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『赤提灯のプロフェッサー、恋の偏差値判定』

東大生だからといって、決して何でも完璧にこなせるわけではない。

難解な古文書のくずし字や、複雑な数式を読み解くことはできても、自分自身の心の中で暴走する「恋」というイレギュラーな感情の前では、ただの不器用な一人の人間に過ぎないのだ。

論理やデータでは導き出せない答えにぶつかり、一人で抱えきれなくなった時。

そんな時に頼るべきは、小難しい理屈や同世代の無責任な共感ではない。人生の酸いも甘いも噛み分けた、泥臭くも温かい「人生の大先輩」の言葉なのだ。

今回は、自身の立場と抑えきれない恋心の間で揺れる静香が、上野のガード下で思わぬ救いを得るエピソード。

第一章:恋愛相談の「避難所」


三月の足音が聞こえ始めた頃。

佐藤静香の心臓は、原因不明の(いや、原因は明確すぎる)不整脈を起こしていた。


「……あー、もう」


本郷の図書館で、静香は史料の上に突っ伏した。

文字が頭に入らない。

目の前の古文書のくずし字が、すべて藤島蓮の顔に見えてくる。

あの日、彼が私の手の甲に落としたキスの熱さ。

『四月になったら、一番最初にデートしてください』という予約。

嬉しい。死ぬほど嬉しい。

でも、同時に猛烈な不安が襲ってくる。

私は彼の「先生」だ。卒業式までは。

この浮ついた心を誰かに聞いてほしい。

「大丈夫だよ」「待ってていいんだよ」と背中を押してほしい。


チラリと横を見る。

そこには、岩井淳がいる。


彼は眉間に皺を寄せ、量子力学の論文と格闘している。


(……こいつには、絶対に言えん)


もし淳に相談したらどうなるか。


「それは脳内物質ドーパミンの過剰分泌による一時的な錯乱や。冷却期間を置け」


などと、物理的に処理されるに決まっている。

それに、淳に対しては、なんとなく……後ろめたい。戦友を置いてけぼりにして、自分だけ「女」の部分を暴走させているようで。

かといって、大学の友人は違う。


「えー! 年下男子? 尊い〜!」とか「早稲田? 将来有望じゃん!」とか、そういうキャピキャピした反応は求めていない。もっとこう、人生の酸いも甘いも噛み分けた、泥臭いアドバイスが欲しいのだ。


その時、ふと脳裏に浮かんだ顔があった。

紫色の髪。派手なエプロン。タバコの煙。

あの上野の居酒屋『酔いどれ横丁』のパートリーダー、ヤッちゃん。


「……あそこなら」


あそこは「憂さ晴らし」の場所だ。

東大生という肩書きも、家庭教師という仮面も関係ない。


ただの「フリーターの姉ちゃん」として、皿を洗いながら愚痴をこぼせる場所。


静香はスマホを取り出し、隠れるようにして『タイミー』を開いた。


検索条件:上野、居酒屋、酔いどれ横丁。

『週末・17:00〜23:00 急募! ホールスタッフ』


あった。


静香は迷わず「申し込み」ボタンを押した。

時給1200円のカウンセリングルームへ、予約完了だ。


第二章:再会、アメ横の喧騒


土曜日の夕方。

上野・アメ横のガード下は、相変わらずのカオスだった。

電車のガタンゴトンという音、呼び込みの声、酔っ払いの笑い声。


「おはようございまーす!」


静香が裏口から入ると、厨房にはあの紫色の頭があった。


「おや! あんた、この前の!」


ヤッちゃんが、仕込みの手を止めて振り返った。


「また金欠かい? それとも、皿割りに来たのかい?」

「ちょっ、人聞きの悪い! 今日は稼ぎに来たんですよ」


静香は苦笑いしながらエプロンを締めた。

この雑多な空気。消毒液と油と焼き鳥の匂い。


本郷の静寂とは対極にあるこの場所が、今の静香には妙に落ち着く。


「へえ……」


ヤッちゃんは、静香の顔をジロジロと見た。


「なんか、顔つきが変わったね」

「え?」

「前は『追われてるネズミ』みたいな顔してたけど、今日は『恋する猫』みたいな目をしてるよ」

「なっ……!?」


静香は絶句した。

このおばちゃん、透視能力でもあるのか。


「図星かい。ま、あとで休憩の時に聞き出してやるよ。ほら、客が来るぞ! 今日も戦場だ!」

「は、はい!」


静香はホールへと飛び出した。

ヤッちゃんの観察眼に戦々恐々としながらも、誰かに見抜いてほしかった自分もいて、少しだけ足取りが軽かった。


第三章:ゼミ生の襲来


午後七時。店内は満席だった。

静香はジョッキを四つ抱えて走り回っていた。


「生四丁! お待たせしました!」


その時だった。

入り口の引き戸が開き、四人組の学生グループが入ってきた。

少し知的な眼鏡、こざっぱりした服装。上野のガード下には少し似つかわしくない、アカデミックな空気を纏った集団。


(……ん?)


