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『最後の授業は、春一番とともに』

二十一歳。世間一般の基準からすれば、もう十分に「大人」と呼ばれる年齢です。


大学では過去の歴史を論理的に紐解き、私生活ではスーパーの半額シールを冷静に見極める。それが佐藤静香という人間の、地に足のついた日常でした。


自分の感情くらい、自分でコントロールできる。そう思っていたのです。


まさか自分が、三つも年下の、しかも教え子の男の子にこんなにも心を乱されるなんて、どこの歴史書を探しても、どんな物理の公式を当てはめても導き出せない「エラー」でした。


「先生」という分厚い仮面の下で、ひっそりと、けれど確実に育ってしまった不純で甘い感情。


これは、理性の鎧を着込んで賢く生きてきたはずの私が、ひとりの不器用な「恋する乙女」へと剥がれ落ちていくまでの、少しだけ後ろめたくて、ひどく甘い数週間の記録です。

第一章:先生と生徒の午後


二月中旬。東京は、一年で最も静かな季節を迎えていた。


共通テストという嵐が去り、私立大学の入試も終わり、あとはただ「結果」という審判を待つだけの真空地帯。


その独特の浮遊感が、この部屋には充満している。


世田谷区の閑静な住宅街。


藤島ふじしま家の二階、六畳の子供部屋。

そこが、今の佐藤静香の職場だった。


「……先生。ここ、もうやらなくていいですよね」

「ん? ああ、そうね。もう入試は終わったし」


目の前に座る生徒、藤島蓮れん

高校三年生。


第一志望である早稲田大学建築学科の入試を三日前に終え、今は合格発表待ちの状態だ。

本来なら、家庭教師の契約は入試前日で終わってもおかしくない。しかし、蓮の母親の希望で「発表の日までは、精神安定剤代わりに話し相手になってやってください」と頼まれ、こうして週に一度、この部屋に通っている。


蓮は、静かな少年だった。


前の生徒だったみなとのような冷ややかな諦観ていかんはないが、口数は少なく、いつも少し眠そうな目をしている。


身長は百七十五センチ。バスケ部を引退してから少し伸びた髪が、前髪にかかっている。


「……暇ですね」


蓮がシャープペンシルを回しながら言った。


「そうね。暇やね」


静香も苦笑いする。

机の上には、もはや赤本(過去問)も参考書もない。


あるのは、蓮が趣味でスケッチしているクロッキー帳と、母親が持ってきた温かいミルクティーだけ。


いつもなら、「この一分一秒が無駄にできん!」と鬼の形相で単語テストを始めるところだ。


けれど、今のこの部屋には、戦場の硝煙しょうえんの匂いはない。


あるのは、午後の柔らかな陽射しと、紅茶の湯気の甘い匂い。

そして、意識してしまうほどの沈黙。


静香は、カップに口をつけた。

視線の端で、蓮を見る。

彼は窓の外、枯れ木に止まった鳥をぼんやりと眺めている。


その横顔を見て、静香の胸の奥が、チクリと痛んだ。


(……やばいな)


