限り、私は寂しくない。

淳の隣にいるのは、天才的な美少女ではなく、同じ泥の中を知る私なのだから。

ペンを握る手に、力がこもる。

初夏の陽射しが、机の上のほこりをキラキラと照らしていた。

本作は、夢と現実、そして「持たざる者」が「持つ者」に憧れた時に生じる、心の中の相転移を描きたいと思い執筆しました。

如月真耶という圧倒的な「正解」を前にして、自分の「地金」を隠そうとした淳の姿は、滑稽に見えるかもしれません。しかし、誰かを好きになるということは、自分のパラメータを書き換えてでも、その人の住む世界に同期したいと願う、切実なエネルギーの暴走なのだと思います。

結局、彼は敗北し、元いた場所――安物の洗剤とニンニクの匂いがする、泥臭い日常へと帰還します。けれど、一度特異点を通過した彼は、以前の彼とは少しだけ違う「エネルギー状態」にあります。

静香と淳の関係は、恋でも愛でもないかもしれません。しかし、同じ重力を分かち合い、同じ速度で歩んでいける「戦友」がいることの心強さが、読者の皆様に少しでも伝われば幸いです。

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