静香が注文を取りに行こうとした瞬間、心臓が止まりそうになった。

その中の一人。

センター分けの髪型に、黒縁メガネ。

同じ歴史文化学科のゼミ生、佐々木くんだった。


(うっそでしょ……!?)


佐々木くんは、ゼミでも特に優秀で、「歩く百科事典」と呼ばれる男だ。

普段は図書館に住んでいるような彼が、なぜこんな大衆居酒屋に?


「ここ、昭和史のゼミ合宿の打ち上げで使ったことあるんだよ。安いし」


佐々木くんが仲間に説明している。

なるほど、東大生御用達の「安くてうるさい店」として認知されていたのか。

静香は回れ右をして逃げようとした。

しかし、ホールは私一人。ヤッちゃんは焼き場につきっきりだ。

逃げられない。


(バレてはいけない。絶対に)


静香はエプロンの紐をきつく締め直し、前髪を目一杯下げて顔を隠した。

声を低く、少しハスキーに変える。


「いらっしゃいませぇー。何名様ですかぁー?」

「四人です」

「こちらへどうぞぉー」


佐々木くんたちのテーブルに案内する。

彼らはメニューを見るのに夢中で、店員の顔など見ていない。

よし、いける。

静香は素早く注文を取り(「生四つ、モツ煮込み二つ、ハムカツ」)、逃げるように厨房へ戻った。


「ふぅ……寿命縮むわ」

「どうした? 元カレでもいたかい?」


ヤッちゃんが焼き鳥を焼きながらニヤニヤしている。


「違いますよ! ……知り合いがいて」

「なんだ、堂々としてりゃいいのに。悪いことしてるわけじゃないんだから」


ヤッちゃんは正しい。

でも、東大生には「東大生としての世間体」という面倒なものがあるのだ。

特に、「生活費のためにガード下でバイトしている」という事実は、高尚な学問を志すゼミ生には知られたくなかった。


第四章:漏れ出した「専門用語」


事件が起きたのは、一時間後だった。

佐々木くんたちのテーブルに追加注文ホッピーセットを運びに行った時だ。

彼らは、酒が入って少し声が大きくなっていた。

話題は当然、ゼミの研究内容についてだ。


「……だからさ、教授の言う『明治後期の民衆運動』の解釈は、少しエリート主義的すぎると思うんだよね」


佐々木くんが熱弁を振るっている。


「あの日比谷焼打事件の背景には、もっと土着的なナショナリズムがあったはずで、それを当時の新聞記事だけで分析するのは片手落ちだよ」


静香は、ホッピーの瓶を置きながら、つい耳をそばだててしまった。


(……甘いな、佐々木くん)


心の中でツッコミを入れる。


(当時の新聞は検閲が入っとるけぇ、鵜呑みにするのは危険やけど、逆にその『検閲された箇所』にこそ、政府が恐れた民衆の真意が隠されとるんよ。そこを読み解かんと)


「でもさー、一次資料がないじゃん。警察の調書くらいしか」


別の友人が反論する。


「あるよ」


静香の口が、勝手に動いていた。


「え?」


佐々木くんたちが一斉に静香を見た。

静香はハッとした。やばい。店員モードを解除してしまった。

しかし、一度出かかった「歴史オタク」の情熱は止められない。

静香は、お盆を抱えたまま早口で言った。


「当時の……えっと、神田周辺の瓦版かわらばんとか、落書きの写しとかが、実は国立公文書館のデジタルアーカイブに最近公開されたんっすよ。それ見れば、民衆がどう煽動せんどうされたか、警察記録とは違う視点が見える……かもっすよ」


最後だけ無理やり「っすよ」をつけて店員風にしたが、内容は完全に専門的だった。

佐々木くんが、眼鏡の位置を直しながら静香を凝視した。


「……デジタルアーカイブ? 公文書館の『太政官公文』シリーズのこと?」

「あ、いや、えっと、その……『内務省警保局』のカテゴリっす」

「……君、詳しいね」


佐々木くんの目が、疑念から興味、そして「同類発見」の色に変わる。


「もしかして、歴史好きなの?」

「あ、はい! レキジョっす! 歴史マンガとか読むんで! じゃ、ごゆっくりー!」


静香は強引に会話を切り上げ、ダッシュで厨房へ逃げ込んだ。

心臓がバクバク言っている。

危ない。ギリギリセーフか? いや、アウトか?