自覚していた。

私は、この男の子に惹かれている。

「先生」として「生徒」を見る目ではない。

「佐藤静香」という一人の女として、「藤島蓮」という異性を見る目で、彼を追っている。


それは、岩井淳に向ける信頼や同志愛とは全く違う。


もっと不純で、甘く、そして後ろめたい感情だった。


第二章:雨の日のタオル


恋に落ちた瞬間というのは、得てして劇的なものではない。

雷に打たれたような衝撃でもなければ、運命の鐘が鳴るわけでもない。

あとになって「ああ、あの時だったんか」と気づくような、些細なほころびだ。

それは、一ヶ月前のことだった。


一月の大雪の日。


交通機関が乱れ、静香はずぶ濡れになって藤島家に辿り着いた。


傘は風で折れ、コートは水を吸って重く、何より愛用の革鞄——明治学園時代からの相棒——が、雨染みで黒くなっていた。

玄関を開けた蓮は、静香の姿を見て息を飲んだ。


「先生……大丈夫ですか」

「ごめん、遅れて。電車が止まってしもうて」


静香は玄関で震えながら、靴を脱ごうとした。

しかし、指がかじかんでうまく動かない。

惨めだった。家庭教師として、生徒に心配させるなんて失格だ。


その時だ。


蓮が、洗面所からバスタオルを持って走ってきた。


そして、それを静香の肩にかける——のではなく。


彼は、静香の手から革鞄をそっと受け取り、そのタオルで鞄を包み込んだのだ。


「え……?」

「この鞄、大事なんでしょ」


蓮は静かに言った。


「いつも授業中、床に置かずに椅子の上に置いてるから。……革は、濡れたままにすると痛むって聞いたので」


彼は、まるで傷ついた小動物を扱うように、優しく、丁寧に鞄の水気を拭き取ってくれた。


自分も寒いはずなのに(彼は薄着の部屋着だった)、静香の身体よりも先に、静香の「プライド」である鞄を守ってくれたのだ。


「先生の体は、その後で拭きます。でも、こっちは代わりがきかないと思うので」


その瞬間、静香の中で何かが崩れ落ちた。

淳なら、「お前、濡れたネズミみたいやな」と笑って、自分のジャージを貸してくれるだろう。それはそれで嬉しい。


でも、蓮は違った。


彼は、私が言葉にしていない「こだわり」や「歴史」を、静かに観察し、尊重してくれていた。


鞄を拭き終えると、彼は新しいタオルをもう一枚持ってきた。


「どうぞ。……風邪、引かないでくださいね。先生が倒れたら、俺、ラストスパートかけられないんで」


ぶっきらぼうな言い方だった。

でも、その時渡されたタオルの温かさと、彼の少し耳が赤くなった横顔を、静香は忘れられなくなってしまった。


たったそれだけのこと。

鞄を拭いてくれただけ。


でも、その「だけ」が、強がって生きてきた静香の心のよろいの隙間に、すっと入り込んでしまったのだ。


第三章:近すぎる公式


回想から戻ると、蓮がこちらを見ていた。


「……先生、顔赤くないですか?」

「えっ!?」


静香は慌てて自分の頬を触った。熱い。


「い、いや、暖房が効きすぎとるんかな。あはは」

「そうですか? ……設定温度、下げましょうか」


蓮が立ち上がり、リモコンを操作する。

その時、彼が私の椅子のすぐ後ろを通った。

ふわりと、柔軟剤の匂いがした。

シトラスでも、汗の匂いでもない。日向に干した布団のような、清潔で優しい匂い。

心臓が、早鐘を打つ。


(落ち着け、佐藤静香。相手は高校生やぞ。しかも受験生。あんたは雇われ家庭教師。コンプライアンス以前に、倫理観の問題や)


