4 哀れなのは
「どう……とは?」
一瞬で重くなった空気。レンティは怯むも、責任を持って問いを重ねる。
「お嬢様のお店を見て、外でお食事されたのでしょう? その……沢山お話しされましたか?」
少しの間の後、イヴェルノは普段よりも低い声で答えた。
「……ああ、そうだな。やり手と評判の商家の跡取りにしては、先日は大人しすぎて。名ばかりの経営者かと疑っていたが、彼女はちゃんと有能な人だったよ。頭の回転が速いのはもちろん、先見の明があり、それを商品に活かす才もある。色々と学ばせてもらえたし、非常に有意義な時間だった」
それはまるで業務報告のように、淡々とした口調で語られる。イヴェルノが縁談相手と過ごした今日の一時は、レンティが想像していた男女の “ デート ” とはかけ離れていて。ついホッとしてしまい、湧き上がる罪悪感の中、なんとか一言だけ口にした。
「よかった……ですね」
余計に重くなる空気に、この言葉は正解ではなかった、ではどう答えたらよかったのかと、レンティは思考を巡らせる。
押し黙る二人。昏い傘の下には、雨が布を打つ音だけが不規則に響いていた。
( 『よかった』 か……確かによかったかもしれないな。もし縁談相手から愛だの恋だのを仄めかされていたら、自分は忽ちその場から逃げ出していただろうから)
リエタというあの女性がどんな顔をしていたか、イヴェルノは全く思い出せない。顔だけでなく、声も仕草も何もかも。こんなことで、たとえ結婚したとして上手くいくのだろうかと疑問に思っていたが、今日のやり取りで、向こうも自分を政略結婚の相手としてしか見ていないことが分かり、幾らか気持ちが軽くなっていた。
それでもレンティの口から、『よかった』などとは聞きたくなかった気がする。では何と言われたら満足だったのかと自分に問うも、答えは出ない。
鈍いレンティが自覚しているものと、聡いイヴェルノが自覚していないもの。
どちらの想いも大気が巻き上げ、激しい雨粒となって傘を殴った。
◇◇◇
それから二週間後、伯爵夫人とイヴェルノ母子をアークレン家の屋敷に招くという三回目の約束も、問題なく果たされた。
モーリー伯爵邸にも劣らぬ、アークレン家の広大な敷地。外からは見えない裏の部分ですら、伯爵邸の “ 見える部分 ” よりも手入れが行き届いていることに、母子は両家の財力の差をまざまざと感じていた。……この政略結婚において、実質どちらの立場が上であるかも。
事業の話を中心に和やかな時を過ごし、四回目になる次の約束は、再びモーリー伯爵邸に招待された。
伯爵家の馬車を見送るアークレン一家。遠ざかってもまだそちらをぼんやりと見つめているリエタに、父はニマニマと笑いながら言った。
「この調子だと、挙式は秋頃になるかな」
何の式? と考え、すぐに理解したリエタは真っ赤な顔で叫ぶ。
「そんな……! いくらなんでも秋なんて早すぎます! あちらのお気持ちもあるのに」
「むしろあちらが乗り気なんじゃないか。こっちの気が変わる前に、早く縁を結びたいのだろうよ」
「それは……もしそうなら有り難い……ですけれど」
消え入りそうな声で呟くリエタ。父はハハッと豪快に笑いながら、娘の朱い頭に手を置いた。
「お前のそんな娘らしい姿を見られる日が来るとは……なかなか可愛いじゃないか」
念入りに整えた髪をぐしゃぐしゃにされ、リエタは頬を膨らませる。
「もうっ、からかわないでください!」
「そうかそうか、ついに私のじゃじゃ馬が花嫁になるとは」
「ドレスは最高級のシルクで仕立てませんとね。アクセサリーもドレスに合わせて……ああ、色々忙しくなりますわ」
母までもが嬉しそうに加わり、リエタはもう何も言えなくなってしまった。
腕を組み、娘の結婚話に花を咲かせながら、前を歩く両親。仲睦まじいその後ろ姿に、自分とイヴェルノを重ねてしまい、頬はますます熱くなっていく。
(勝手に妄想したりして、私もお父様達と変わらないじゃない。だけど……今日もあんなに優しい顔で微笑んでくださったんだもの。少しは私に好意を抱いてくださっているのだと、期待してもいいのかしら)
ならばもっともっと好きになってもらいたい。彼に釣り合うような立派な淑女にならねば。そう決意するリエタの鼻腔を、青葉の香りがくすぐる。ふと足を止め、風にざわざわと揺れる草木を見つめている内に、目は勝手に見慣れた姿を探して、辺りを彷徨ってしまう。
(いやだわ、今日はハリーフは居ないのに。お蔭で監視されずに済んだじゃないの)
前回、外でイヴェルノと会った後、ハリーフは特に何も言わなかった。口を固く結んだあの表情で、リエタをじっと見つめるばかりで。