佐々木くんのあの「粘着質な探究心」を甘く見てはいけない。後で「あの店員、何者だ?」と特定作業に入られるかもしれない。


「……ふーん」


背後から、低い声がした。

ヤッちゃんだった。

彼女は焼き場の煙の中で、静香をじっと見ていた。


「国立公文書館? 内務省警保局?」


ヤッちゃんの目が、鋭く光っている。


「あんた、ただの貧乏学生じゃないね」

「えっ……い、いや、今のは適当に……」

「誤魔化すんじゃないよ。あの若者たちの会話、聞き耳立ててたろ。しかも『日比谷焼打事件』の補足をピンポイントで入れるなんて、素人じゃ無理だ」


ヤッちゃんは、持っていたトングをカチカチと鳴らした。


「あんた、どこの大学だい?」


静香は観念した。

このおばちゃんの洞察力からは、逃げられない。


「……と、東大です」

「学部は?」

「文学部……歴史文化学科」


ヤッちゃんは、ふゥーっと煙を吐き出した。

そして、ニヤリと笑った。


「やっぱりね。匂いがしたんだよ。『同業』の匂いが」


第五章:紫煙の向こうの先輩


「……同業?」


静香は首を傾げた。居酒屋店員としての同業という意味だろうか。


「休憩入りな。裏に来なさい」


ヤッちゃんに連れられ、再び裏口のビールケースへ。

夜風が火照った顔に心地よい。

ヤッちゃんは缶コーヒーを静香に放り投げた。


「飲みな。奢りだ」

「あ、ありがとうございます」


ヤッちゃんは自分の缶ビール(これは店長に内緒らしい)を開け、一口飲んでから言った。


「私もさ、昔は本郷に通ってたんだよ」


静香はコーヒーを吹き出しそうになった。


「えっ!? ヤッちゃんさんが……東大?」

「驚くことないだろう。これでも昔は『文学部の魔女』なんて呼ばれてたんだから」


ヤッちゃんは悪戯っぽく笑った。


「昭和の話だよ。専攻は……奇遇だね、日本近代史だ」

「嘘……」


静香は絶句した。

この、上野のガード下で酔っ払いをさばき、下ネタも豪快に笑い飛ばすこのおばちゃんが、自分の直系の先輩だなんて。


「卒業して、一度は出版社に入ったんだけどね。どうも性に合わなくてさ。活字の中で歴史をこねくり回すより、こうやって生きてる人間の歴史に触れてる方が面白いって気づいちまったんだ」


