5 本当の色
◇
「……母上に言われたのか?」
レンティの火傷を手当てしながら、イヴェルノは出来るだけ冷静に問う。それでも真っ赤に腫れた痛々しい肌を見れば、つい口調が強くなってしまい、レンティは涙混じりの声で答えた。
「いえ……お茶を淹れて欲しいとは頼まれましたが、直接お持ちしたいと申し出たのは私です」
「何故そんなことを?」
「……分かりません。お茶を運びながら、私もどうしてだろうと考えていました。お嬢様には絶対にお会いしたくなかったのに、何で自分からわざわざ会いに行こうとしているのかって」
感情が高ぶったのか、ぶるりと肩を震わせるレンティに、イヴェルノは何も言わず耳を傾ける。
「私の淹れたお茶を気に入ってくださるか、それを確認したいからだと思おうとしました。でも、多分、違うと思います。本当は……お嬢様を見て、諦めたかったのだと思います。イヴェルノ様を遠くに連れて行ってしまうのは、こんなに素敵なお嬢様なんだって。そうしたら……本当に、本当に素敵なお嬢様でした。比べたら自分は、お茶を淹れることくらいしか取り柄がなくて……それすらも失敗してしまって。だからもう、本当に諦めなきゃいけな……」
わあと泣き出す前に、イヴェルノは彼女を胸に抱き締めていた。
血の繋がりなどほとんどないのに、こんなにも自分を想い慕ってくれているレンティ。この小さく優しい温もりを、ずっと腕の中に留めておけたらと願ってしまう。込み上げるその愛しさは、とっくに義妹へのものなんかではないのに。
当たり前だと思っていた日常は、当たり前に変化していく。傍で見続けている内に、見慣れた景色はいつの間にか、全く別の色になっているのだ。
まだそのことに気付かぬイヴェルノは、相変わらず “ 義兄 ” のまま、幼い春景色を眺めていた。
◇◇◇
モーリー伯爵邸での一件があってから数日後、リエタは父から、あることを告げられた。
伯爵家には、17歳の令嬢が一人居る。夫人の遠縁に当たる彼女は、7歳の時に両親を亡くした為、伯爵夫妻に引き取られた。今や伯爵家にとっては家族も同然の存在だが、正式な養女にはしていない。それはいずれ、兄弟のどちらかと結婚させようとしていたからだろう……という話だった。
“ 兄弟のどちらかと ”
その言葉に顔色を変えるリエタに、父はおおらかに言う。
「なに、彼は家の婿になるのだから、いずれ襲爵する弟の方と結婚させるつもりだろう。その令嬢ともいずれ親戚になるのなら、一応伝えておいた方がいいと思っただけだ」
「そうですか」と一言だけ答えたリエタが思い出していたのは、先日お茶を溢したあの少女だった。きっと彼女がその令嬢だ……そう直感が働くと同時に、何故か言い様のない不安に襲われる。
(あんなに怒ったイヴェルノ様を初めて見たせいかしら)
考えても考えても、結局不安の正体は分からず、毎夜彼の優しい微笑みを思い浮かべては眠りに就いた。
二人の交際はその後も順調に進んでいくが、リエタはイヴェルノから令嬢の話を聞くことも、また自ら訊く勇気もなかった。
(もう何度も会っているのに……家族同然の存在なら、自然と話題に上がってもいいのではないかしら。むしろ……大切に囲って、触れないようにしている?)
掴み所のない不安は、広がるのではなく、同じ場所に黒い影を落としていく。
(正式な養女ではないから……きっと話す必要もないと思っているだけよ)
リエタがそう自分に言い聞かせている内に、両家はついに二人を婚約させ、結婚式の日取りまで決めてしまった。
(大丈夫……彼は私のことを好いてくれているわ。始まりはお金の為だったとしても、私に好意があるから、結婚を決めてくれたのだ。
だって……私にだけはこんなに優しいもの。いつも優しく笑ってくれるもの。恋愛小説も詩もよく分からないけれど、お姫様を愛する王子様は、こんな風に優しいものなんでしょう?)
