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『関門の海鳴り、本郷の静寂』

関門海峡の轟音を聴きながら、二人は大人になった。 本州と九州を繋ぐ海底トンネル。漆黒の闇の中、電車の振動に身を任せ、ただひたすらにページめくり続けたあの日々。 それから数年。場所を赤煉瓦の最高学府へと移しても、二人の間に流れる空気はあの頃のまま、少しも変わっていない。 これは、故郷の海鳴りを背負ったまま、巨大な知の迷宮を歩き続ける二人の、静かで熱い「戦い」の記録。

第一章:午前五時の防空壕


東京大学本郷キャンパス、総合図書館。 その赤煉瓦の重厚な建物が、朝霧の中に沈んでいる。


午前八時五十分。開館十分前。 佐藤静香は、いつもの定位置である正面玄関脇の列に並んでいた。二月の東京の空気は乾燥していて、肌に刺さるように冷たい。だが、静香にとってはこの寒さこそが、思考のスイッチを入れる合図だった。


彼女の背中は、少し丸まっている。 それは寒さのせいではない。中学時代から六年と三年、計九年間。重力に逆らうかのように詰め込まれた教科書と参考書、辞書たちが詰まった鞄を背負い続けた証だ。


その鞄——明治学園高等学校指定の、飴色に変色し、底の四隅が擦り切れて毛羽立った革鞄——は、今も彼女の肩にある。


「……さぶいね」


背後から、低い声がした。振り返らなくても分かる。岩井淳だ。


「遅いっちゃ。またギリギリまで寝とったんやろ」


静香は視線を文庫本(岩波文庫の『歴史とは何か』)に落としたまま、マフラーに顔を埋めて答える。


「五時起きよ。夢の中でシュレーディンガー方程式解きよったけぇ、寝覚めが悪くて」


淳は大きなあくびを噛み殺しながら、静香の横に並んだ。彼もまた、ボロボロのリュックサックを背負っている。理学部の学生らしく、中身は専門書とノートPCで膨れ上がっていた。


周囲を見渡せば、開館待ちをしている学生はまばらだ。ほとんどがジャージ姿や、寝癖のついた髪を隠すためのニット帽を被っている。皆、どこか切迫した目をしているか、あるいは死んだ魚のような目をしているかだ。


だが、静香と淳の纏う空気は、彼らとは少し違う。 切迫感とも、疲労感とも違う。もっと無機質で、強固な「習慣」の気配。


「東京の朝は、音がせんね」


淳がポツリと言った。


「そう?」


「ああ。潮の匂いもせんし、船の汽笛も聞こえん。無音の真空管の中におるみたいや」


「……あんた、また物理っぽい喩えしよる」


静香は小さく笑った。けれど、淳の言いたいことは痛いほど分かった。


山口県下関市。本州の最西端。 実家の窓を開ければ、そこには常に関門海峡の激しい潮流があった。一日に何百隻もの巨大貨物船が行き交い、重低音の霧笛が響き渡る街。


そこから、福岡県北九州市の高校へ通う日々。 県境を越える、ということ。 それは静香と淳にとって、単なる通学ではなかった。


『ガチャン』


図書館の重い扉が開錠される音が、静寂を破った。 二人は目配せすることもなく、流れるような動作で入館ゲートへ向かう。 会話はそこで途切れた。ここから先は、戦場だ。


第二章:海峡線の揺籃ゆりかご


閲覧室のいつもの席——奥まった窓際、古い全集の棚に囲まれた「要塞」のような場所——に陣取ると、静香は革鞄から筆記用具を取り出した。


シャープペンシルの芯をカチリと出す音。それが、過去へのトリガーとなる。 意識が、六年前のJR山陽本線の車内へと飛ぶ。



(次は、下関、下関です。お出口は変わりまして右側です——)


早朝六時過ぎの下関駅。まだ薄暗いホームに、冷たい海風が吹き抜ける。 セーラー服の上に指定のコートを着込み、静香は震えながら乗り換えの電車を待っていた。


向かいのホームには、すでに淳がいた。 男子部の詰め襟。学生服のボタンは一番上まで留められている。彼の手には、ボロボロになった『ターゲット1900』。 二人は言葉を交わさない。ただ、小さく顎を引いて会釈をするだけだ。


