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7 小さな欠片さえ

 

「……ハリーフ?」


 浅黒い肌は一層黒ずみ、がっしりした額には青筋が浮かんでいる。

 初めて見る幼なじみの表情かお。十何年も近くで彼を見てきたはずなのに、何故こんなに怒っているのか分からず、リエタは困惑する。何も言えずにいると、ハリーフは口角を片方だけ上げ、呆れたように笑った。


「結婚した翌日に、花嫁を一人にするのが貴族の流儀なのか?」



(あ…………)


 その言葉に、リエタはやっと彼の怒りの理由わけに気付いた。大切なものをぞんざいに扱われたことへの怒りなのだと。

 大人になっても、結婚しても、変わらず自分を大切に想ってくれている優しい彼。温かなその手で頭を撫でてもらえたら、どんなに慰められるだろうか。


(だけど、今の私はイヴェルノ様の妻であり、新しい屋敷の女主人であり、彼の雇用主だ。ましてや本当の妹でもないのだから……以前のように気軽に甘えることなど許されない)


 涙を溢すまいと、リエタは少し上を向き鼻を啜る。そしてハリーフを正面から見据えると、背筋を伸ばしキッパリと言った。


「旦那様には旦那様のご事情があるの。この屋敷に勤める者として、主を非難する言動は慎んでください」


 ハリーフの顔から、黒いものがすっと消えていく。口を固く結び、何かをごくりと呑み込むと、うつむきがちに一言だけ発した。


「……申し訳ありませんでした」


 朱い落ち葉が北風に舞い、二人の間を寂しく踊る。無邪気に並んで、移りゆく四季を見上げることは、もう二度と出来ないのだと────

 押し寄せる喪失感。大好きな秋の色も霞んでいき、リエタは目を瞬かせる。もう一度鼻を啜り、ハリーフから視線を逸らすと、聞き取れない程小さな声で呟いた。


「護衛は無理しなくていいわ。他の兵に頼むから」

「いえ、私が。すぐに準備しますので」

「……ありがとう。馬車で待っているわね」


 くるりと背を向け、歩き出すリエタ。いつも颯爽としている足取りは、今日はどこかぎこちなく頼りない。小さくなっていく背中を見ながら、ハリーフは爪が食い込む程強く、拳を握り締めた。



 ◇◇◇


『政略結婚』という意味では、二人の結婚は非常に正しかった。

 アークレン家は、モーリー卿を婿にしたのを機に、王室から戦後の経済を支えた功績を称えられ、子爵の地位を賜った。つまりは念願の貴族となったのである。

 モーリー伯爵家も、アークレン家の莫大な資金援助により、領地経営を立て直すことが出来た。


 イヴェルノは、窮地を救ったこの結婚に感謝し、リエタの『よき夫』になろうとしていた。

 毎日寝室を共にし、毎日食事を共に摂り……そして、微笑わらえなくても微笑わらおうと努めた。レンティと距離を置く為、モーリー領を訪れても、実家には極力寄り付かなかった。


 一方リエタは、そんな夫の気持ちを有難いと思いつつも、陸で苦しげに踠く姿を見ることが辛かった。

 毎晩、事を終えると、ホッとしたように向けられる素直な背。浅い寝息が聞こえてくるまでは、リエタも安心して眠りに就くことは出来なかった。

 慣れてしまった身体とは反対に、虚無感が広がっていく心。空っぽの夫を受け入れる行為は、リエタにとっても、ただただ惨めで苦痛だった。



 三日……一週間……一ヶ月。


 支店の開店準備の為、リエタが度々首都へ行くようになったのをきっかけに、二人の距離も徐々に開いていく。

 食事も別に摂ることが増えたが、夜は同じベッドで休んでくれるし、子の出来やすい日は励んでくれる為、リエタは夫にそれ以上を求めなかった。……むしろ求めたくなかった。

 早く子を授かればこんな想いはしなくて済むと、毎月カレンダーを見てはその気配に期待するが、無情にも月のものは来てしまう。その度にリエタはため息を吐き、次の予定日までは全てを忘れようと、仕事に打ち込むのであった。


 二人が唯一楽に呼吸出来るのは、仕事をする時だけだった。イヴェルノは領地改革を進める一方、リエタと共に新しい事業を起こしたり、彼女の補佐を務めた。

 リエタが考案していた、貸衣装業という画期的な事業は大成功を収めたが、そこにはイヴェルノの考案したサービスを付帯したことが大きく影響している。服を貸し出すだけでなく、ヘアメイクや肖像画で晴れの日の思い出を気軽に残すことが出来る店。二人の斬新なアイデアと経営手腕で順調に売り上げを伸ばし、全国に店舗を増やしていったのだ。


 もし仕事がなかったら、この結婚生活は、もっと早くに破綻していたかもしれない。逆に言えば、仕事という繋がりが綻びを補ってしまった為に、空っぽのまま四年間も続いてしまったのだろう。



