8 合わせ鏡
まだ若い主の悟りきった言葉と表情に、メイドは込み上げるものをぐっと呑み込む。
「……かしこまりました」
「アークレンから見舞いの品を贈るよう、母屋のお母様に伝えて。それと……落ち着いたら、此処へハリーフを呼んでくれる?」
寝室に夫以外の男性を呼ぶなど、非常識だと分かっている。それでもリエタは今、堪らなくハリーフに会いたかった。
(人の命なんて、明日はどうなるか分からない。もしこのまま死んでしまうなら……)
厳しい顔をされるかと思いきや、メイドは意外にも、柔らかな笑みを浮かべる。子供時代からのリエタとハリーフをよく知る、古参のメイドである彼女。「はい、お待ちください」と優しく答えると足早に部屋を出ていった。
すると彼女と入れ替わるようにして、すぐにハリーフがリエタの元にやって来た。ベッド脇の椅子に腰掛け、今にも泣きそうな顔でリエタの手を握る。
「もしかして……ずっと部屋の外に居てくれたの?」
「当たり前だろ。……もし呼んでくれなくても、勝手に窓から入るつもりだった」
久しぶりに聞くハリーフらしい物言いに、リエタは思わず微笑む。
「嬉しい。なんだか昔に戻ったみたいね」
真っ直ぐで、快活で、溢れんばかりの生命力に輝いていたリエタ。儚い笑みを浮かべる彼女には、もうハリーフが愛した面影は何処にもない。彼の黒い瞳からは涙が溢れ、震える頬を次々に濡らした。
(綺麗……まるで黒曜石みたい)
昔から我慢強く、馬から振り落とされて骨折した時にさえ泣かなかったハリーフ。そんな彼が今、自分の為にこんなにも泣いてくれているのだと思うと、リエタの胸はぐちゃぐちゃになる。
「ごめんなさい……心配かけて、ごめんなさい」
ハリーフは鼻を啜り、手の甲で乱暴に目元を拭う。胸ポケットからハンカチを取り出すと、自分の涙ではなく、リエタの額の汗を優しく拭った。
「俺の方こそごめん……クビになってもいいから、もっと早く診察を受けさせるべきだった」
力なく振られるリエタの首。痩せた目尻から枕へと、細い涙が流れた。
「……今度からは、護衛だろうが下男だろうが、遠慮なく言わせてもらうよ。じゃじゃ馬の手綱を引けるのは俺だけなんだから」
ふふっと笑う焦茶の瞳に、少しだけ光が戻る。決して逃すまいと、ハリーフはリエタの手を両手で力強く包んだ後、すかさず「お見舞い」と言いながら、ある物を見せた。
「……あっ」
それは一本の細い木の枝。今は初夏だというのに、そこに付いている葉は、朱く色付いている。伸ばされた掌に、ハリーフはその枝をしっかりと握らせた。
「花よりもこっちの方がいいだろう?」
胸が一杯で、こくこくと頷くしか出来ないリエタ。目で見て、指で触れ……失いかけていた自分の色を、必死に胸に焼き付ける。
「ありがとう……ハリーフ。ありがとう」
枝を胸に抱き締め、やっとリエタはリエタらしく笑う。ハリーフも泣き腫らした顔に白い歯を浮かべ、幼子をあやすように優しく言った。
「ゆっくり休んで、ちゃんと治すんだぞ。食べられるようになったら、これでさつまいもを焼いてやるから」
朱い葉を悪戯っぽく指差すハリーフに、リエタはパッと顔を輝かせる。
「食べたい……食べたいわ。バターや蜂蜜をたっぷり付けて」
「よし、その調子だ。あ……だけど俺の分は残しておいてくれよ?」
「もう……そんな食いしん坊じゃないわ」
「どうだか。昔俺が一生懸命冷ましてやっている間に……」
心地好い思い出話と、頭を撫でる温かな手に、リエタの瞼は次第に重くなる。やがて穏やかな寝息が聞こえてくると、ハリーフは頭を撫でていた手を顔へと滑らせた。甘えるようにすり寄せられる痩せた頬。幼い頃と同じ愛らしい仕草に、ハリーフは堪らず嗚咽を漏らした。
◇◇◇
翌日届いた手紙により、レンティは無事に一命を取り留めたと知った。それでもまだ予断を許さない状況が続いている為、イヴェルノはしばらく伯爵邸に滞在し、仕事もそちらで行うと書かれている。
安堵したリエタは、風邪の為しばらく外出が出来ない旨と、業務連絡を細かく綴りメイドへ託した。
元々夫婦仲が上手くいっていないことを知っていたリエタの両親。病気の妻を放置し、義妹に付き添うイヴェルノに、当然いい顔をしなかった。
胃潰瘍で倒れたことは伏せてある。こちらは命に拘わる訳ではないし、レンティ様は実の妹も同然の存在なのだとリエタが庇えば、両親は渋々納得するしかなかった。
半月後、レンティの容体が落ち着き、もう命の危険はないと医師の診断が下った頃、イヴェルノはアークレン家に帰ってきた。
最後に会ったのは、もうひと月以上前だろうか。その時とは比べ物にならぬ程痩せ細った妻の姿に、イヴェルノは言葉を失う。
「風邪が長引いていると聞いていたが……どこか悪いのか?」