「……来る」


遠くから、重たい走行音が近づいてくる。 九州方面へ向かう、JR鹿児島本線の車両。ドアが開くと同時に、二人は車両に滑り込む。座席の端と端、あるいは向かい合わせ。 ここからが、勝負の時間だった。


『ガチャン、ゴウウウウウウウウ……』


電車が動き出し、すぐに世界が暗転する。 関門トンネルだ。本州と九州を繋ぐ、海底トンネル。 窓の外は漆黒の闇。車内の蛍光灯だけが、青白く二人の顔を照らす。


トンネルに入ると、走行音は反響し、鼓膜を圧迫するような轟音ごうおんに変わる。 会話など不可能だ。隣の人の話し声さえかき消される圧倒的なノイズ。 だが、静香にとって、その轟音こそが「静寂」だった。


(今から抜けるまでの五分間。次の単語五十個、絶対に覚える)


静香は単語帳を睨みつける。 視界の端には、淳がいる。彼は揺れる車内で、膝の上に広げた『チャート式 数学』に没頭している。 鉛筆を動かすことはできない。ただひたすらに、数式を目で追い、脳内で解法を構築する。


トンネル特有の湿った空気。窓ガラスに結露する水滴。 轟音の中で、世界には自分と、単語帳と、そして「同じように戦っているアイツ」しかいなくなる。


誰かに強制されたわけではない。 けれど、地元の公立高校ではなく、わざわざ県をまたいで、授業料の高い私立高校に通わせてもらっている。その事実が、農家の娘である静香の背中に、鉛のような責任感を乗せていた。


(落ちるわけにはいかん. 絶対に、一番にならんと)


トンネルを抜けた瞬間、パッと視界が開ける。 門司もじ駅の構内。朝の光。 そこでようやく、静香はふぅ、と息を吐く。


視線を上げると、淳と目が合う。 彼もまた、難解な証明問題を一つ、頭の中で解き終えた顔をしている。


「……おはよう」


「……おはよ。今日の小テスト、範囲どこやったっけ」


「関係代名詞の非制限用法。あと、古文の助動詞」


「げっ。助動詞まだ覚えきれてないっちゃ」


「貸しちゃりか? 私のまとめノート」


「恩に着る」


それが、彼らの青春の全てだった。 放課後のタピオカも、カラオケも、文化祭の準備期間のときめきも、すべてはこの「移動する自習室」の中に溶けていた。


第三章:沈黙の同志


ふと、静香は顔を上げた。 東大図書館の天井は高く、空気は清潔で乾燥している。 目の前には、大量の史料が積み上がっている。来週提出のレポート、「明治期の地方行政と中央集権化の軋轢あつれき」に関する考察。


対面の席には、淳が座っている。 彼は量子力学の専門書を広げ、ノートに何やら複雑な計算式を書き殴っている。時折、眉間に深い皺を寄せ、シャープペンシルの尻でこめかみをトントンと叩く。その癖は、高校時代から全く変わっていない。


周りの東大生たちは、スマートだ。 タブレット端末を使いこなし、カフェラテを片手に、要領よく課題をこなしているように見える。 首都圏の名門中高一貫校出身者が多いこの場所で、静香は時折、強烈な疎外感に襲われることがあった。


彼らの持つ「余裕」。 それは、通学に往復三時間を費やし、泥臭く単語を詰め込み続けた自分には、一生手に入らないもののように思えた。


(うちは、要領が悪い)


