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『空(から)の部屋、沈殿する夢の質量』

春は別れと出会い、そして「移動」の季節です。

真新しい生活への期待に胸を膨らませて新しい部屋の扉を開けるとき、私たちはふと、その空間に刻まれた「見えない歴史」に思いを馳せることがあるでしょうか。

特に東京という街は、数え切れないほどの若者の夢が生まれ、そして誰にも知られることなくひっそりと破れていった場所でもあります。

本作は、大学院進学を機に本郷の古いアパートへ引っ越した主人公・佐藤静香が、かつての住人が残した「痛み」と向き合い、自分自身の足元を見つめ直す物語です。

外見は昭和、中身は令和のリノベーション物件。綺麗に塗り直された白い壁の奥に隠されていた記憶に触れたとき、彼女はどう歩み出すのか。

新しい日々が始まる前の静かな夜に、温かい珈琲でも飲みながら見ていただければ幸いです。

第一章:出世魚の引越し


二月の終わり。

三寒四温の言葉通り、暖かい日の翌日に冷たい雨が降る、不安定な季節。

佐藤静香は、三年住み慣れた根津のボロアパート「コーポ松風」を引き払うことになった。


「……世話になったね」


何もない六畳一間。本棚を退かした後の畳が、そこだけ青々としているのが物悲しい。

風呂なし、トイレ共同、家賃三万八千円。

間違いなく静香の「東京サバイバル」の最前線基地だったこの部屋に別れを告げ、彼女は新たな城へと向かう。

次の住処すみかは、憧れの本郷四丁目。

大学まで徒歩五分。文豪たちが愛した菊坂きくざかの裏手にある、静かな住宅街だ。


大学院進学を機に、親を説得し、奨学金を増額し、生活レベルを上げる決意をした。

ただし、現実は甘くない。

このエリアの家賃相場は高い。静香の予算(奨学金とバイト代を詰め込んで限界突破した6万8千円)で、オートロック付きのピカピカなマンションなど夢のまた夢だ。

静香が選んだのは、『コーポラス菊坂』。

築35年。木造モルタル、二階建てのアパート。


外観は昭和の香りが漂うクリーム色で、階段はカンカンと音が鳴る鉄製だ。もちろん、オートロックなどない。

だが、ここには「魔法」がかかっている。

オーナーの相続税対策で、内装だけがフルリノベーションされているのだ。


「……見た目はボロいけど、中身は新品」


鍵を開ける。ドア自体は古くて重いが、一歩入ると景色が変わる。

壁は真っ白なクロスに張り替えられ、床は明るい色のフローリング。

そして何より、静香がどうしても譲れなかった「バストイレ別」と「独立洗面台シャンプードレッサー」が、限られたスペースにパズルのように組み込まれている。


「おー、中はすげぇな。ギャップ萌えってやつか」


手伝いに来た岩井淳が、狭い玄関で靴を脱ぎながら感心した声を上げた。


「やろ? 外見は昭和、中身は令和。まさに『温故知新』の精神を体現した物件よ」


静香は胸を張った。

その代わり、窓を開けると隣の家の壁が目の前に迫り、日当たりは悪い。そして、アパートへ続く道は車が入れないほど細い路地で、引越しトラックが横付けできず、二人は表通りから台車で何往復も荷物を運ぶ羽目になった。


「はぁ、はぁ……。この路地、物理的に狭すぎるやろ。冷蔵庫通す時、数ミリの攻防やったぞ」


淳が床に大の字になる。


「文句言わんの。この『隠れ家感』がええんよ。樋口一葉もこの近くの路地で暮らしとったんやから」


静香は、ピカピカの独立洗面台を撫でた。

決して広くはない。壁も薄く、外を歩く人の足音が聞こえる。

それでも、銭湯の時間を気にせず、自分だけの風呂に入れる生活。

根津のボロアパートに比べれば、ここは間違いなく「出世」した証だった。


「よし、荷解きするか」

「おう。俺の労働対価は、赤門ラーメンの大盛りやぞ」


第二章:押し入れの封印


異変に気づいたのは、淳が帰り、一人で荷解きをしていた夜のことだった。

本を収納しようと、備え付けのクローゼットを開けた時だ。

そこは元々「押し入れ」だった場所を、リノベーションで無理やり洋風のクローゼットに改造した跡が見て取れた。

中段の板は外されているが、上部の「天袋てんぶくろ」だったスペースはそのまま残っており、奥行きが深くて暗い。


「……ん?」


その天袋の奥。手が届きにくいデッドスペースに、何かが挟まっているのが見えた。

前の住人の忘れ物だろうか。


不動産屋のクリーニングが入っているはずだが、奥すぎて見落とされたのかもしれない。

静香は椅子に乗り、手を伸ばした。

指先に触れたのは、硬い紙の感触。

引っ張り出すと、それは一冊の大学ノートだった。

表紙は黒く、何も書かれていない。少し湿気を含んで波打っている。

(捨てようか)

