9 描かれたブショネ
よく眠れずに迎えた翌朝、まだ日も昇り切らないうちに目が覚めてバルコニーでコーヒーを飲んでいた。
しばらくすると、店の前に1台の馬車が停まった。
薄暗い中、御者の持つランプだけが点滅する。
「マリーの旦那!」
(この声…というか僕をそう呼ぶのはあの人だけ)
「アンナさん」
◆◆◆
マリーが急に手紙だけ残して旅に出てしまったこと。なぜか、すごく嫌な予感がすることを伝えるとアンナさんは神妙な面持ちで頷いた。
「昨日ね、うちにマリーが来たのよ。でも様子が少し気になって。噂で旦那がこの街にいるって聞いたから来てみたの。」
「マリーは、辛そうでしたか?」
彼女は少し困ったように首を振る。
「そうじゃないの。ただ、あの子が何かを堪えている時の癖があって…」
「「猫の手」」
「さすがマリーの旦那。知ってたのね」
「僕といる時はそんな素振りなかったんだけどな」
「あの子の人生の目標を知っていて?」
(昨日、マリーのお父さんも言っていた。)
『最強のお嫁さんになること』
(マリー、だから僕には何も言ってくれなかったのかい?)
◆◆◆
『行き先は聞きそびれたけれど、西の門の方へ馬車を走らせて行ったわ』
子ども達がいて身動きが取れないアンナさんから託され―――いや。託されずとも行くのだが、西の方へ行ってみる。
「女性が1人で行ける場所…」
彼女1人でいきなり見知らぬ土地に行くだろうか。地図を頭に描きながら考えていると、呟きが漏れていたんだろう。御者が外から声を発した。
「ドーヴィルなんかはどうですかい?あそこは別名『眠らない街』とか言われていて、夜でも治安がいいと有名でっせ」
「そうか…そこに向かってくれないか?」
(ドーヴィル。新婚旅行で僕たちが行った街だ。全く知らない土地よりは可能性があるだろう)
そこから揺られること数時間。
「ありがとう」
「この時間だと市場の周辺が人通りが多いんじゃあないかな?」
「ずいぶんと詳しいね」
「妻の地元なんですわ。じゃあ達者で」
(なるほど、これは…)
宿場に劇場、カジノや酒屋まで揃った街は海辺を中心に栄えている。新婚旅行のときと大きく変わった街に、当時の土地勘が役に立たないことを悟る。
その時。
「なんだい、絵描きのくせに絵を売れないってか?」
「これはダメなんだ!」
ざわざわとした人混みを辿ってみると、大きな絵を抱える青年と酔っぱらった裕福そうな男が言い争っていた。
「これは、僕の人生の最高傑作だから…!」
高い背を駆使して覗いてみた瞬間。
時が、止まった。
「マリー…」
柔らかい、色素の薄い髪がふわりと風になびく。
大きな透き通った瞳を彩る長い睫毛。
儚く、至高の美術品のような女性。
見紛うはずもない。最愛の人。
僕は人混みの隙間を縫って青年に掴みかかった。
「その女性、どこで見た?いつその絵を描いた?今彼女はどこにいる?!」
「昨日の夕方、海辺で。…今は知りません。」
戸惑いながらも青年は答える。
(マリーはまだこの街にいるのかもしれない)
そして、青年に掴みかかったことを謝りながら引き返そうとすると、気になる声が耳に入った。
「あのべっぴんさん、昨日の夜倒れた人じゃないか?」
「そうだ、丘のふもとの病院に…」
(病気なのか?彼女は無事なのか…?)
そして、たどり着いた病院では看護師が噂していた。
「可哀想よねえ。若いのに余命1ヶ月だなんて」
「しかももう歩けないんでしょう?」
噂の主がマリーではないことを、祈っていた。
ブショネ
ワインが劣化し、香りが悪いことを指す。カビ臭に近いとも言われており、味も落ちる。