静香は唇を噛む。 一度読めば理解できる天才ではない。十回読んで、二十回書いて、ようやく体に染み込ませる凡人だ。だからこそ、誰よりも長く机に向かうしかない。


「……おい」


不意に、淳が小声で囁いた。 彼の手元から、小さな包みが滑ってくる。チョコレートだ。


「糖分。顔、死んじょるよ」


「……あんたこそ。鬼気迫る顔しとる」


「教授の言っちょることが分からんすぎて、宇宙の真理を疑いよるところや」


淳はニカっと笑った。 その屈託のない笑顔を見ると、静香の肩の力がふっと抜けた。


彼だけは、知っている。 静香がどれだけ不器用か。どれだけ必死に、あの関門トンネルの暗闇で、英単語を反芻はんすうしていたか。 そして静香も知っている。 淳が「天才肌」などではなく、誰よりも早く登校し、誰よりも遅くまで居残って物理の問題と格闘していた「努力の塊」であることを。


東京大学という巨大な知の迷宮で、二人は迷子にならないための「命綱」をお互いに握り合っているようなものだった。


「淳」


「ん?」


「お昼、中央食堂でいい?」


「おう。赤門ラーメンしばくか」


「あんた、また辛いの? 胃に穴が開くよ」


「刺激がないと、脳みそが冬眠するけぇ」


短い会話の後、二人は再びそれぞれの世界へ潜っていった。


静香の集中力は、海峡の底のように深く、静かだ。 周りの雑音は消え失せ、文字だけが浮かび上がる。 あの頃、トンネルの中で培った「遮断力」が、今、東京のど真ん中で彼女を支えている。


第四章:中央食堂の「方言」


昼十二時。中央食堂の喧騒。 トレイを持って席を探す学生たちの波をかき分け、二人は隅のテーブルを確保した。 淳の前には真っ赤なスープの「赤門ラーメン」。静香はバランス重視の定食。


「いただきまーす」


手を合わせると、淳は豪快に麺をすすり始めた。


「あー、染みるわぁ。これ食わんと午後が始まらん」


「ほんと、よう食べるね」


静香は呆れつつも、箸を進める。


「で? レポート進んだん?」


淳が水を飲みながら訊く。


「んー、資料が多すぎてまとまらん。明治初期の廃藩置県の影響なんやけど……山口、というか長州藩の資料ばっかり目についてしまって」


「そりゃあ、うちらの地元やけぇね。バイアスかかるわな」


「そうなんよ。客観的に見らんといけんのに、『あ、これお祖父ちゃんが言ってた話に繋がるかも』とか余計なこと考えてしまう」


静香は苦笑いする。すると、淳は少し真面目な顔になって言った。


「ええやん、それで」


「え?」


「俺らがわざわざ東京まで出てきた意味って、それやないんか? 地元の視点と、中央の視点。両方持っちょるのが俺らの強みやろ」


「……」


「関門海峡渡って、さらに箱根の山越えて来たんや。視界の広さは、そんじょそこらの奴には負けちゃいけん」


淳の言葉には、独特の説得力があった。 下関弁と北九州弁が混ざった、少し荒っぽいイントネーション。けれど、その響きは静香にとって、どんなに洗練された標準語よりも心に届く「音」だった。


「あんた……たまにええこと言うね」


「『たまに』は余計じゃ。俺は常に真理を語りよる」


「はいはい。で、物理の方は?」


「泥沼。でもな、最近思うんよ。物理の数式も、方言みたいなもんやなって」


「はあ?」


「自然界という巨大な田舎者が喋っちょる言葉を、人間が必死に翻訳しようとしとるのが物理学や。そう思うと、分からん言葉があっても『まあ、文化の違いやな』って思える」


「……あんたのそのポジティブさ、ほんと呆れるわ」


静香は笑った。久しぶりに、腹の底から笑った気がした。


周りの学生たちが「インターンどこ受ける?」とか「サークルの合宿がさぁ」というキラキラした話題で盛り上がっている中、二人の会話だけは、まるで実家のコタツで話しているかのように泥臭く、そして温かい。


