『卒論前夜の酩酊(めいてい)論理、雪山のシュプール(前編)』
「卒業論文」——それは、大学生にとって避けては通れない最後の試練。本作は、その巨大な魔物と対峙するため、二月の豪雪地帯・越後湯沢へと足を踏み入れた「真島ゼミ」の面々を描く、笑いと涙の青春コメディです。
普段は本郷キャンパスで「真面目で地味な佐藤さん」を演じている主人公の静香ですが、厳しい卒論構想発表会を乗り越えた後の飲み会で、封印していた彼女の「野生」が遂に目を覚まします。山口県民としての無駄なプライド、飛び交う下関弁、そして予測不能なハプニングの数々。
極寒の雪山で繰り広げられる、知性とアルコールが交差する怒涛の一夜。果たして彼らは無事に朝を迎えられるのか? ぜひ暖かい部屋でお楽しみください。
第一章:越後湯沢の強制収容所
二月の越後湯沢は、文字通りの豪雪地帯だった。
駅を降りた瞬間、鼻孔を突く冷気と、視界を埋め尽くす白。
だが、佐藤静香たち「真島ゼミ」の一行にとって、この雪景色は観光の対象ではない。ここは、卒業論文という名の巨大な魔物と対峙するための「精神と時の部屋」
——大学のセミナーハウスである。
「……寒い。物理的に痛い」
静香は、古着屋で買った安物のダウンジャケットの襟を詰めながら呟いた。
足元は長靴。おしゃれさの欠片もないが、転倒防止という観点からは最適解だ。
「佐藤、遅れてるぞ。雪中行軍だと思え」
前を歩くのは、指導教官の真島教授。
御年六十。専攻は日本近現代史。
普段は温厚な好々爺だが、学問に関しては鬼だ。そして無類の酒好きとしても知られている。
今回の参加者は、教授を含めて七名。
まずは静香。
そして、あの上野の居酒屋で静香のバイト姿を目撃し、奇妙な共犯関係となった「歩く百科事典」こと、佐々木。
華やかな見た目とは裏腹に、昭和恐慌の研究をしている才女、エリ。
体育会系で「肉体の歴史」を研究するタケダ。
その他、真面目な岡田と幹事の山田。
男女比は男四、女二(静香とエリ)。
この閉ざされた雪山の山荘で、二泊三日の「卒論キックオフ合宿」が幕を開けた。
第二章:アカデミズムのち酒
午後一時から始まった「卒論構想発表会」は、予想通りの地獄だった。
暖房の効きすぎた会議室。
プロジェクターの光。
そして、教授の鋭利なツッコミ。
「佐藤くん。君のテーマ『明治期の地方紙における検閲と民衆の反応』だがね」
真島教授が眼鏡を光らせる。
「史料の読み込みは悪くない。だが、君自身の『問い』が弱い。ただ事実を並べただけでは、歴史学にはならんよ。君はこの時代に、何を見出したいんだ?」
「……はい。その、地方の……声なき声を……」
静香はしどろもどろになりながら答えた。
脇の下に冷や汗が流れる。
準備不足だったわけではない。ただ、東大教授という「知の巨人」の前では、自分の思考の浅さが露呈してしまうのだ。
(ああ、もう。穴があったら入りたい。いや、雪に埋まりたい)
全員の発表が終わったのは、午後六時。
脳みそは疲労で干からび、糖分とアルコールを渇望していた。
「よし! これで今年度の『脳の虐待』は終了だ!」
教授が手を叩いた。
「これより、第二部『肝臓の耐久試験』を開始する! 山田、酒を出せ!」
その号令と共に、会議室の机が片付けられ、畳の上に座布団が敷かれる。
近くのスーパーで買い込んだ大量のビール、チューハイ、そして教授秘蔵の日本酒『久保田』の一升瓶がドンと置かれた。
ここからが、真島ゼミの本番だった。
第三章:山口県民のプライド
「かんぱーい!」
プラスチックのコップがぶつかり合う。
静香は、とりあえずビールを一気に煽った。
喉を駆け抜ける炭酸と苦味。
五時間ぶっ通しで緊張していた神経が、プツンと音を立てて緩む。
「ぷはーっ……! 生き返る……」
思わずオヤジくさい声が出た。
「佐藤さん、いい飲みっぷりだねぇ」
向かいに座った佐々木が、ニヤニヤしながら言った。
彼は知っている。静香が上野のガード下で、酔っ払いを相手にホールを走り回っていることを。
「うるさいわね。労働の後の酒は美味いのよ」
静香は小声で牽制した。
「あれ? 静香ちゃん、もう顔赤くない?」
隣のエリが、色白の顔でカシスオレンジを飲みながら言った。彼女はお酒に強いわけではないが、飲み方が綺麗だ。
「赤くないよ。これは暖房のせい」
静香は強がった。
実は、そこまで強くない。
だが、彼女には「山口県出身(酒処)」という妙なプライドがあった。
「山口の女はね、日本酒で産湯を使うたようなもんやから。これくらい水よ、水」
静香は、教授の『久保田』に手を伸ばした。
コップに並々と注ぐ。
フルーティーな香りが鼻をくすぐる。
「おお、佐藤、いくねぇ」
教授が嬉しそうに徳利を傾ける。
「歴史をやる人間は、酒の味を知らなきゃいかん。酔いの中にこそ、史料の行間が見えてくることもある」
「御意にございます、教授」
静香はグイッと一口飲んだ。
美味い。
五臓六腑に染み渡るとはまさにこのこと。
脳内のアルコール濃度が上昇するにつれ、卒論への不安や、将来への迷いが、ふわふわと霧散していく。
しかし、このゼミの飲み会は、ただの飲み会ではない。
「酔った状態での知的格闘技」なのだ。
「でもさー、明治の民衆って、本当はどう思ってたんだろうね」
タケダがスルメを齧りながら議論をふっかける。
「今のSNSみたいに、もっと直情的な感情があったと思うんだよ。佐藤の発表は、ちょっとお上品すぎたんじゃない?」
カチン、ときた。
お上品? 誰が? この私が?
