その12 真夜中の堀割で
(リジャールさん……!)
心の中で、そう衛兵の名を呼んだ次の瞬間、ファティマの意識は自分自身の体の中に戻っていた。
気絶状態から覚めた彼女の身体は、なんだか激しく上下に揺さぶられている。
体の前面になにやらとても固くて、それなのにどこか心地のよい温かさを感じた。
加えて頬に触れる、少しごわついているのに、何故だか不思議と肌触りの良く感じる髪の毛──。
ファティマは、夜の道を疾走する男に背負われていた。
気づいた瞬間、本能的に男の背中にしがみつく。
「気がつきましたか、ファティマさん」
些か息を切らせながら、彼女を背負うリジャールが訊いてきた。
「リ、リジャールさん……!」
ファティマの頬がなんだかひどく熱いのは、周囲にいる者が持つランタンの炎で照らされているせいだけではない。前を向いているリジャールに、真っ赤に染まった顔を見られなくて良かったと、ファティマはつくづく思った。
「あの、下ろしてください。自分で歩けますから……」
「すいません、ファティマさん……。立ち止まっている時間が惜しい」
慌てたように言ったファティマに、リジャールが走りながら応えた。
彼は今、オザンを殺した下手人を追っている。
エバンスが足止めをしてくれているはずだが、何しろ手練れの相手だから、召し捕り手は多ければ多いほどいいだろう。
ファティマを背負いながら走るリジャールは、周囲の衛兵や英雄神の神官たちに少しも後れを取ってはいなかった。彼らと同じような早さで走り続けている。
細身に見えるリジャールだが、けして痩せているわけではなく、むしろ鍛えられて引き締まった身体をしているのだ。ファティマ一人を背負って走るぐらいは、普通にできる程度に。
体を密着する形になったリジャールの、その服の下の逞しい筋肉をつい想像してしまい、またファティマの頬は赤く染まった。
「神妙にお縄にかかれ!」
前方から、エバンスの声が聞こえてきた。
オザンを殺した下手人──ベーラムを追い詰めているのだ。
本来であればその役目は、リジャールがするべきものである。最初にベーラムが怪しいと推理し、今夜の大捕物を計画したのは彼なのだから。
だが、意識が離れてぐったりとしているファティマの身体を放ってはおけぬと、リジャールはベーラムを捕らえる役目はエバンスに任せ、自身は彼女の身体を守る役を請け負ってくれたのだ。
ファティマの意識は、つい先程まで傀儡のウッドゴーレムの中にあった。
それは、このところの彼女が研究している魔術だ。ゴーレムの中に術者の意識を入れることで、より複雑で臨機応変な動きを可能とする。
この術を使えば、本来は人間が行けぬような場所でも、ゴーレムに意識を移して探りに行くことができる。そう──例えば、水門の下にある柵が壊れていないかどうかを見に行きたいときなどとか。
あのとき、衛兵隊に請われたファティマが使った術こそが、まさにこれであった。
錘を着けて沈めた木製の人形の中に自身の意識を移し、彼女は水門の柵や網に破損がないことを確認した。
水門の柵の点検を見学に来て、この術の存在を知ったリジャールは、このゴーレムを使って真犯人を罠にかけることを画策したのだ。彼は、犯人にとって都合の悪い情報を知りすぎた自分が、命を狙われるであろうことを予測していた。
そこで、逆に犯人を誘い出して自分を──彼に似せたウッドゴーレムを襲わせようとしたのである。もしもリジャールの推測通りに襲撃があれば、それこそがベーラムが犯人であるという何よりの証となる。
ファティマと共に『朽ち木の羽蟻亭』に入店したリジャールは、遅れて入ってきたエバンスに頼んで、密かに英雄神の神官や衛兵達を集めてもらった。
最初にファティマたちにこの計画を話したとき、彼は自分がゴーレムの中に意識を移して囮となるつもりだと言った。
犯人の一番の標的はリジャールであろうし、彼には”自身が殺害される疑似体験”という怖ろしい思いをファティマにさせたくはないという考えもあったようだ。
しかし残念ながら、ファティマのこの術は、今のところ術者以外の者の意識を傀儡に移すことができない。
だから──リジャールは渋ったが、結局はファティマが、衛兵の鎧兜を着せてリジャールに似せた木偶人形の中に意識を移し、囮として夜道を歩くことになったのである。
木偶人形をファティマではなくリジャールに似せたのは、ファティマについては命を狙われているかどうか確証がなかったからだ。彼女はそれほど重要な情報を知ってはいないだろうと、ベーラムが見逃す可能性もあった。
先程まで彼女が意識を宿していた人形は、びっしょりと全身を水に濡らして堀割の岸に横たわっている。
ベーラムとエバンスが対峙する堀の上の道に辿り着いたリジャールが、ようやくファティマを彼の背中から下ろしてくれた。
周囲の道には、すでに何人もの衛兵や英雄神の神官が集まってきており、手に持つランタンで向かい合う騎士と神官戦士を照らしている。
木偶人形の首に巻き付いたままの縄から手を離したベーラムが、立ち上がって腰に付けたもう一本の縄へと手を伸ばした。
リジャールが聞いてきた話によると、乗馬と投げ縄で名を馳せているベーラムであるが、剣の腕は騎士団でも中の上程度というところらしい。エバンスとは体格差もあるから、剣で切り結んではベーラムの方が不利だろう。それならば剣よりも、得意の武器で勝負した方が良いと騎士は判断したのだ。
一瞬の早業で、ベーラムがエバンスの首めがけて縄を投げつけた。
ヒュウンッ!
