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9 傍にあった愛

 

 ◇◇◇


 雲が幾重にものし掛かる昏い空は、こんな日に相応しい。哀しみに暮れる人々の喪服を、小雨が気まぐれに舞っては濡らしていた。


 突然発熱し、少し休むと横になったきり戻って来なかったキオン。まだ20歳の早すぎる死を誰もが悼んだ。


 棺の隣に立つレンティは、誰の目にも儚い影のように映っている。雲が動いて、ほんの少しでも陽が差せば、忽ち消えてしまいそうな程に。

 リエタの目に映るレンティは、もっと儚かった。黒を纏っているせいか、最後に会った結婚式の時よりも一層華奢に見える身体。その表情はよく見えないが、微動だにしないベールからは、深い哀しみが窺える。


(……もう、わざわざ見なくても分かるわ。今、イヴェルノ様の青い瞳は、彼女を見つめて苦しげに揺らいでいるのだろう)


 自分が隣に居るせいで、愛する人の傍に立つことも、肩を抱き寄せることも出来ない夫を、リエタは不憫に思う。



 ────今が潮時だ。

 リエタは手を組み、キオンの魂に祈りを捧げた。



 ◇◇◇


 キオンの葬儀から数ヵ月が経った頃、リエタは大事な話があると、イヴェルノを庭に呼び出した。

 彼の瞳を思わせる真っ青な空に、橙色や朱の葉が揺れる木の下。リエタは用意していた敷物を広げ、そこに座るようにと夫に促す。

 少し戸惑いながらも腰を下ろすイヴェルノ。こうして並ぶと、触れてしまいそうな程の距離に、空っぽだと思っていたリエタの胸が、切なく疼き出した。


 子供が生まれたら思いきり遊べるようにと、一番日当たりのいい場所に、両親が建ててくれたこの離れの屋敷。庭師が懸命に手入れしてくれていた庭を、こうして二人かぞくで使うのは最初で最後になるだろう。


 空を見上げ、こぼれ落ちそうになるものを全部呑み込むと、リエタは大きなバスケットを勢いよく開け、皿の上に中の物を手際よく並べていく。


「好きな具をパンに挟んで食べてくださいね。自分で作ると、きっと何倍も美味しいから」


 こんな風にして食べたことなどないのだろう。ぽかんと口を開ける夫の前で、ソースをかけた厚切りのハムとふわふわの卵、瑞々しいレタスを一枚……と、どんどんパンに載せていく。


「お腹ペコペコなので……ごめんなさい! お先にいただきます!」


 そう言うと、淑女らしくない大きな口を開け、ガブリとパンに噛みついた。


「うーん、美味しい」


 きらきら輝く焦茶の瞳と、膨らんだ頬に浮かぶ生き生きとした笑顔。朱いポニーテールからはぐれた一本一本が風に踊る様子に、イヴェルノは釘付けになる。


(自分の妻はこんな顔をしていたのか……まるで夏と秋の狭間みたいだな)


 初めて見た妻の顔。それは長らく色のない世界に居たイヴェルノにとっては、あまりにも鮮やかで、あまりにも眩しすぎた。


 やや細められる夫の目に、きっとお行儀が悪いから……とリエタは不安になる。

 それでももぐもぐ口を動かし続けていると、イヴェルノもやっとパンを手に取り、リエタと同じ具を挟んで一口噛った。品よく咀嚼し飲み込むと、口元を綻ばせながらポツリと呟く。


「……美味しいな」


 久しぶりに夫の表情を見たリエタは嬉しくなり、「でしょう?」と得意気に言いながら、自分も二つ目のパンに手を伸ばした。



 リエタが二つ目を胃に納めた頃、イヴェルノもようやく一つ目を食べ終わる。紅茶を注いだカップを差し出すと、彼はそれを受け取り、赤茶色の水面を見ながら問うた。


「話とは?」


 一足先に喉を潤していたリエタは、出来るだけさらりと言ってのける。


「離婚して欲しいの。私、好きな人がいるんです」


 紅茶から妻へと視線を移すイヴェルノ。彼の表情かおは驚いてはいるものの、瞳は凪いでいて何の揺らぎもない。


「……好きな?」


「ええ。その人と一緒になりたいんです。実はもう、心だけじゃなく身体も結ばれているわ。だから、別れて欲しいの」


 イヴェルノは何も言わない。少し目を伏せ、夫としてどう答えるべきかを冷静に考えているようだ。なるべく夫を困らせたくないと、リエタはさっさと話を進めた。


「私の不貞行為ですので、もちろん責任は取らせていただきます。二人で手掛けた事業は、財産として幾つかお持ちいただければと思いますし、別途慰謝料もお支払い致します。あ、財産分与の詳細は此処に……父の許可も取っていますからご心配なく」


 すっと差し出された紙を、イヴェルノは見ることもなく首を振る。


「……君の実家には、結婚する時に散々援助してもらったんだ。レンティが流産した時も、キオンが亡くなった時も。どうやって恩を返したらいいのか分からないくらい……沢山、沢山」


「 “ 家族 ” なのですから当然です。それに、援助についてはお互い様でしょう? こちらだって貴方のおかげで爵位を得ることが出来たのだし、新事業も貴方の力あってこそ、あれ程の成功を収めたんです。……貴方は政略結婚に相応しい、最高の婿殿だったのですから。胸を張って、受け取るべきものを受け取ればいいんです」


「……本当に離婚してもいいのか?」


 結婚式の時とは逆の問いに、リエタは笑顔で答える。


「当たり前でしょう。でなきゃ、こんな気持ちのいい空の下で、サンドイッチを楽しむことなんて出来ないわ」



(……私の声は掠れていないはず。きっと大丈夫なはず。今日は、大好きなマスタードも我慢したんだから)