「ねえ、淳」


「ん?」


「今度の休み、下関帰らんの?」


「んー、春休みまでお預けかな。新幹線の代金もバカにならんし。静香は?」


「私も。バイト入れてしもうたし、図書館に通いたい」


「やっぱりな。お前らしいわ」


淳はニヤリと笑い、残ったスープを飲み干した。


「ま、帰らんでも, 俺らが集まればそこが『動く実家』みたいなもんやろ」


「……言うねえ」


「事実やろ。ほら、行くぞ。午後の部、開始や」


第五章:坂道の向こう側


午後五時。日が傾き、キャンパスに長い影が落ちる。 二人は図書館を出て、正門へ向かって歩いていた。冷たい風が吹いているが、朝ほどの厳しさは感じない。


「戸畑駅の坂道、覚えとる?」


不意に静香が言った。 明治学園へ続く、あの長い長い坂道。遅刻しそうな時、重い鞄を抱えて全力疾走した、心臓破りの坂。


「忘れられるわけないやろ。俺のふくらはぎの筋肉は、あの坂で作られたんや」


淳が自分の足を叩く。


「あの坂を登りきった時の、校舎が見える瞬間. あれが嫌いじゃなかった」


「私は嫌いやったよ。冬は寒いし、夏は汗だくになるし」


「でも、振り返ったら海が見えたやろ」


「……うん。見えた」


坂の上から見下ろす、北九州の工業地帯と、その向こうに広がる洞海湾。 煤煙ばいえんと潮風が混ざった匂い。 それは、東京の景色とは似ても似つかない、無骨で力強い風景だった。


「あの頃、毎日毎日、県境越えて、海越えて通ってたうちらがさ」


静香は立ち止まり、赤門を見上げた。


「今、こうして赤門くぐってるって、なんか不思議やね」


淳も足を止め、ポケットに手を突っ込んで空を見上げる。


「不思議やけど、必然やろ」


「必然?」


「ああ。あの電車の中で、俺らは誰よりも『遠くへ行きたい』って思ってたんやから。物理的な距離だけやなくて、もっと広い世界へ」


淳は静香の方を向き、真剣な眼差しで言った。


「俺らが乗り越えたんは、ただの海峡やない。自分の限界みたいなもんを、毎日毎日、少しずつ越えよったんやと思う」


静香は、淳の顔をじっと見た。 その目には、あの頃のトンネルの中で参考書を睨みつけていた時と同じ、静かな闘志が宿っている。


「……そうかもね」


静香は、肩にかけていた革鞄のストラップを握りしめた。 指先に伝わる、擦り切れた革の感触。それは、彼女の戦友の手触りだった。


「よし、帰って飯作るか。今日はスーパーで安売りのがめ煮(筑前煮)の材料買うて帰る」


淳が急に生活感のあることを言い出した。


「あ、いいな。私も作ろうかな」


「お前はレトルトカレーやろ。知っちょるぞ」


「うるさいっちゃ! たまには作るわよ」


「はいはい。じゃあな、また明日」


淳は片手を挙げて、本郷三丁目駅の方へと歩き出した。 その背中は少し猫背で、大きなリュックサックが揺れている。洗練されていない、無骨な後ろ姿。 けれど、静香にとっては、世界で一番頼もしい背中だった。


「また明日」


静香は小さく呟き、反対方向にある自分のアパートへ向かって歩き出した。 歩調は軽い。東京の喧騒が、今は心地よいBGMのように聞こえる。


心の中には、常に関門海峡の海鳴りがある。 あの暗闇のトンネルで培った集中力と、隣で戦い続けた同志の存在がある限り、この巨大な都市でも、自分は自分を見失わずに歩いていける。


静香は一つ大きく息を吸い込み、夕闇の雑踏へと溶け込んでいった。 擦り切れた革鞄が、一歩ごとに腰を叩くリズムだけが、彼女の確かな鼓動だった。


(完)

本作をお読みいただき、ありがとうございます。 今回は、静香と淳にとっての「原点」と、東京での静かな「再始動」を描きました。


二人の前には、これからも難解な数式や膨大な史料、そして時には「自分は何者なのか」という問いが立ちはだかるでしょう。けれど、あの海峡の轟音を知る彼らなら、どんなに洗練された都会の荒波も越えていける。私はそう信じています。


この先、二人の関係がどう変わっていくのか、あるいは変わらずに居続けるのか。赤門をくぐり、坂道を登り続ける彼らの日常を、これからも丁寧に紡いでいきたいと思っています。次なる章での再会を、どうぞお楽しみに。

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