ファティマにも聞き覚えのある音。彼女の意識が傀儡の中に入っていたとき、首に縄が巻き付く寸前に聞いたのと同じ音だ。
エバンスの首に、錘の着いた縄が巻き付く。
残忍な笑みを浮かべたベーラムが、縄を持つ手に力を込める。
だが次の瞬間、
ボボボボボォォォッ──!!
ベーラムとエバンスの間を繋ぐ縄に、真っ赤な炎が灯った。エバンスの持つ魔剣の切っ先が触れたのだ。
リジャールが、ベーラムの捕らえ役にエバンスを指名したもう一つの理由がこれだった。可燃物である縄を得意武器とするベーラムは、炎の魔剣を持つエバンスとは相性が悪い。
縄が焼き切れ、引っ張る力のなくなった首の縄をエバンスが引きちぎるように外した。
「捨てないで! いい証拠になる!」リジャールが叫んだ。
縄自体はどこにでもあるのものだが、先端の錘はやや特殊な構造だ。木偶人形の首に巻き付いた縄と同じ物であると証明できれば、少なくともあの人形を水に落としたのはベーラムだという物的証拠になる。
リジャールの指示に従い、エバンスは外した縄を衛兵達の集まる方へと放り投げた。
「くっ……」
ちぎれた縄を手放しながら、ベーラムが一歩下がる。
油断なく剣を構えたエバンスが、ゆっくりと間を詰めようとする。
ベーラムの腰にある縄は残り一本。工夫もなく投げただけでは、いまと同じ事が起きるだけ。そのことは、ベーラムもよく分かっているだろう。
どこで、どのように使ってくるか──。
ベーラムの右手が動き、エバンスの顔に緊張が走る。
ブゥウンッ!
何かが宙を飛ぶ音がした。
先程の投げ縄とは、どこか違う音。
ベーラムが投げたのは、腰に差した騎士剣の方であった。
さすがにこれは意外だったようで、一瞬目を見開いたエバンスが、慌てて魔剣を振って飛んでくる騎士剣を払う。
その隙を突くように、ベーラムの身体が動いた。
堀の方へと。
バシャアァァン!!
水柱が上がる。
「しまった!」
慌てて水際へと駆け寄るエバンス。
リジャールも、上の道から堀の岸へと飛び降りている。
ランタンを持った者達が、慌ただしく動いて水面を照らした。
「どこだっ!?」
炎の魔剣を松明代わりに使いながら、エバンスが左右の水面に目をこらしている。
だが、ベーラムの姿はどこにも見当たらない。
身軽になるためだろう。騎士は、あらかじめどこかで鎧を脱いできていた。金属製の鎧を身に纏うエバンスと違い、ベーラムは水中でもかなり自由に動くことができる。一度深く沈んだあと、水底近くを堀のどちらかに進んだのだと思われた。
流れに身を任せて下流に行ったか、それともあえて上流に向かったのか──。
暗く濁った堀の水が、水中に没した騎士の身体を完全に隠してしまっている。
水辺に走り寄ったリジャールも、左右を見回しながら逡巡していた。彼は軽装だから、飛び込もうと思えば堀の中に飛び込むことはできる。
だが、何の当てもなく暗い水の中に入っても、得られる者は少ないだろう。
ランタンを持つ者達が二手に分かれ、ある者は堀の岸に、別の者は道の左右に走って水面を照らす。いずれ浮かび上がってくるであろうベーラムを探すためだ。
ファティマも、道の左右に目をこらし続けた。
光の魔術でも使って皆の探索を助けたいところだが、大きな魔術を使ったばかりの彼女には、今はほとんど魔力が残っていない。
ほぞを噛みながら堀の上流へと目を向けたとき、ぞくりとファティマの背筋に寒気が走った。
真っ直ぐと延びる堀の向こう。
その中心に、何かが立っているように思った。わずかだが、青みがかかった暗い光も見える。
漆黒の闇の中に輪郭だけが浮かぶその姿は、黒い馬であるように思えた。
ベーラムに堀の中に引きずり込まれる少し前、木偶人形の中に意識を入れていた彼女が見たのと同じ馬だ。
先程とは違い、その馬は彼女の方を見てはいなかった。
その顔は下に──足元の水面に向けられている。まるで、水中にいる獲物を襲う機会を窺っているかのように。
「リ……」
ファティマは口を開こうとした。
リジャールを含め、彼女以外は誰もあの馬の存在には気づいていないようだ。
震える唇を開きながら、彼女がリジャールの名前を呼ぼうとしたとき、ふっと馬の姿がかき消えた。
慌てて彼女は、馬のいた方へと走る。彼女の動きに気づいた衛兵の一人が、ランタンを持ってついてきてくれた。
馬がいたと思われる場所まで辿り着き、ランタンの明かりを頼りに彼女は堀割を見つめた。
しかし、暗闇に目をこらしてどんなに注意深く観察しても、もう黒い馬の姿はどこにも見当たらなかった。
水に潜ったか、異界に帰ってしまったのか──。
呆然とその場に立ち尽くしたまま、ファティマはじっと静かな黒い水面を見つめ続けていた。