『互いに多忙な身ですので。見送りも出迎えも要りません』


 結婚当初に告げられたこの言葉に従い、リエタは “ 普通 ” の妻のように、夫に寄り添うことも待つこともしなかった。

 遠慮でも思いやりでもなく……イヴェルノにとってそれが楽なのだと理解していたから。これが二人なりの夫婦の形ならばそれでいいと、自分を納得させた。



 ◇◇◇


 結婚してから二年後────

 リエタがずっと恐れていた知らせが届いた。

 成人したイヴェルノの弟キオンと、レンティが結婚するという知らせが…………



 あの日と同じ神殿で、純白のドレスを纏い、少し逞しくなったキオンの隣に並ぶレンティ。


(見てはいけない……決して……決して)


 あの知らせが届いた時から、そう繰り返し繰り返し心に留めていた。それなのに……

 怯えながらもつい夫の顔を覗いてしまったのは、二年という月日が育んだ、僅かな期待と妻の矜持からだろうか。


 結果、リエタは激しく後悔する。

 そこにあったのは、いつものガラス玉などではなく、美しいサファイアの瞳。

 遠いレンティを映し、あの日と全く変わらぬ恋情が、きらきらと波打っていたからだ。


(どうして見てしまったのだろう。どうして……)


 必死に掴んでいた、夫の小さな小さな欠片。それさえも簡単に自分をすり抜け、レンティの元へと向かってしまう。

 空っぽになった彼女の胸には、嫉妬という愚かな感情が渦巻き、昏い奈落の底へと引きずり込んでいった。




 キオンとレンティが結婚する。

 本当に永遠に手の届かない所へ行ってしまう。


 覚悟していたはずの未来に直面したイヴェルノは、その現実に耐えることが出来なかった。完全に抜け殻になった夫に対し、リエタからも黒い感情以外の全てが消えていく。

 夫婦生活も互いに上手くいかないことが多くなり、どちらからともなく別の寝室を使うようになった。



 今では当たり前のように自室へ運ばれる一人分の食事。今夜もリエタは、ほとんど手を付けていない皿をテーブルの端に押しやり、戸棚から出したワイン瓶をグラスへ傾けた。

 あっという間に空にし、新しい瓶を取りに行こうと立った時、時の止まったカレンダーが視界に入る。


(最後に見たのはいつだろう……)


 急に押し寄せる激情。リエタはそれを乱暴に掴むと、思いきり屑篭に叩き入れた。バラバラになった数字を見下ろしながら、その場にヘタリと座り込む。


(乗馬ばかりしていたから? 仕事で不規則な生活をしていたから? 食生活もあんなに気を付けていたのにどうして……)


 どっと涙が溢れるのと、絨毯へ顔を押し付けたのは同時だった。父が外国から取り寄せた上等な毛は、止むことのない哀しみを全て吸い込んでくれる。

 リエタは唇を強く噛み、悲鳴を押し殺しながら泣き続けた。



 ◇


 用がない限りは、顔を合わせることもなくなった夫婦。そんなすれ違いの生活が半年程続いたある朝、馬車に乗り込もうとするリエタを、ハリーフがすっと手で制した。


「……何?」


 痩せた血色の悪い顔と、微かに漂うアルコールの香り。ハリーフは固く結んでいた口を開く。


「護衛の分を超えていることは承知の上で申し上げますが……ご気分が優れないのではありませんか?」


「……大丈夫よ。少し寝不足なだけ」


 目を合わさずにそう答えるリエタ。馬車へと足を踏み入れようとするものの、再びハリーフがそれを制する。


「医師の診断は受けられていますか? 大分お痩せになられましたし、一度ゆっくり静養なさった方が」


「大丈夫だと言っているでしょう? 今日は大事な予定があるのだから、足止めしないでちょうだい」


 仕方なしに下ろされるハリーフの手。リエタが椅子に座ったのを確認し、扉を閉めかけるも────

 激しく咳き込み、何かを吐き出す様子に、ハリーフは慌てて車内に飛び込む。

 彼女に似合わぬ淡い空色のドレスは、口を覆う手から滴るもので赤黒く染まっていた。




 医師の診断結果は、ストレスと食生活の乱れによる重い胃潰瘍だった。

 治療の為、しばしの静養を言い渡されたリエタは、ぼんやりと高い天井を見上げる。


(……紅葉が見たいわ。花でも緑の葉でもなくて……秋の色が見たい)


 何度もハリーフが創ってくれたはずの色は、色褪せていてよく思い出せない。熱くなる目をギュッと瞑った時、メイドが一通の手紙を手に、慌てた様子で部屋に入ってきた。



『レンティ様が、流産による出血で危険な状態』



 その内容に、胃がギュウと痛み脂汗が垂れるも、リエタは驚く程冷静に指示を出した。


「旦那様は今日、一日工場にいらっしゃるはずだからすぐにお知らせして。私は行けないから、お一人で向かわれるようにと」


「……奥様は」


「余計なことは言わなくていいわ。多分、何も訊かれないでしょうから」



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