上野のヤッちゃん仕込みの「現場力」を持つこの私が?
「はぁ? タケダ、あんた何言っちょるん」
静香の口調から、標準語のメッキが剥がれ落ちた。
「民衆の感情はね、そんな単純なもんじゃないんよ。建前と本音が複雑に絡み合って、それを読み解くのが歴史学やろが」
「お、出た。下関弁」
佐々木が煽る。
「佐藤さん、酔うと方言キツくなるよね。いいじゃん、もっと出してこ」
「煽るな、佐々木! あんたの昭和恐慌論こそ、机上の空論や。腹減ったことない人間が飢饉を語るな!」
静香はムキになった。
普段、本郷キャンパスでは「真面目で地味な佐藤さん」を演じている反動か。
あるいは、家庭教師先の蓮くんとの「先生と生徒」という抑制された関係のストレスか。
タガが外れた静香は、日本酒を水のように飲みながら、男子学生たちに絡み始めた。
「だいたいねぇ、東大生は理屈ばっかり! もっとパッションを持て、パッションを!」
「佐藤、お前も東大生だろ」
「私は違う! 私は『野生』の東大生や!」
意味不明な主張を展開し、コップを掲げる。
教授が大笑いしている。
「野生の東大生か! 気に入った! 飲め飲め!」
第四章:座布団の乱、のり塩の悲劇
一升瓶が半分ほど空いた頃、静香の視界は良好に歪んでいた。
世界が少し斜めに見える。
平衡感覚をつかさどる三半規管が、ストライキを起こしている。
「……トイレ」
静香は立ち上がろうとした。
「お、大丈夫か? 佐藤」
佐々木が心配そうに見る。
「大丈夫よ。私の体幹をナメるな。戸畑駅の坂道で鍛えた足腰よ」
静香は、ふらりと立ち上がった。
その時だ。
足元には、誰かが脱ぎ捨てたスリッパと、食べかけのポテトチップス(のり塩)の袋、そして座布団が散乱していた。
静香の右足が、座布団の端を踏んだ。
畳の上にある座布団は、摩擦係数が低い。
ズルッ。
見事に滑った。
「あ」
短い悲鳴と共に、静香の体は重力に従って前方へ倒れ込む。
目の前には、タケダの背中。
このままでは激突する。
静香は東大生らしい瞬時の判断力で、「人を巻き込んではいけない」と軌道修正を図った。
結果。
彼女はタケダの脇をすり抜け、そのまま床に置かれていた「ポテトチップス(のり塩)の大袋」に顔面からダイブした。
バフッ。
パリパリパリ……。
袋が破裂する音と、チップスが粉砕される音が、部屋に響き渡った。
一瞬の静寂。
「……ぶはっ」
静香が顔を上げると、その顔面——特に鼻の頭と頬——には、粉々になったポテトチップスの破片と、青のりがビッシリと付着していた。
眼鏡はズレて、鼻の横にアクロバティックな角度で引っかかっている。
「…………」
全員が固まった後、爆笑が起きた。
「ぶわはははは! 佐藤! 何やってんだお前!」
「のり塩まみれ! 新しいパックかよ!」
「貴重な食料が!」
教授まで涙を流して笑っている。
静香は、呆然としながら、自分の顔についたポテトチップスを舌でペロリと舐めた。
「……しょっぱい」
「当たり前だろ!」
佐々木がティッシュ箱を投げてくれた。
「ほら、拭けよ。野生すぎるだろ」
静香は顔を拭きながら、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
穴があったら入りたい。いや、今度こそ本当に雪に埋まりたい。
好きな人(蓮くん)には絶対に見せられない、一生の不覚。
でも、不思議と嫌な気分ではなかった。
みんなが笑ってくれている。
「真面目な佐藤さん」の殻が、のり塩と共に粉砕されたことで、ゼミの仲間との距離がグッと縮まった気がした。
「……もう、笑いすぎや」
静香はふてくされながらも、座布団に戻った。
「これは歴史的敗北や。戊辰戦争以来の屈辱や」
「意味わかんねーよ」
タケダが笑いながら、新しいビールを注いでくれた。
「ま、佐藤にそんな一面があるとは思わなかったわ。面白いじゃん」
第五章:雪山への誘い
夜も更け、午前零時。
酔いも回り、話題は「明日の予定」へと移った。
本来なら、二日目も朝から勉強会の予定だ。
だが、窓の外は激しい雪。
この非日常的な空間が、彼らの遊び心を刺激しないはずがない。
「なぁ、教授」