そう思った。他人の、しかも赤の他人のノートなんて見る趣味はない。

だが、歴史を学ぶ者のさがだろうか。「記録」されたものを無碍むげに捨てられない自分がいる。

パラリ、と開いてしまった。

そこには、几帳面な、しかしどこか神経質さを感じさせる細かい文字が並んでいた。


『○月×日。今日もゼミで発言できなかった。教授の言っていることは理解できるのに、声が出ない』


『○月△日。壁が薄い。隣の住人が友達と電話している声が聞こえる。楽しそうだ。壁一枚向こうは世界なのに、僕の部屋だけが真空だ』


『×月×日。本郷の坂道が、壁に見える。登っても登っても、頂上に着かない』


静香の手が止まった。

これは、日記だ。

この綺麗にリフォームされた部屋に住んでいた、かつての住人の「苦悩の記録」。

外見は新しくても、建物の骨組みは古いまま。

だからこそ、この部屋は多くの学生たちの生活を飲み込んできたのだろう。

ページをめくる手が震えた。

書かれている内容は、痛いほど静香に刺さった。地方出身のコンプレックス。周囲への劣等感。

そして、最後のページ。日付は去年の三月。


『僕は、この街の主人公にはなれなかった。

 この部屋を去る。逃げるんじゃない。撤退だ。

 ごめん、母さん。』


そこで、記述は途切れていた。

ノートの最後には、一枚の写真が挟まっていた。

入学式の日だろうか。安田講堂の前で、ぎこちなくピースサインをする、真面目そうな青年の写真。

その笑顔は、まだ希望に満ちていた。


第三章:透明な同居人


静香は、ノートを床に置いたまま動けなかった。

新しいクロスが張られた白い壁が、急に冷たく感じられた。

オーナーは、部屋を綺麗にすることで過去を塗り隠そうとしたのかもしれない。

でも、ここには染み付いている。

「敗れ去った者」の念が。


「……似とる」


静香は自分の胸に手を当てた。

私だって、紙一重だった。

もし淳がいなかったら。もし小夜香という存在に背中を押されなかったら。

私もこのノートの彼のように、この路地裏のアパートで膝を抱え、逃げ帰っていたかもしれない。


「撤退、か……」


彼にとって、このリノベーションされた綺麗な部屋は、逆説的に自分の惨めさを浮き彫りにする箱だったのかもしれない。

ピカピカの洗面台に映る自分の顔が、日に日にやつれていくのを見るのは、どんなに辛かっただろう。

静香は、部屋の隅を見つめた。

何もない白い壁。

そこに、透明な同居人がうずくまっているような気がした。

その夜、静香は眠れなかった。

窓の外、細い路地を誰かが歩く音がする。

カツ、カツ、という足音が、どこかへ去っていく。

それが、ノートの彼が去っていった足音のように聞こえて、静香は布団を被った。


第四章:生存者バイアス


翌日、大学で淳に会った時、静香は昨日のノートの話をした。

学食の隅の席。淳はカレーを食べながら、静かに聞いていた。


「……そうか。そんなもんが残っとったんか」


淳はスプーンを置いた。


「で、お前はどう思ったん? 呪われとるとか、そういう話やないやろ」

「うん。……ただ、怖くなったんよ」


静香は正直に言った。


「私らが今、こうして大学院に行けるのって、ただ運が良かっただけなんじゃないかって。実力とか努力とか言うけど、たまたま心が折れんかっただけの『生存者バイアス』なんじゃないかって」


淳は、しばらく無言で水を見つめていた。

そして、ポツリと言った。


「物理学にはな、『人間原理』っていう考え方がある」

「人間原理?」

「『宇宙がなぜこのようにできているのか』という問いに対して、『もしそうでなければ、それを観測する人間が存在し得ないからだ』って答える考え方や」


淳は静香を見た。


「俺らが今ここに生き残っとる。それは結果論かもしれん。でもな、生き残った俺らには、観測者としての義務があるんやないか」

「義務?」

「おう。消えていった星屑ほしくずたちの分まで、この世界を見届ける義務や。あいつらが何を感じて、何に押しつぶされたんか。それを無かったことにせず、記憶しておくこと。それが『歴史』をやるお前の仕事やろ」