自分に言い聞かせる。

しかし、蓮の態度は、ここ最近明らかに変化していた。

以前のような「指導を待つ受け身の姿勢」ではない。

静香という人間そのものに、興味のベクトルを向けてきている。


「先生」


蓮が席に戻らず、静香の前の机に腰掛けた。

距離が近い。

彼の足が、静香の膝に触れそうになる。


「先生は、大学で歴史をやってるんですよね」

「うん、そうよ」

「俺、建築に行きたいって言ったじゃないですか。それ、先生の影響もあるんです」

「え? 私?」

「はい。先生が前に、雑談で言ってたでしょう。赤門の話とか、安田講堂の構造の話とか。『建物は、ただの箱じゃなくて、時代の記憶装置だ』って」


静香は目を見開いた。

そんなこと、言っただろうか。

授業の合間の休憩時間に、つい熱くなって語った戯言ざれごとだと思っていた。


「その話をしてる時の先生、すごく楽しそうで。……なんか、いいなって思ったんです。ひとつのことを、そんなに深く愛せるって」


蓮の目が、まっすぐに静香を捉えている。

その瞳には、憧れ以上の熱が宿っていた。

それは、かつて静香が淳に向けていた「同志への信頼」とも違う。

もっと湿度のある、男が女に向ける眼差し。


「……そ、そう。ありがとう。嬉しいわ」


静香は視線を逸らした。

これ以上見つめられたら、教師の仮面が剥がれ落ちてしまう。


「先生」


蓮の声が、少し低くなった。


「俺、もし合格したら……」

「……したら?」

「大学生になりますよね」

「当たり前やん」

「そしたら、もう『生徒』じゃないですよね」


静香の息が止まった。

その言葉の意味を、理解できないほど子供ではなかった。

これは、宣戦布告だ。

合格というパスポートを手に入れた瞬間、この境界線を越えるという予告。


「……蓮くん」


静香は、震える声で言った。


「それは……合格してから言おうか。今はまだ、結果待ちなんやから」

「はい。分かってます」


蓮は少し寂しそうに、でも力強く微笑んだ。


「だから、今は言いません。……でも、気づいてますよね?」


静香は答えられなかった。

ただ、膝の上で拳を握りしめることしかできなかった。

気づいている。気づかないふりをしているだけだ。

そして、自分も同じ気持ちであることを、必死に隠しているだけだ。


第四章:合格発表の10秒前


一週間後。

運命の日がやってきた。

合格発表は、午前十時にWebサイトで行われる。


静香は、藤島家のリビングにいた。

母親と蓮、そして静香。

三人でパソコンの画面を囲んでいる。


「……時間だ」


蓮がマウスを握る。その手が微かに震えているのが分かった。

静香は、思わず自分の手を重ねそうになって、寸前で止めた。

今は、教師として見守るべき時だ。


「いくよ」


クリック。

画面が切り替わる。

受験番号を入力する。

ローディングの円がぐるぐると回る数秒間が、永遠のように感じられた。

あの関門トンネルの暗闇よりも長く、重い時間。

パッ、と画面が変わった。


『合格おめでとうございます』


桜のイラストと共に、その文字が表示された瞬間。


「……っ!」


蓮が立ち上がった。


「母さん! 受かった!」

「蓮……! よかった、本当によかった……!」


母親が泣き崩れ、蓮に抱きつく。

静香もまた、目頭が熱くなった。


「おめでとう、蓮くん。よう頑張ったね……!」


蓮は母親の背中をポンポンと叩いて落ち着かせると、ふと静香の方を向いた。

その顔は、興奮で紅潮していたが、目は真剣だった。


「母さん、ちょっと先生と話していい? 合格の報告、二人でしたい話があるんだ」


母親は、涙を拭きながら察したように微笑んだ。


「ええ、そうね。先生のおかげだもの。二人でゆっくり話してきなさい。お茶淹れてくるわね」


母親がキッチンへ消えると、蓮は静香に向き直った。


「先生。……部屋、行ってもいいですか」


第五章:真空の融解


子供部屋のドアが閉まると、再び静寂が戻ってきた。

でも、それは以前の「待つだけ」の重苦しい静寂ではない。

何かが始まりそうな、予感に満ちた静けさだ。

蓮は、窓際のデスクに寄りかかった。

静香は、いつもの家庭教師の席——丸いテーブルの椅子に座った。

距離は、二メートル。


「……受かりました」


蓮が言った。


「うん。すごかった。模試の判定、ずっとCやったのに。最後の追い込み、凄まじかったもんね」

「先生のおかげです」

「ううん。私は何も。蓮くんの実力よ」

「違います」


蓮が首を振った。


「先生がいたから、頑張れたんです。先生が……俺のモチベーションだったから」


蓮が一歩、近づいてきた。


「この間の話、覚えてますか」

「……この間?」

「『合格したら、もう生徒じゃない』って話」


静香はうつむいた。

心臓が、痛いほど脈打っている。

この線を越えていいのか。

私は二十一歳。彼は十八歳。

三つの差。でも、今は「先生と生徒」。

いや、合格した今、その契約は事実上終了している。


「佐藤さん」


呼ばれ方が変わった。

「先生」ではなく、名字で。

その響きが、静香の理性を揺さぶる。


「俺、ずっと見てました。先生が、雨の日にボロボロの鞄を大事そうに抱えてくるところ。難しい顔して歴史の話をするところ。俺が問題解けた時、自分のことみたいに喜んでくれるところ」