ヤッちゃんは、店の方を親指で指した。


「ここには、教科書には載らない『名もなき民衆』が山ほど来る。彼らの愚痴、自慢話、泣き言。それを聞いてるだけで、毎日がフィールドワークさ。最高に面白いよ」


静香は、前回のバイトで自分が感じたことを思い出した。


「私も……前回ここで働いて、そう思いました。史料よりも、ここにある熱気の方が、歴史なんじゃないかって」

「だろ? あんた、いい筋してるよ」


ヤッちゃんは嬉しそうに静香の肩を叩いた。


「東大生ってのは、頭でっかちになりがちだけど、あんたには『生活者の視点』がある。それは武器になるよ」


第六章:偏差値判定不能な恋


「で?」


ヤッちゃんは話題を切り替えた。


「さっきの『恋する猫』の話だよ。相手は誰だい? さっきのメガネの男の子か?」

「違います! あんな理屈っぽいのはお呼びじゃないです」


静香は即否定した。


「じゃあ、誰だい。白状しな」


静香は、観念して全てを話した。

家庭教師先の高校生、蓮のこと。

合格発表の日にされた「予約」のこと。

卒業までは先生と生徒であるという、もどかしい距離感のこと。

そして、彼に惹かれている自分が、東大生や教師という立場でいいのか悩んでいること。

ヤッちゃんは、黙って聞いていた。

時折、ビールを啜りながら。


「……ふん。年下の高校生か。生意気だねぇ」

「生意気なんです。でも……誠実で」

「あんた、そいつのどこが好きなんだい?」

「えっと……雨の日に、私のボロボロの鞄を拭いてくれたり、私の歴史の話を楽しそうに聞いてくれたり……」

「なるほどね」


ヤッちゃんは空になった缶を握りつぶした。


「あんたさ、普段『東大生』とか『苦労人』とかいう鎧を着て戦ってるだろ?」

「……はい」

「その鎧を脱がせて、『ただの女の子』として扱ってくれたのが、そのボウズだったわけだ」


核心を突かれて、静香は赤くなった。


「そ、そうですけど……」

「だったら、悩みなんか捨てちまいな」


ヤッちゃんは断言した。


「でも、私と彼じゃ、住む世界が……彼はこれからキラキラした私大生になるし、私は地味な院生になるかもしれないし……」

「バカお言い」


ヤッちゃんは笑い飛ばした。


「学歴だの、将来だの、そんなもん『誤差』だよ。歴史を見てみな。身分違いの恋だろうが、国境を超えた愛だろうが、人間はずっと愚かで情熱的なことを繰り返してきたんだ」


ヤッちゃんは静香の顔を覗き込んだ。


「恋愛に偏差値はないんだよ。あるのは『熱量』だけ。あんたが今、胸を焦がしてるその熱量こそが、一番確かな一次資料なんだ。それを信じなくてどうする?」

「熱量……」

「卒業式まで待てって言われたんだろ? 待ちなよ。その間のモヤモヤも、ドキドキも、全部味わい尽くすんだ。それが、あんたの人生っていう書物の、最高に面白いページになるんだから」


静香の目から、うろこが落ちた気がした。

淳のような物理的な分析でもなく、友人たちの無責任な共感でもない。

歴史という長いスパンと、現場というリアルの両方を知る先輩からの、力強い肯定。


「……ありがとうございます、先輩」

「ここではヤッちゃんでいいよ。……さ、休憩終わりだ! ゼミの後輩たちに追加注文、言わせてやるよ!」


第七章:秘密の共有


店に戻ると、佐々木くんたちが会計をしようとしていた。


「お会計、一万二千円になります」


静香は、今度は堂々と顔を上げて対応した。

佐々木くんが、改めて静香の顔を見た。


「……あれ? 君、やっぱり……」


佐々木くんが気づきかけたその時。


「おーい! お兄さんたち、サービス券あげ忘れたよ!」


ヤッちゃんが横から割り込んできた。


「これ、次回のハムカツ無料券! また勉強しにおいで!」


その勢いに押され、佐々木くんは「あ、ありがとうございます」と頭を下げた。

その隙に、静香はニカっと笑って「ありがとうございましたー!」と送り出した。

佐々木くんは狐につままれたような顔で店を出て行った。

バレたかもしれない。でも、もう怖くなかった。

もし大学で聞かれたら、「社会勉強っすよ」と笑って答えればいい。


「助かりました、ヤッちゃん」

「いいってことよ。後輩のピンチを救うのも、OBの務めだからね」


ヤッちゃんはウィンクをした。

その顔は、紫色の髪と派手なメイクの下で、確かに知的な光を放っていた。

その夜の帰り道。

静香のスマホに、蓮からのLINEが入った。


『卒業式の日程、3月10日です』


静香は、上野の夜空を見上げた。

星は見えないけれど、街の灯りが温かい。


『了解。空けとく』


短く返信した。

心臓のモヤモヤは、もうない。

あるのは、春を待つつぼみのような、確かな期待だけ。


「……よし」


静香は革鞄を抱え直した。

この鞄の中には、まだ何者でもない自分の歴史と、これからの予感が詰まっている。

ヤッちゃんという最強の味方を得て、静香の足取りは、行きの時よりもずっと軽やかだった。

東大生で、フリーターで、恋する乙女。

どれも私だ。

あらゆる矛盾を飲み込んで、私は私の歴史を歩いていく。


「淳には……まだ内緒やけどな」


静香は小さく舌を出し、本郷への道を急いだ。

春は、もうすぐそこまで来ていた。

いかがだったでしょうか。

上野の喧騒の中、ヤッちゃんという最強の味方(そしてまさかの直系の大先輩!)を得て、ついに自分の気持ちに腹を括った静香。ヤッちゃんの「恋愛に偏差値はない。あるのは熱量だけ」という言葉、真っ直ぐで胸に刺さりますね。

さて、蓮から告げられた運命の「3月10日」まで、あと少し。

卒業式という大きな節目を迎え、いよいよ「先生と生徒」という仮面を外す時がやってきます。春を待つ蕾のような二人の関係は、ここから一体どう花開いていくのでしょうか。

次回の展開も、ぜひ楽しみにお待ちください!

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