6 溶けるパール・ビネガー
家族に会った。アンナにも会った。そして、ノアさんにも。
終わりの準備が整ったんだ。
あと3年。修道院でお祈りでもしようか。ボランティアもしたり———
「この辺りでお願いします」
『とにかく、西に行きたいんです』
そんな無茶な願いを聞き入れて馬車を走らせてくれた御者さんに感謝しながら金貨を渡す。
ここは家のある街からずっと離れた港町…ノアさんとの新婚旅行で訪れた場所だ。
◆◆◆
『新婚旅行だなんて、ちょっと照れますね』
私達は海を眺めながら2人で歩いていた。ふっと風が吹き、私の髪の毛が舞う。
『一緒に来れて良かった』
髪をそっと整えてくれたノアさんは柔らかく微笑んだ。
思えばその辺りだったかも知れない。
ノアさんの存在が「美しい男性」から、「愛しい人」へと変わり始めたのは。
◆◆◆
(人がたくさん…)
海辺に行くと、新婚旅行のときとは比べ物にならないほどのたくさんの人がいた。
「マダム」
ぼんやりと眺めながら歩いていると、ふいに背後から呼び止められる。
振り向くと、立っていたのは画材をいっぱい抱えた絵描きの青年。
「あなたの絵を描かせていただけないでしょうか」
「あら—ぜひ、おねがいします」
(生きていた証が残るのも、悪くないのかも知れない)
「こっち…いや、こっちがいいかな」
「座っているだけでいいのですか?」
「はい、もうちょっと右を向いてください」
青年は場所が決まると、あっという間に画材を広げて描き始めた。
忙しない青年の手を目だけ動かしながら追ってみたり、海辺で歩く家族を見てみたり。
「お一人で?」
「はい。息抜きがしたくって」
絵の具で染まった指先は迷いなく動く。
「最近、海水浴が健康に良いと話題になったらしいんです」
「どうりで。前に来たときよりも賑わっていてびっくりしました」
雑談を交えながら数時間後。
「できました!」
「わぁ——すごく、綺麗に書いていただいて」
出来上がった絵は予想以上だった。
キャンバスには今の空と同じ、ピンク色の夕日に照らされた私が微笑んでいる。
首元のパールのネックレスが淡く光を放つ。
「人生で一番うまく描けた…」
自分の絵を見つめながら呆然と呟く青年に絵の処遇は任せることにした。
「いいんですか?こんな、長時間モデルになっていただいたのに」
「ええ。自分の絵を持っておいてもしょうがないですから」
青年はせめてものお礼にと、午前中に描いていたという海辺の小さな絵をくれる。
青空に今にも動きそうな波は、あの日ノアさんと見た景色にそっくりだった。
日が沈みかけてきた頃。
地元の人で賑わうレストランで夕食をとり、適当な宿場を探す。
深い青色の街は、柔らかいオレンジ色の街灯に照らされて輝く。
酒場や食堂、カジノや音楽ホール。
この港町の別名は「眠らない街」。
カラカラカラ———
たくさんの人とすれ違いながら整備された石畳を、キャリーケースを引きながら歩く。
次の瞬間
「うっ、」
頭に鋭い痛みが襲った。痛すぎて、痛いのかも分からない。
(熱い、脳が溶けていくみたい)
視界がぐるぐるして立っていられない。
(あと3年、生きられるんじゃなかったの…?)
私は頬に冷たい石畳の感覚を感じながら、遠のいていく意識の中で、駆け寄ってくる人々の声をぼんやりと聞いていた。
パール・ビネガー
クレオパトラは真珠をワインビネガーに溶かして飲んだとか。実際に真珠には鎮静作用、滋養強壮、そして美肌効果が認められ、漢方として飲まれることも。