「胃腸炎を併発してしまっただけです。食べられないだけですのでお気遣いなく」
「……長い間留守にしてすまなかった」
「いいえ。“ 家族 ” が大変だったのですから、当然のことです。こんな時にお力になれないどころか、私の分まで仕事の負担をお掛けしてしまって、申し訳ありませんでした」
久しぶりにベッドではない所に座るリエタは、小さく頭を下げ、すぐにソファーのクッションにもたれかかる。背筋も伸ばせぬ弱った身体から、素直な気持ちを口にした。
「レンティ様……お辛いでしょうが、ご無事との報告を受けてホッと致しました」
「……ああ」
唇を震わせながらそう答えるイヴェルノ。愛する人の死に直面した彼が、どれ程の恐怖を感じたかは想像に難くない。
(よかった……レンティ様がご無事で。もしも彼女を失っていたら、イヴェルノ様も共に死んでしまっただろう。……こうして会話することも叶わずに)
相変わらず空虚ではあるが、ちゃんと生きている青い瞳に、リエタは心から安堵していた。
イヴェルノは、まだ震えの止まらぬ唇を浅く噛み、夫らしい言葉を妻に掛ける。
「君とアークレン家には本当に感謝している。仕事のことは私に任せて、体調が戻るまでゆっくり静養して欲しい」
「……外出以外の仕事なら、家でやらせていただきます。働かなければ、私はきっと退屈で死んでしまいますから」
微笑っているのに微笑えていない、妻の奇妙な表情。病のせいだろうかと考えるも、妻の普段の表情が思い浮かばぬ為比べようがない。有能な商人であり、感情の起伏がない女性。イヴェルノの中のリエタの印象はそれだけだった。
自分を見るガラス玉みたいなその瞳を、イヴェルノは何処かで知っている気がする。……確かに知っているが、結局何かは分からぬまま、また夫らしい言葉を掛けるしかなかった。
「分かった。無理はしないように」
「……ありがとうございます。あと、個人的にお願いしたいことがあるのですが」
仕事以外で妻から頼み事をされるなど初めてである。余程重要なことに違いないと、イヴェルノは少し身構えた。
「体調が回復するまで、護衛のハリーフ・ディラと、親友に戻ることをお許しいただきたいのです。共に過ごしたり、食事をしたり……寝室に入ることも」
「ああ……別に構わない。彼は君の幼なじみなのだろう? 私生活のことで、私に許可を取る必要などない」
何だそんなことかと言わんばかりの素っ気ない返答に、リエタは哀しみを通り越して清々しい気持ちになる。礼も必要ないのだろうが、一応「ありがとうございます」と微笑ってみせた。
業務報告は済んだのだから、もう互いに用はない。「お大事に」と腰を上げ、部屋を出ていこうとする夫に、リエタは淡々と声を掛けた。
「お食事、ちゃんと召し上がってくださいね。貴方まで倒れられてしまっては、レンティ様が悲しまれますから」
行き過ぎた妻の気遣いに、イヴェルノは青白い顔で、「ありがとう」と微笑ってみせた。
◇◇◇
胃は完治しても、苦痛への恐怖心から食事を思うように摂れないリエタ。体力も体調もなかなか回復せぬ中、唯一ハリーフの手からは、食べ物を受け入れることが出来た。
一時は骨と皮だけになり、医師から覚悟するよう言われていた両親は、少しずつ肉を取り戻していく娘を見る度にハリーフに感謝した。もしも彼が居なかったら、娘はどうなっていただろうと。
リエタの父は、ハリーフの娘への想いを知りながらも政略結婚を勧めたことを、今では激しく後悔していた。あんなに苦しむ娘を見るくらいなら、財産も爵位も要らないと。両親とも、望むのはリエタの健康と幸せ。ただそれだけであった。
それから一年の月日が流れた。
まだ痩せてはいるが、自分で食事を摂り外出も出来るようになったというのに、ハリーフは変わらず献身的にリエタに寄り添っている。
青い空と緑の草木が広がる庭。少し汗ばむ陽気の中、季節外れの朱や茶色の葉で焼いたさつまいもを、ハリーフは丁寧に冷ましながらリエタの口に入れる。
「美味しい!」
「だろう? お前のお蔭で、さつまいもを焼くのは誰よりも上手くなったからな」
「熱っ」と言いながら自分の芋を適当に噛るハリーフに、リエタはふふっと笑いながら水を手渡す。ごくりと気持ち良く上下する喉仏。陽を含んだ爽やかな風が、汗の玉をきらきらと光らせるのを見て、リエタの胸は切なくなる。
体調は戻ったのだから、そろそろ護衛と雇用主に戻らなければいけない。分かっているのに言い出すことが出来ず、明日……明後日と先延ばしにしていた。
(もう少し……もう少しだけ)
限りある温かな一時に、不穏な空気を纏ったメイドがおもむろに忍び寄る。
「奥様……」
────嫌な予感は的中する。
それはイヴェルノの弟キオンが、急逝したという知らせだった。