淳の言葉は、いつも冷徹で、そして温かい。


「ノートの彼も、お前に見つけてほしかったんかもしれんぞ。同じように地方から出てきて、同じ壁の薄い部屋で悩んどるお前になら、分かってもらえると思ったんかもな」


静香はハッとした。

偶然の発見ではない。歴史学において、史料との出会いは常に「必然」と呼ばれる。

彼が残した孤独の叫びは、私が受け取るべき「遺産」だったのかもしれない。


「……そうやね」


静香は顔を上げた。


「私、あのノート捨てんよ。持ってとく。お守り代わりに」


第五章:供養の珈琲


その日の夕方。

静香は、新しい部屋で珈琲を淹れた。

古いアパートだが、自分だけのキッチンがある。お湯を沸かす音が、静かに響く。

二つのカップを用意した。

一つは自分の分。もう一つは、テーブルの向こう側、誰もいない席に置いた。

その横に、あの黒いノートを置く。


「……お疲れ様でした」


静香は、見えない先住者に向かって話しかけた。


「あんたが誰かは知らんけど、あんたの苦しみは、私が半分引き継ぐわ。だから成仏して」


湯気が立ち上る。

部屋の中に、珈琲の香りが満ちていく。

それは、かつて彼が感じたであろう路地裏の湿った空気を、温かく塗り替えていく儀式のようだった。

ノートの彼は「主人公になれなかった」と書いた。

でも、誰もが主人公になれるわけではない。

本郷という街は、光の当たらない脇役や、舞台を降りた役者たちの物語が無数に沈殿している。

その沈殿物の上に、今の私たちの生活が成り立っている。


「私、頑張るけぇ」


静香は珈琲を啜った。


「あんたが見られんかった景色、私が代わりに見てくる。大学院行って、研究して、いつか本にする。その本のあとがきに、こっそりあんたのこと書いちゃるから」


第六章:傷跡のある部屋


数日後。

部屋はすっかり片付き、静香の城として完成していた。

壁には、大好きな歴史の年表や地図が貼られ、本棚には専門書がぎっしりと並んでいる。

あのノートは、本棚の一番上の段、誰の目にも触れない奥にしまった。

ピンポーン。

古いタイプの呼び鈴が鳴る。

モニターはないので、ドアスコープを覗く。

そこには、家庭教師先の生徒——いや、もうすぐ彼氏になるかもしれない藤島蓮の顔があった。

今日は引越し祝いに、ケーキを持ってきてくれる約束だ。


「はーい、今開ける」


静香は鍵を開けた。

オートロックのない、少し重い鉄のドア。

それを開けると、蓮が笑顔で立っていた。


「お邪魔します。……ここですね、隠れ家みたいなアパートって」

「そうよ。迷路みたいで分かりにくかったろ?」

「はい。でも、なんか先生らしいです。外はレトロで、中は……うわ、綺麗ですね」


蓮が靴を脱いで上がってくる。


「落ち着く匂いがします。なんか、守られてる感じがするというか」


蓮が笑う。

その笑顔を見ながら、静香は思った。

この部屋で、新しい歴史を積み重ねていこう。

リノベーションされた白い壁の下には、古い柱や傷跡が隠されている。

それは、私の心と同じだ。

不安も、挫折の記憶も、すべて抱え込んで、その上で笑って生きていく。


「さ、ケーキ食べよ。お茶淹れるね」


静香はキッチンに立った。

狭いけれど、ピカピカのシンク。

窓の外には隣の家の壁しかないけれど、見上げれば四角く切り取られた空がある。

本郷四丁目、コーポラス菊坂、二〇一号室。

ここが、佐藤静香の第二章の舞台だ。


「……よし」


静香は小さく呟き、お湯を沸かし始めた。

その音は、この古いアパートの歴史に、新しいリズムを刻み始めていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

新しい部屋の真新しい壁紙の奥には、かつてそこで泣き、笑い、そして去っていった誰かの時間が確実に存在している。本作は、そんな都市の「見えない地層」のようなものを、一冊の古いノートを通じて鮮やかに描き出していました。

特に胸を打つのは、静香が「透明な同居人」のために珈琲を淹れるシーンです。見知らぬ他者の挫折を「呪い」として恐れるのではなく、「歴史の一部」として受け止め、自分の背中を押す力に変えていく。友人の淳が語った「観測者としての義務」という言葉も相まって、歴史を学ぶ静香ならではの、とても優しく誠実な供養の形だと感じました。

誰もが主人公になれるわけではない東京という街で、「名もなき敗者の記録」を無かったことにせず、記憶の片隅に留めようとする静香の決意は、同じように日々を懸命に生きる私たちの心にも、静かな共感を呼び起こしてくれます。

本郷四丁目の「コーポラス菊坂」二〇一号室。外見は昭和で中身は令和という少し不器用なこの部屋で、静香がこれからどんな新しい物語を紡いでいくのか。彼女の淹れる珈琲の香りが、読者の心にもふんわりと残ったのではないでしょうか。

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