その11 夜の街で
池の表面を覆っていた火が、全て消えた。
静かな水面の真ん中に、燃え残ったウォーター・リーパーの腹がぷかりと浮かんでいる。
その周りの水面下には、大きな黒い影が見えた。ファティマが水の性質を変えたのは水面の一部だけだから、普通の水に守られたその部分は、怪物の姿がそのまま沈んでいるのだろう。
今回の事件が魔物の仕業だとする、大きな証拠になるはずだ。
「ベーラム卿……」
視界の端に立つベーラムに、リジャールは話しかけた。
「あの死骸、どうやって引き上げましょう?」
手に持ったままの投げ縄のほうに一度目をやった後、ベーラムが首を横に振って答えた。
「この縄だけでは、難しいな」
怪物の所まで縄を投げることは可能だ。
だが、死骸に縄を巻き付けることが難しい。怪物の死骸は人間よりもはるかに身幅があるし、その大部分は水面下にあるから、投げた勢いだけでは上手く巻き付かせることができないのだ。
「応援を呼ぶしかないでしょうね……」
小さな池だが、深さはそれなりにあるようだった。誰かが怪物の所まで泳いでいくか、小舟でも使うか──。
「そうだな……」
答えたベーラムも、何やら思案げに怪物の死骸を見ている。
その横顔をしばらく見つめたあと、チラリと一度空を見上げてからリジャールは言った。
「ただ、アレを引き上げるのは明日にした方が良さそうですね」
太陽はすでに西の空にあった。まもなく夕方と言える時刻になる。これから応援を呼びに行き、事情を説明して必要な道具を揃えて戻ってきたら、引き上げ作業は夜になってしまうだろう。
「うむ……」
リジャールの言葉に、少し何かを考え込むような様子を見せつつベーラムが頷いた。
その騎士の背中を押すように、リジャールは言った。
「おれもちょっと……隊長への報告は明日にしたいんですよね」
以前にも彼は、魔物を退治する際に街中で炎を使って小火騒ぎを起こし、隊長から大目玉を食らったことがある。
今回も──近隣の家屋には何の被害もないとはいえ、大量の火を燃やしたことは事実だ。
できれば一晩かけて、上手い説明の仕方を考えたい──リジャールがそう言うと、ファティマが申し訳なさそうに目を伏せた。
「あなたのせいじゃありません」
そのファティマの傍に歩み寄りながら、リジャールは彼女に微笑みかけた。
「むしろ、ファティマさんには感謝しています。あなたのおかげで、怪物を退治することができた」
一つ間を置き、彼女の目がこちらに向けられたことを確認してから、リジャールはいかにも今思いついたと言わんばかりに口を開いた。
「そうだ! お礼に今日の晩飯を奢らせてくれませんか?」
「えっ?」
「是非、そうさせて下さい」
有無を言わさずに決めつけた後、リジャールはベーラムの方へと目を向けた。
「ベーラム卿も、ご一緒にいかがですか?」
言葉ではそう言いつつも、「できれば遠慮してくれ」「ファティマと二人きりにさせてくれ」と伝えるように、いかにもお義理で訊いたのだという雰囲気を醸し出す。
それがうまくいったのかどうかは分からないが、
「いや、私は遠慮しよう。君たち二人で行くといい」
と、そうベーラムは言ってくれた。
「そうですか。でも、もしお時間ができたら。『朽ち木の羽蟻亭』という店にいますから」
ファティマの同意も得ず、勝手に店まで決めてしまう。ベーラムに、今後の彼らの予定を伝える方が優先だ。
ブルトの遺体を屋内に運び、見つけてきた毛布を掛けてやった後、リジャールはベーラムと別れてファティマと共に『朽ち木の羽蟻亭』に向かった。
「リジャールさん……」
おずおずと話しかけてきたファティマに、固い表情で足を進めながらリジャールは言う。
「ファティマさん。あなたにお話ししたいことがあります。詳しくは、店で……」
怪訝な表情をしながらも、ファティマが頷いてみせたときだった。
「おっ、そこにいるのはリジャールとファティマではないか?」
そう声をかけられ、リジャールたちは立ち止まって声のした方を見た。
大柄な戦士風の男が立っていた。見知った顔だ。
「エバンスの旦那……」
かつて、リジャールと共に『ローラン人喰い鬼事件』を解決に導いた男だ。
英雄神の神官戦士で、自身の持つ炎の魔剣を人々の役に立てるため、北方の辺境へと旅立っていったはずだったが、ローランに帰ってきていたのか。
(しかしまた、こんな絶妙なタイミングで……)
豪快な笑みを浮かべてこちらに歩いてくるエバンスを見ながら、リジャールは頭の中で忙しく今夜の予定を修正していた。
※
その夜。
柵のない堀割沿いの道を、ふらついた足取りの人影が歩いていた。『朽ち木の羽蟻亭』という店を出た後、泥酔した女のようにおぼつかない足取りで、堀に沿って延びる石畳の上を歩いている。
と、突然にその人影が足を止めた。
前方に不審なものを見つけたようで、窺うように堀割の先を見つめている。
暗闇の中に、四本足の馬のようなモノが立っていた。色は黒く、闇に沈む堀割の上に輪郭だけがぼうっと浮かび上がっている。
ふらふらと引き寄せられるように、人影はその黒馬のようなモノのほうに歩いて行った。
ヒュウンッ!