初めて抱いた眩い恋心は、不安の影をすっぽりと覆ってしまう。
リエタには何も見えていなかった。
見たいものしか見えていなかった。
◇◇◇
結婚式まで一ヶ月を切ったある日、ハリーフが突如アークレン家にやって来た。彼が護衛以外でこうして訪ねて来るのは久々のことで、嬉しい反面、リエタは妙に緊張する。
以前と変わらぬ軽い挨拶を交わすと、半年前、初めて縁談の話をしたあの木の下に、二人並んで腰を下ろした。さわさわと鳴る葉音に枝を見上げれば、あの時緑だった若葉は、橙色から朱へと鮮やかに色を変えつつある。
「綺麗だわ」と、本物の紅葉をぼんやり眺めるリエタの焦茶の瞳。その輝きにしばし見惚れた後、ハリーフはポツリと呟いた。
「辞退したんだ。王宮騎士」
「……え?」
きっと葉音のせいで聞き間違えたのだろうと、リエタはハリーフに向き直る。
「俺は王宮騎士にはならない。辞退したんだよ。だから、首都へも行かない」
繰り返される言葉に、やはり聞き間違いではなかったとリエタは驚愕する。
「どうし……どうして? あんなに努力して試験に受かったんじゃない! 辞退なんて、どうして」
「面倒になったんだ。わざわざ戦で命を危険に晒さなくても、商家の奥様の護衛になれば充分食べていけるし」
「……それって、まさか」
「ああ。お前の護衛になってやるよ。頼もしいだろう? 給金、弾んでくれよな」
軽い調子で力こぶを作る彼に、リエタはあり得ないと首を振る。
「何を言っているの? あなた程の実力のある人が、私なんかの護衛なんて……。防衛課に入って、出世したいって言ってたじゃないの」
「お前が言ったんじゃないか。 万一戦が起こったら心配だって」
「それはそうだけど……でも、私の護衛をしても、爵位は手に入らないのよ?」
ハリーフは眉を下げ、ふっと哀しげに笑う。
「いいんだ……爵位なんか……もう要らない」
どうして? と出掛かった言葉は、強い風がざわざわと枝を揺すった為に、喉の奥に消えてしまう。戸惑うリエタを映し、激しく揺れるハリーフの黒い瞳。彼のその口元は、キュッと固く結ばれている。
……何か言えない事情があるのだろう。長年の付き合いから、彼の決意が固いことを察したリエタは、それ以上深くは追及しなかった。
(だけど、もし本当に私の護衛になってくれるなら……これだけは確認しておかなくちゃ)
風が止んだタイミングで、リエタは勇気を振り絞った。
「ハリーフ、貴方はイヴェルノ様のことをよく思っていないのでしょう? 私の護衛をするということは、彼が貴方の主にもなる訳だけど……大丈夫なの?」
するとハリーフは、一層哀しい顔でこう答える。
「よく思っていない訳じゃない。好きか嫌いかで言えば嫌いだけど」
「ハリーフ……」
「当たり前だろう? 可愛い妹を拐っていくんだから。はいどうぞなんて、すんなり差し出す兄がどこに居る。まあ、簡単に言えば嫉妬だよ、嫉妬」
妹……兄……嫉妬。
そのどれにもピンとこないリエタは、更に問い詰める。
「でも、前に言ったじゃない。イヴェルノ様の目はガラス玉みたいだって。私への感情が宿ることはない気がするって。それは……彼と結婚しても幸せにはなれないと、そう言いたかったのでしょう? 何ヵ月か見定めた結果、結局彼に抱く印象は変わっていないんじゃないの?」
ハリーフは瞬いた目を微かに伏せると、再びリエタを見据えてこう言った。
「嫉妬であんなことを言っただけだよ……ごめん。だから、気にしないでいい」
でも……と食い下がろうとするリエタの唇に、ハリーフは人差し指を押し当てる。
十六年間共に過ごして、初めて触れた彼女の唇。柔らかくて温かくて……指ですらこんなに感動するのに、口づけたらどうなってしまうのだろうと、ハリーフの胸は震える。……永遠にそんな日は来ない。そう分かっているのに。
人の気も知らず、尚も開こうとする唇を指でギュッとつまみ、ハリーフは投げやりに言う。
「お前は彼を愛しているんだろ? なら、それでいいんだよ」
“ 愛して ”
その言葉は、イヴェルノへの想いを真っ直ぐ反射し、リエタの胸を熱くさせる。頭上の葉よりも赤く染まっていく頬。それを見て、もう本当にどうにもならないと悟ったハリーフは、くしゃりと顔を歪ませた。
「愛して……愛し抜いて、幸せにしてやればいい。そうすればきっと、お前も愛されて幸せになるはずだ」
「……本当に?」
「ああ。俺が責任を持って、傍で見届けるよ」
ハリーフはリエタを見つめたまま手を高く伸ばし、橙色や朱い葉を、緑の若葉に移していった。
もう一度あの日に戻りたい……戻ってもどうにもならないなら、いっそ時を止めてしまいたい。そんな馬鹿げたことを考えながら、彼は精一杯微笑った。
◇◇◇
秋晴れに輝く、厳かな神殿。
白い礼服を着てリエタの前に立つイヴェルノは、どこから見ても王子そのものだ。白いドレス姿のリエタを見て、「綺麗ですね」と微笑んではくれるが……その瞳の奥には、なんの表情も見えない。
“ ガラス玉 ”
ハリーフのその表現が、今更しっくりくる。
留まっていた不安の影が一気に広がっていき、リエタはつい訊いてはいけないことを訊いてしまった。
「本当に私と結婚してもよろしいのですか?」
……一瞬、イヴェルノの顔は生気のない彫像のようになるも、すぐにいつもの微笑みに戻った。
「当たり前じゃないですか。でなければ、今こうして、私は此処には居ませんよ」
その声はもう、優雅な湖などではない。干上がってひび割れた底のように、酷く掠れていた。
神官の前で向き合う二人。この式を終えれば、本当に夫婦になってしまう。
一番胸がときめく瞬間であるはずなのに、さっきのイヴェルノの声がずっと耳に残り、リエタは祈祷に集中することが出来ない。そんな彼女の視界の端に、ふとあの令嬢が映った。親族席から離れた場所に遠慮がちに座るその姿は、地味なドレスにも拘わらず、参列者の中で一番輝いて見える。
(……私よりもずっと綺麗じゃないの)
リエタはやっと気付く。平凡だと思っていた少女は、本物のお姫様だったということに。
絶望でも憎しみでも何でもいい。ほんの一欠片でも自分に向けて欲しいと、リエタは青いガラス玉の奥に、必死に彼の表情を探す。だが、それはどこまでも空っぽで、どこまでも虚しかった。
神に愛を誓う、その時でさえも────
「どうかお幸せに」
雨空のように切ない薄灰の瞳と、サファイアの瞳が向かい合う。溢れる程に波打つ青は、彼の恋情をきらきらと反射させ、どこまでも深く輝いている。
初めて見たイヴェルノの本当の色。
きっと自分には、永遠に向けられることのない色。
眩しい王子と姫を、リエタは独り、濃い霧の中から眺めていた。
そんな哀れなリエタを、ハリーフは霧の遥か向こうから眺めていた。