8 優しいランポタージュ
「おはよう、マリー…」
僕は寝ぼけながら隣に手を伸ばす、が。一気に目が覚めた。
「マリー…?」
いない。彼女は朝にとてつもなく弱くて、僕より先に起きたことなど一度もなかったのに。
異常を感じて部屋を見回すとサイドテーブルに手紙が一通。
様々な不安がよぎって恐る恐る開いてみると、すごく簡潔な文だった。
◆◆◆
ノアさんへ
急でごめんなさい。今日から、少し旅に出てみようと思います。
里帰りとか、そんなんじゃありませんので心配はなさらないでください。
追記 一緒に使っていたスーツケース、お借りしますね
マリー
◆◆◆
(これを読んで、なんだ旅か。良かった…とはならないだろうっ、!)
ぐっと握りしめたシーツはぞっとするほど冷たかった。
急いで使用人に尋ねてみるが、誰も彼も知らないと首を振るばかり。
心配で、状況が掴めなくて気が狂いそうだ。
『ノアさん。私は良き妻でいられていますか?』
(そういえば昨日珍しくそんな質問をしていたな。なにかあったのか?)
仕事を爆速で部下に回し、まずは彼女の行きそうな場所に問い合わせてみることにした。
しかし。
彼女の友人、サロン、カフェ、行きつけの店。
どこを訪ねても知らないと。
「マリーちゃん?今日は来ていないよ」
「いなくなったって?子供じゃあるまいし、そのうち帰ってくるさ」
「あたしにゃ分かる。何もかも投げ出したくなる日なんて誰にでもあるよ」
(分かっている、マリーはしっかりした人だ。でもだからこそ何かおかしい)
そうしているうちに昼過ぎになった。
(本人は手紙で否定していたが、里帰りなのか…?)
彼女の実家はここから少し離れているが、一か八か馬車で向かってみる。
着いた頃にはもう夕方。
「すみません、マリーはここに来ていませんか?」
「ノア君。どうしたの?そんなに急いで」
彼女のお母さんは首を傾げて微笑んだ。
「今日来ていたわよ。昼前には帰っちゃったけれど」
「本当ですか?彼女は何か言っていましたか?」
「特に何も…あ、でも大荷物だったわね。何か家に置いて行ったみたいよ。見ていく?」
そうして彼女の自室に案内してもらった。
部屋には大量の本に運動器具、武器や刺繍道具などが置いてある。
多彩な彼女らしい部屋。
ふと、あるものが目に付く。
「あれ、なんでここに…」
部屋の隅にあったのは、僕が今までに彼女に贈ったプレゼントたちだった。
アクセサリーや手紙、その包装紙まで。
(愛想を尽かされたのだろうか、いや、それなら捨てるのでは)
「これはノア君がマリーにプレゼントした物?」
「はい…」
「まあ、ここはね、あの子のいちばん大事なものを置くゾーンなのよ。素敵ねえ」
「そうなんですか」
じゃあ、どうしたと言うのか。
これはまるで。縁起でもないし、絶対にそう思いたくもないが。
(遺品整理みたいだ)
◆◆◆
既にすっかり陽が沈んでいたので泊めてもらえることになった。
夕食にはワインを贅沢に使ったビーフシチュー。
「マリーなら大丈夫じゃないか?夏休み中、ずっと山で修行していたこともあったくらいだしな!」
そう言って朗らかに笑うのは彼女のお兄さん。
「山…?修行って?」
(どうしよう。僕の知っているマリーのイメージとかけ離れている)
「おかしいだろう?マリーは昔から頭は良いけどネジが外れているというか」
そういえば、と話し出すのは彼の妻、エミリさんだ。
「マリーちゃん、呪術や催眠術を勉強していたこともあるらしいわよ?」
「それが全部、花嫁修業だっていうんだから。我が子ながら面白いわよねえ」
「…花嫁修業」
(僕は最愛の人のことを、あまり知らないのかもしれない
7年一緒にいたのに。)
ランポタージュ
フランス語で「植え替え」という意味、ワイン業界ではレストランで客に注文された高級ワインとは別の安価なワインを出す不正行為を指す。