言わないのだったら、あえて訊かない。そんな顔も見たくないとそっぽを向くリエタに、彼は静かに言った。
『また外出する時には日程を教えてくれ。護衛するから』
もう付いて来なくていい。そう言いたいのに、頭にポンと優しい手を置かれてしまえば、リエタは黙って頷くしか出来なくなってしまった。
それ以来、ハリーフとは一度も会っていない。
幼い頃からずっとくっついていたけれど、リエタにとってハリーフは、ただの幼なじみで、親友で、兄のような存在というだけだ。
お互い誰かと結婚すれば自然と離れていくし、そもそもハリーフが王宮騎士になって首都に行ったら、長期休み以外は会えなくなるだろう。
(もしイヴェルノ様と結婚するとしたら……私達の式とハリーフの出立が、丁度同じ時期になりそうだわ)
当たり前だと思っていた日常は、当たり前に変化していく。新しい色に目を奪われている内に、見慣れた色はいつの間にか姿を消してしまうのだ。
まだそのことに気付かぬ幼いリエタは、相変わらず胸をもやりとさせながら、夕陽色の木葉を見上げた。
◇◇◇
翌週、モーリー伯爵邸を訪れたリエタは、応接室のテラスでイヴェルノとお茶を飲んでいた。
『きっと長くなるでしょうから、どこかで休んでいてちょうだい』と言ったにも拘わらず、ハリーフは『仕事ですから』と律儀に扉の外に立っている。
(王宮騎士になる程の人を、意味もなく立たせておくなんて……無駄遣いもいいところだわ)
落ち着かないというよりも、段々と申し訳ない気持ちになり、次こそは断らなければとリエタは思う。
今日を含め、イヴェルノとこれまでに四回会ったリエタは、彼について新たに分かったことがあった。
彼はリエタに対しては常に優しく、親切で紳士的だが、母である伯爵夫人や使用人と話す時には、その美しい顔からすっと笑みが消える。
自分にだけ特別に優しい顔を向ける彼。やはり好意を抱いてくれているからなのだろうと、ますます勘違いしてしまっていた。
伯爵家の何日分かの食費を削り、捻出した予算で整えられたテーブル。何種類ものスイーツや果物で埋めつくされているというのに、リエタは胸が一杯でほとんど手を付けることが出来ない。ケーキを一匙口に入れては、午後の柔らかな陽にきらめくサファイアをうっとりと見つめ、またほんの一匙掬って。こんな調子だから、折角の紅茶も全て飲み終わる前に冷めきってしまう。リエタがハッと意識をカップへ向け、冷たい縁へ口を付けた時、小さなノックの音が響いた。
「失礼致します」
トレイを手にこちらへ近付いて来るのは、平凡な顔立ちの一人の少女。エプロンは締めているが、着ているワンピースはメイドの制服とは違う。どこかぎこちないその様子から、メイド見習いの子かしらとリエタは温かな目を向けた。
白い華奢な手でティーポットを持ち、新しいカップへと黄金色の茶を注いでいく。カモミールだろうか……立ち昇る優しい香りに、ふとイヴェルノを見たリエタは、その表情に驚き固まった。
今までに見たことがない程冷たく、怒りに満ちた視線が、懸命に茶を注ぐ少女へと向けられている。少女もそれを感じているのか……とうとう手が震え出し、カップからお茶を溢れさせ、テーブルクロスを濡らしてしまった。彼は立ち上がり、鋭い目で少女を見下ろす。
「……何故お前がこんなことをしているんだ」
怒気を孕んだ低い声に、リエタの背筋もぶるりと震える。
「すみません……あの……お茶を……お嬢様に私のお茶を召し上がっていただきたくて」
「……それで? 危うくリエタ嬢に火傷を負わせるところだったと?」
少女の顔はみるみる青ざめ、薄灰の大きな瞳には涙が溜まっていく。
メイド見習いが、許可も得ずに勝手に客の前に出てしまったのだろうか。「申し訳ありませんでした」と肩を震わせる姿に、リエタは気の毒になる。
エプロンを握り締める少女の手を見れば、左の甲だけが赤くなっている。お茶が掛かったのだろうと、リエタは慌ててハンカチを取り出すも、それは使われることはなかった。「少し失礼します」と頭を下げたイヴェルノが、少女の腕を掴み応接室を出て行ってしまったからだ。
(客の前で粗相をしたせいで、あんなに怒られて。メイド長に告げ口されてしまうのかしら……可哀想に)
リエタはそのハンカチで濡れたカップを拭い、温かなカモミールティーをそっと口に含む。こくりと喉に流せば、優しい風味が全身を巡り、ほうと素晴らしい吐息になった。
(お茶もこんなに美味しいのだし、許してあげて欲しいわ)
そんな風に考えていた自分の方が、実はよほど哀れだったのだと、リエタは後に気付くことになる。
一人きりで飲んだそのお茶は、優しいのにどこか切ない味がした。