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6 抜け殻だったと気付いても

 

 ◇


 その夜、花嫁の肌に触れるイヴェルノの顔からは、もう笑みすらも消えていた。夫婦の営みとはこんなに浅く薄いものだったのかと、リエタは必要最低限の愛撫を受け入れながら思う。覚悟していた痛みすらも、どこかぼやけていて……熱に浮かされることも情に酔うこともないまま、冷静に全てを終えていた。

 丁寧に、淡々と後始末をした後は、背を向けて眠ってしまう夫。思わず伸ばした手を、リエタは力なくシーツの上に落とした。


(……隣で寝てくれるだけ親切だわ)


 そう自分に言い聞かせ、泣きたくなるのを必死に堪える。


(イヴェルノ様が私に優しかったのは、私を好きだったからじゃない。あの時彼女に見せた怒りや、瞳の揺らぎこそが真実の愛だったのよ。もっと早くに気付いていたら……もっと彼をよく見ていたら……)


 イヴェルノの心は、レンティの元にある。

 結婚したのは、彼の抜け殻だったと気付いても────


 もう、後戻りは出来ない。




 翌朝、カーテンを貫通する眩しい陽に、リエタは顔をしかめる。気だるい身体を起こすと、既に隣に夫の姿はなかった。抱き締め合って朝を迎える……もしそんな恋愛小説を読んでいたなら、リエタはきっと絶望していたことだろう。


 夫婦の寝室にメイドを呼ぶのも何となく気が引けて、重い腰に力を入れながら、簡単に身支度を整える。枯れ葉が舞う肌寒い晩秋。冷たい水で顔を洗った為に、背筋がぶるりと震えた。


 廊下へ出ると、リエタの姿を見たメイド達は驚き、「呼んでくだされば御支度を手伝いましたのに」と慌て出す。


「…… “ 旦那様 ” は?」


 式を挙げ、身体を一度重ねただけで、そう呼んでいいものか。リエタは一瞬躊躇うも、この新しい屋敷の女主人としては、それが適切だと判断した。


「執務室にいらっしゃいます。お嬢さ……奥様はゆっくり寝かせて差し上げるようにと」

「……そう」

「すぐに朝食の用意を致しますね」


 食堂に飛んで行くメイドや、リエタの肩にカーディガンを掛けるメイド。二人の新居となるアークレン家の離れの屋敷は、一気に慌ただしくなった。……静穏な新婚夫婦を置き去りに。



 食堂にやって来たイヴェルノは、上等なチェスターコートを着込み、襟元にはキッチリとクラヴァットまで締めている。部屋着にカーディガンを羽織っただけのリエタとは違い、今すぐにでも外出出来る装いだ。ほんの数時間前まで素肌を曝け出していたとは思えぬ距離感が、冷たい風となり二人の間をすうと抜ける。暖炉の炎がゆらめく部屋は、出逢った季節のように暖かいのに。


「……お身体は辛くありませんか?」


 夫の気遣いの言葉に、胸がほんのり熱くなるも、その瞳を見てすぐに我に返った。


「はい、問題ございません。お気遣いありがとうございます」


 淑女らしく、慎ましく答えられただろうか。

「ご無理はなさらないでください」と穏やかな言葉をくれる夫に、とりあえずこれでよかったのだとリエタは思う。



 華やかな朝食が並ぶ食卓とは反対に、そこに向かい合う新婚夫婦は、視線も会話も交えることなく、ただ黙々とフォークを動かしている。美しい所作で、淡々と養分を口に運び続ける夫を、リエタは時々覗き見た。


(あの形の良い唇や、あの長い指が自分に触れたなんて……とても信じられないわ。羽みたいにくすぐったかったのは、あの艶やかなシルバーブロンドの髪かしら)


 なるべく彼に触れないようにとシーツを握り締めていたリエタには、夕べの行為が全て幻に思えた。心の方は酷く曖昧だが、身体に意識をやれば、芯にはしっかりと記憶が刻まれている。


(もう昼近くだというのに、私が起きるのを待って一緒に朝食を摂ってくれた。愛はなくても、気遣いの言葉だってくれた。思いやりと尊敬の念を持ち、信頼関係を築ければ……いつか、私達なりの夫婦の形に出会えるかもしれない)