蓮が、静香の目の前まで来て、しゃがみ込んだ。

視線の高さが同じになる。

彼の長い睫毛まつげが、すぐそこにある。


「好きです」


シンプルな、飾りのない言葉。

物理の公式のように絶対的で、歴史の事実のように覆せない言葉。


「大学生になったら、俺、もっと大人になります。先生に釣り合う男になります。だから……」


蓮の手が、おずおずと伸びてきた。

静香の手の甲に、彼の手が触れる。

温かい。

雨の日にタオルを渡してくれた時と同じ、優しい温度。

静香は、泣きそうになった。

嬉しい。どうしようもなく嬉しい。

淳との関係は「背中合わせ」だった。お互いに外敵と戦うための共闘関係。

でも、蓮との関係は「向き合う」ものだ。

私の弱さも、こだわりも、すべてを受け入れて、正面から見つめてくれる。

それが、こんなにも心地よくて、怖いものだなんて知らなかった。


「……私で、ええん?」


静香の口から、無意識に方言が出た。

東京の「先生」としての言葉ではなく、下関の「静香」としての言葉。


「あんたみたいに、スマートでもないし、金持ちでもないし。ジャージ着て、半額シール追いかけ回すような女よ?」

「知ってます」


蓮は笑った。少年の顔で、でも男の声で。


「そういうところが、いいんです。飾らない、強い人だから」


蓮の指が、静香の指に絡まる。

恋人繋ぎ。

淳とは花火大会で手を繋いだけど、あれは「はぐれないため」だった。

これは違う。「離さないため」の接触だ。


「……待ってくれる?」


静香は囁いた。


「私が、ちゃんと先生じゃなくなって、ただの佐藤静香に戻るまで。……卒業式が終わるまで」


これは、静香なりの最後のけじめだった。

彼が高校を卒業するその日までは、まだ彼は制服を着た高校生だ。

その聖域を守りたかった。


「はい。待ちます」


蓮は頷いた。


「でも、予約はさせてください。四月になったら、一番最初にデートしてください」

「……うん。考えとく」

「ずるいな、先生は」


蓮が、静香の手を引き寄せ、その甲にキスをした。

触れるだけの、羽根のようなキス。

その瞬間、静香の体温は沸点に達し、頭の中が真っ白になった。


(ませガキ……! どこでそんなこと覚えたん……!)


顔が火事のように熱い。

でも、手を振り払うことはできなかった。

その感触が、あまりにも愛おしかったから。


第六章:春一番の予感


藤島家を出た時、外には強い風が吹いていた。

春一番だ。

冬の冷たい空気を吹き飛ばし、新しい季節を無理やり連れてくる強引な風。

静香は、自分の左手を見つめた。

彼がキスをした場所。

まだ熱い。


「……やってもうた」


道端でしゃがみ込む。

顔を覆う。

ニヤけそうになる口元を、必死に抑える。


「あー、もう……! 私、完全に乙女やん……!」


ガラじゃない。キャラじゃない。

淳に知られたら、「お前、脳みそがピンク色に溶解しとるぞ」とバカにされるに決まっている。


でも、この高揚感は止められない。

スマホを取り出し、淳にLINEを送る。


『バイト先の生徒、合格した』


それだけ。

「告白された」なんて、まだ言えない。

これは私だけの秘密だ。

彼が卒業式を迎えるまでの、甘くて苦しい秘密の期間。


『おめでとう。お前の指導の賜物やな。今日は赤門ラーメンで祝杯か?』


すぐに返信が来た。

相変わらず、淳は淳だ。

その変わらなさに安心しつつ、静香は少しだけ罪悪感を覚えた。

私はもう、あの関門トンネルの中だけには留まれないかもしれない。

新しい光の差す場所へ、一歩踏み出してしまったから。


「……でも、まだ分からんし」


静香は立ち上がった。

風が、髪を乱す。

春になれば、蓮は早稲田へ、私は東大へ。

それぞれのキャンパスで、新しい生活が始まる。


その時、この淡い恋がどうなっているか、誰にも予測できない。

歴史学も物理学も、人の心の行方だけは記述できないのだから。


「ま、いっか」


静香は革鞄を抱きしめた。

あの雨の日、彼が守ってくれた鞄。

その傷だらけの革の感触が、今は少しだけ優しく感じられた。


歩き出す。


足取りは軽い。


パンプスの痛みも、今は気にならない。

二月の真空地帯を抜けて、私の心には今、満開の桜が咲き乱れていた。

「先生」としての威厳なんて、あの手の甲に落ちた羽のようなキス一つで、完全に跡形もなく吹き飛んでしまいました。


春一番の風に吹かれながら、真っ赤な顔で道端にうずくまる二十一歳。客観的に見ればかなり滑稽でしょうし、腐れ縁の淳が見たら腹を抱えて笑うに違いありません。


けれど、胸の奥で弾けるようなこの高揚感を、どうやって鎮めればいいのか、今の私には全く分からないのです。


四月になれば、彼は「高校生」という安全なタグを外し、私と同じフィールドに立つひとりの男になります。


その時、私はちゃんと大人の女としての余裕を持って、彼に向き合えるのでしょうか。

……いや、きっと無理でしょう。あの湿度を帯びたまっすぐな瞳で見つめられたら、今日と同じように、あっけなく白旗を揚げてしまう未来しか見えません。


彼が卒業式を迎えるまでの、あと少しの猶予期間。

今はもう少しだけ、この甘くて苦しい「秘密」の余韻に、柄にもなく浸らせてください。

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