 23歳になった今、お姫様の可愛らしさなんて、もう何処にもない。女王様みたいに貫禄たっぷりの笑みをつくると、リエタは抜け殻の王子様へ最後の言葉を放った。


「もう書類は揃えてありますから。仕事の引き継ぎだけ終えたら、サインしてなるべく早めに出て行ってくださいね。……四年間、どうもありがとうございました」




 一人になった庭で、リエタは三つ目のパンに手を伸ばす。マスタードをたっぷり塗って噛っていると、離れた木陰からハリーフがやって来た。


「俺の出番はなかったようだな」

「……そうね」


 もし相手は誰だと訊かれたら、彼に恋人役を演じてもらう予定だった。幼なじみであり、病気の時は何度も寝室に出入りしていた男。恋仲になるにはもってこいだ。


(……予想通り、ハリーフの力を借りる必要はなかったわね。拍子抜けする程、呆気なく終わってしまったわ)


 自嘲気味に笑うリエタ。その心中を推し量り、ハリーフは努めて明るく振る舞う。


「あーあ、また口を汚して。あんなに頑張っていた淑女はどこにいったんですか?」


 お行儀悪くペロッとソースを舐めようとするリエタに、ハリーフはおどけた調子で首を振る。手袋を外し、親指の腹でごしごしと彼女の口元を拭うと、その指をペロリと舐め笑った。子供の頃と同じ、彼の粗野な温もりに、舌に残るマスタードの辛味が増していく。あまりの刺激に、リエタは耐えきれず俯いた。


「私……恋していただけなの。自分のことばかりで、彼の表面しか見ていなかった。そのせいで彼を不幸にしてしまって……少しも愛してなんかいなかったんだわ」


 芝生の明るい緑と、朱い落ち葉がじわりと滲む。


「……お前はちゃんと愛していたよ。だからこんな風に彼を手放すことが出来たんだ。ちゃんと愛していたんだよ」


 頭に温かな手を乗せられれば、とうとうリエタの涙腺は決壊してしまう。子供みたいにぐりぐりと撫でるものだから、気が緩み止まらなくなってしまった。


「仕方ないな」


 ハリーフはふっと笑うと、頭上に手をかざす。すると鮮やかな秋色の葉が、若い緑へと色を変えていった。まるで、結婚する前に時を戻すかのように。

 それでもあの時見た緑と、今日見る緑とでは全く色が違う。イヴェルノと出逢ったことで知った、恋心も嫉妬も哀しみも。今のリエタを形成する一部であり、これからのリエタの糧になるのだ。


「……緑も素敵ね。前は全部同じ色で退屈だと思っていたけれど、よく見るとそうじゃないわ。一枚一枚、ちゃんと濃淡が違うの」


 涙目で木を見上げるリエタに、ハリーフは微笑む。彼女の隣……さっきまでイヴェルノが居た場所ではなく、反対の芝生の上に直に座ると、自分で創った色を見上げて言う。


「俺は前から緑が好きだったよ。……お前の色がよく映えるから。朱い髪も、茶色の瞳も……すごく綺麗だ」


 さっきとは違う熱を帯びた手が、リエタの頬をしっとりと撫でる。

 初めて感じる男性の欲情。それは優しいでも、親切でも紳士的でもない。黒曜石みたいな瞳を見上げれば、それは彼女を映して、荒く苦し気に揺らいでいる。


 瞳の揺らぎはそのままに、ニカッと白い歯を見せるハリーフ。「馬の色にも似ているしな」と悪戯っぽく付け加えながら、戸惑うリエタのポニーテールを掴んだ。


「馬……もうっ!」


 ぽかぽかと殴るも簡単に拳を掴まれ、逞しい胸にぐいと抱き寄せられた。



 …………ハリーフの激しい鼓動が、熱と共にどくどくと流れ込み、空っぽの胸を満たしていく。疼いていた傷もふっと楽になり、リエタは自然と広い背に手を回していた。


「私……今度はちゃんと愛したい。ちゃんと愛して、幸せにしてあげたいの」


「……いつまででも待つよ。俺はどこにも行かないから」



 秋晴れに輝く、瑞々しい緑の葉。

 ときめく景色の中で、リエタは、ずっと傍にあった愛と向き合っていた。



 ◇


 部屋に戻ったイヴェルノは一人、手渡された財産分与に目を通してみるも、そこには文字や数字が並んでいるだけで、少しも情報として入って来ない。


(……これが原因だな)


 眩しい妻の残像に、まだチカチカする瞼。ギュッと閉じ、長い指で目頭を押さえれば、今度はハムやら卵やらの余韻が、口の中で騒々しく暴れ出す。


(食べ物の味を感じたのはいつぶりだろうか)


 唾液と共に冷たい喉の奥に流し込めば、指の先までじわりと温もりが広がった。



 イヴェルノは妻のことをほとんど知らない。知らなくてもこれだけは確信していた。

 ────彼女は決して不貞を働くような人ではないと。


 むしろ不貞を働いていたのは自分だとイヴェルノは思う。身体の繋がりはなくとも、心はずっとレンティを想い続けていたのだから。ついには妻を抱くことも出来なくなって、子を成すという夫の役目も果たせなかった。これが不貞行為でなくて、何なのだろう。


(使い物にならない壊れた自分を、彼女は一番丁寧な方法で捨ててくれたのだ。優しくくるんで、これ以上どこも傷付かないように……何も傷付けないように)



 痩せた背筋を貴族らしく伸ばすと、イヴェルノは再び机に向かいペンを執る。四年間を共にした妻へ、夫として最後の誠意を見せる為に。



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