 給仕が食後のお茶を注ぎ食堂を出て行くと、リエタは精一杯笑顔をつくり、空虚な青い瞳を見つめた。


「……旦那様 」


 控えめに呼び掛けると、イヴェルノはティーカップから顔を上げる。確かに目は合っているものの、やはりそこには何も通わない。思わず落胆しそうになるが、リエタは明るく話を続けた。


「もうこんな時間ですから、今日は新居でゆっくりするとして……明日以降はどうしましょうか? お互い何かと忙しい身なので、本格的な新婚旅行は難しいかもしれませんが、少し遠出をするくらいなら出来ると思いまして。たとえば……首都はいかがでしょうか? 先日支店の内装工事を終えた所なので、確認がてら一緒に観光を楽しみませんか? 街ではちょうど秋祭りが行われるそうですし、去年出来たばかりの王宮が一望出来るホテルに泊まるのも……」


「リエタ嬢」


 結婚前と変わらぬ他人行儀な呼び方に、リエタは口をつぐむ。名を呼ばれるだけでときめく胸を抑えたのは、ついこの間のことではなかったか。


(人間というのは、愚かで欲張りなものね)


 夫になったはずの人をじっと見つめていると、冷たい唇が薄く開き、あの掠れた声が漏れた。


「申し訳ありませんが……雨季に備えて、一刻も早く堤防の工事に取り掛かりたいので。遠出はしばらく遠慮させていただきます。出来れば今日も、業者と着工前の打ち合わせをしたいと考えておりまして。……外出をお許しいただけるならですが」



 許して……はいけないのだろう。

 使用人達の手間、せめて結ばれた翌日くらい、夫婦は一緒に居るべきだとリエタは思う。その一方、自分に許可を求める夫の表情かおは、陸に上がった魚のように苦し気で。そとへ逃して、呼吸をさせてやらねばいけないと思ってしまった。


「……分かりました。領地のことが色々落ち着いて、また機会がありましたら、何処かへ行きましょうね。今日もどうぞご自由になさってください。あ、でも夕飯までにはお戻りくださいね。きっとシェフが、私達の為に腕を振るってくれると思いますので」


「ありがとうございます。……翌日に申し訳ありません」


「いえ、土地と民は財産ですから。今は何よりも優先なさってください。……あと、貴方は私の夫であり、この屋敷の主人です。何をするにも、『許可』を取る必要はありません。大事なことは、夫婦で話し合って決めていきましょう」


「……はい」


「それと、妻に敬語を使う必要もありません。どうか……リエタとお呼びください」



 柔らかな淑女でも、初々しい新妻でもない。これでは商談をする時となんら変わらないじゃないかと、リエタは自嘲する。


(きっとあの人なら、夫に対してこんな可愛げのない物言いはしないのだろう)


 春の陽のように、優しく愛らしい夫の想い人。

 自分と比べては落ちていきそうな心を、苦い紅茶ごと呑み込んだ。



 ◇


 馬車に乗り込み、新居からもアークレン家の敷地からも離れると、イヴェルノは漸く呼吸いきが出来た気がしていた。

 別に打ち合わせなど今日でなくてもよかった。ただ、どうしても一人になりなかっただけなのだから。恐らくそれを分かった上で解放してくれた妻に対し、さっきまでは罪悪感に苛まれていたものの……こうして楽になった今では、それもすっかり薄れてきていた。


(最低だな、俺は)


 誰も見ていない所でも、いつも姿勢を正すようにと教育されてきたイヴェルノ。今はだらしなく背もたれに寄り掛かり、深く息を吐く。



(……一応、務めは果たせてよかった)


 心は伴わなくとも、身体は本能に従ってくれたことにイヴェルノは安堵する。その弊害か……初めて抱いた女の肌の感触も、ささやかな嬌声も。酷く曖昧でぼやけており、表情に至っては全く思い出すことが出来ない。