タケダが切り出した。
「せっかく雪国に来たんすから、明日はフィールドワークしませんか?」
「ほう? フィールドワークとは、聞こえはいいが」
教授がニヤリとする。
「スキーっすよ、スキー! 目の前にゲレンデがあるのに、滑らないなんて物理法則に反します!」
スキー。
静香は反応した。
運動は苦手だ。寒いのも嫌いだ。
だが、スキーという単語には、なぜか懐かしさと、奇妙な憧れがあった。
山口県にはスキー場が少ない。だからこそ、九州や広島まで遠征して滑ることは、一種のステータスだった。
「スノボじゃないのか?」
エリが聞いた。
「スノボはチャラいイメージがあるし、ウェアが可愛いからそっちがいいなー」
「ダメだ!」
タケダが机をバンと叩いた。
その目は、酔っているのに真剣だった。
「いいか、スノボは『面』で滑る。だがスキーは『線』で滑るんだ。二本の板を平行に保ち、重力をコントロールして、雪面に美しいシュプール(軌跡)を描く。これはもはや幾何学なんだよ!」
タケダの熱弁に、一同はポカンとした。
「……タケダ、お前そんなキャラだったっけ?」
「俺はな、スキー検定一級持ってるんだ。チャラチャラしたボーダーと一緒にすんな。スキーこそが、紳士淑女のスポーツだ!」
タケダの妙なこだわりに、教授が乗った。
「幾何学か。いいじゃないか。歴史もまた、時間の流れの中に線を描く作業だ。共通点はあるかもしれん」
教授が許可を出したことで、流れは決まった。
「よっしゃ! 明日は全員強制参加でスキーだ!」
静香は、のり塩を拭き取った顔で、ぼんやりと考えた。
スキーか。
高校の修学旅行以来だ。
運動神経は良くないが、根性だけはある。
それに、あの真っ白な雪山を滑り降りるスピード感は、日々の鬱屈を吹き飛ばしてくれるかもしれない。
「佐藤、お前滑れるのか?」
佐々木が聞いてきた。
静香は、残っていた日本酒をグイッと飲み干し、不敵に笑った。
「ナメんといて。私は関門海峡の荒波を見て育った女よ。雪山くらい、庭みたいなもんや」
(※注:静香の実家は山間部であり、雪は降るがスキー場はない)
「大きく出たなー」
「明日、のり塩みたいに転ぶなよ」
「うるさい! 私のシュプールで、あんたらの度肝を抜いちゃるわ!」
酔った勢いとは恐ろしいものだ。
佐藤静香は、この時まだ知らなかった。
翌日のゲレンデで、自分がさらなる伝説を作ることになるとは。
そして、その雪山での体験が、彼女の凝り固まった思考を解きほぐす、意外なきっかけになることを。
「よし、明日は六時起きだ! 解散!」
タケダの号令で、飲み会はお開きとなった。
静香はフラフラと立ち上がり、女子部屋へと向かった。
廊下の窓から見える雪は、しんしんと降り積もっている。
冷たいガラスに額を押し付ける。
「……蓮くん、今頃なにしとるんかな」
ふと、東京にいる彼のことを思った。
酔いが回った頭に、彼の笑顔が浮かぶ。
会いたいな。
そう思った瞬間、急激な眠気が襲ってきた。
静香は布団にダイブした。
夢の中でなら、彼と一緒に滑れるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、彼女は泥のような眠りに落ちていった。
顔にはまだ、ほんの少し青のりがついていたかもしれないが、誰もそれを指摘する者はいなかった。
(後編へ続く)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます! 東大生たちの「知的格闘技」という名の飲み会、いかがでしたでしょうか。
普段は真面目な静香がプレッシャーとアルコールの相乗効果でタガを外し、見事な「のり塩ダイブ」を決めるシーンは本作屈指のハイライトでした。恥ずかしい大失敗ですが、そのおかげでゼミ仲間との距離がぐっと縮まったのは、なんだかほっこりしますよね。
さて、翌日は二日酔いと青のりを抱えたまま、まさかのスキー合宿へ突入します。運動の苦手な静香は、強気な宣言通り雪面に美しいシュプールを描けるのでしょうか? 思いを馳せた蓮くんへの恋の行方は? ドタバタ必至の後編も、どうぞご期待ください!