(こんな気持ちで女性の純潔を散らしたことを申し訳なく思うが……“ 無 ” にならなければ、きっと最後まで果たすことは出来なかっただろう。子供を儲けることは、婿養子である自分に課せられた義務なのだから)


 もし子供を二人授かれば、どちらかをモーリー伯爵家の養子に迎え跡を継がせると、両家の間で約束している。昔より丈夫になったとはいえ、16にしては線も細く弱々しい弟のキオンが、子を儲けられるのかと懸念していたからだ。



『どうかお幸せに』


 レンティの口からその言葉を聞いた時、イヴェルノは初めて自覚した。

 義妹なんかではなく、一人の女性として彼女を愛していたことに。


(何故今更気付いてしまったのだろう。もっと早くに気付いていたら……もっと自分の心に向き合っていたなら……)


 そこまで考えて、力なく首を振る。


(気付いていたとしても、自分はきっと同じ選択をした。キオンの狭い世界からレンティを奪うことなど、自分には決して出来ないのだから。もしそんなことをすれば……キオンの心身は忽ち壊れてしまう。レンティだって、自分を責め苦しむことになるだろう)


 これでよかったのだと、イヴェルノは震える手の甲で顔を覆う。

 光を遮断された昏い視界に浮かぶのは、雨空のような薄灰の瞳。高くてうるさいくせに心地好い声や、ふわりと漂う綿菓子みたいな甘い香りも。

 どんなに固く瞼を閉じても、耳や鼻を塞いでも、レンティの記憶からは逃れられない。



 自分の心は、レンティの元にある。

 リエタと結婚したのは、抜け殻だったと気付いても────


 もう、後戻りしてはいけない。


 今まで通り上手く微笑わらって、円満な結婚生活を築いていくしかないのだ。


 イヴェルノはそっと手を下ろし、青いガラス玉を陽に曝す。あまりの刺激に瞬けば、涙が一筋、気付かれぬまま頬を伝った。



 ◇


 華やかなコーラルピンクの外出着に身を包んだリエタは、鏡の前で全身を眺める。


(これだけ着飾ったら、結婚翌日で夫に放置された可哀想な花嫁には見えないわよね)


 普段は着けないイヤリングを指でピンと弾くと、護衛兵の為に設けられた鍛練場へ向かう為、庭へ出る。

 家でじっとしていたら、考えたくないことまで考えてしまう。ならば自分も仕事をしようと、店の在庫を保管する倉庫へ向かうことにした。

 元々人の目や世間体を気にする質ではない。堂々としていればいいのよ、とリエタは自分を鼓舞する。


 ただ……外出するには、護衛兵に付いて来てもらわなければならない。そして昨日からリエタの専属となったのは、あのハリーフだ。

 結婚式と初夜を経ても、妻だと胸を張ることの出来ぬ、情けない自分を見られたくなかった。母屋から他の兵を手配することも考えたが、さすがに両親から小言を言われるだろうと思えば、それはそれで気が重い。悩んだ末、結局ハリーフに頼んだ方がいいと決断したのだ。


 部屋には居ないとメイドから聞いていた為、きっと鍛練場ここだろうと覗いたガラス戸の奥。予想通り、椅子に座って剣を拭くハリーフの姿があった。


「ハリーフ!」


 リエタの声に立ち上がり、大股でやって来るその顔は、俊敏な動きに反してどことなく覇気がない。目の下のクマのせいかしらと考えながら、リエタは手短に用件を話した。


「倉庫に行きたいんだけど、付いて来てくれるかしら」


 みるみる険しくなるハリーフの表情。リエタは当然だと頷きながら眉を下げた。


「昨日も一日中働かせてしまったのに……ごめんなさいね。申し訳ないのだけど、どうしても在庫を確認したくて」


「まさか、仕事をするんですか? ……お一人で?」


 リエタはぐっと身構える。哀れまれたくない……その一心で明るく答えた。


「ええ、そうよ。もうすぐ在庫処分市をやるのだけど、いいアイデアが浮かんでしまって、居ても立っても居られないの。旦那様もお仕事があるし丁度……」


「冗談だろ」


 そう吐き捨てたハリーフの表情かおは、激しい怒りに歪んでいた。



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