そのとき、小さな風切り音が夜の街に響いた。
次の瞬間、人影の姿が何かに引っ張られるかのように堀割の方へと傾く。足が地面から離れ、一拍の後に堀割に水柱が立つ。
バシャバシャと水中でもがく音は、すぐに聞こえなくなった。
人影が、真っ黒な堀の底へと沈んでいく。
(リジャールさん……!)
体から離れる寸前の意識が、そう叫んだのが聞こえたのかどうか。
少し離れたところで、黒い馬の姿をしたモノは、じっと哀しそうに水の中に消えていく人影を見つめていた。
※
水に沈みゆく女の意識が、懇意にしている衛兵の名を呼ぶ少し前のこと。
一人の男が、『朽ち木の羽蟻亭』がよく見える路地裏の影に潜んで、二人の男女が店の中に入っていく様子を見張っていた。
男がじっと目をこらしているその男女は、リジャールとファティマの二人だ。彼らは互いに憎からず思っているのか、恋人同士のように仲良く店の中へと入っていく。
ただ、狭い入り口を通るとき、リジャールが促すように女の腰に手を回しかけ、そして慌てて引っ込める──というような場面もあったから、実はあの二人は、まだそれほど深い仲になっているわけではないのだろう。
(関係を進展させたくて、リジャールはあの女をこの店に誘ったのであろうな……)
男はそう邪推する。
店の中に消えた二人が出てくるのを待ちながら、数時間程もそうして路地裏に潜んでいただろうか。
夜の帳が街を覆い、酒場以外の店は全て閉まって、家々の明かりも次々に消えていった頃、ようやくリジャールとファティマらしき二人連れが店から出てきた。
二人で並んで、男から見て右手の方へと歩いて行く。
彼らに気づかれぬよう、一方で見失うこともないように適度な距離をおいて男は二人の後を追った。
リジャール達は、衛兵の詰め所とも英雄神の神殿とも違う方向へと歩いているようだ。
(どこかの連れ込み宿にでも、しけ込むつもりか……?)
一瞬、下卑た想像をしたが、どうやらそうではない様子だ。
二人は城を囲う堀の方へと足を進めている。あちらは上流階級の住宅が集まっている地域だから、連れ込み宿のような下品な店はあまりない。
推測は外れてしまったが、男はリジャール達の進む先を見ながら、心の中でほくそ笑んでいた。
(堀の方に行ってくれるのなら、都合がいい)
できれば、そのまま堀割沿いを歩いて欲しいと、彼は思った。
そうすれば、ケルピーの仕業に見せかけやすい──。
このまま真っ直ぐに進めば、もうすぐ堀にぶつかるという通りの途中で、しかしリジャール達が脇の横道へと入ってしまい、男は少し焦った。
どうするべきか、しばしの間逡巡する。
二人を見失わないためには彼もその道に入らねばならないが、その細い路地裏の道の奥には、建物が見えた。袋小路になっているように思える。
うっかり行き止まりの道に入って、リジャール達と鉢合わせをするのは避けたかった。
(なぜ、こんなところに……)
路地裏の道を見ながら、男は少し訝しんだ。
あるいは連れ込み宿に入る金を惜しみ、暗闇で二人きりになれる場所を探した結果なのかもしれないが、それにしてもここは、住宅が立ち並ぶ建物に挟まれた一角である。
近くの家から誰かが顔を出さないとも限らないから、二人きりになりたい恋人達が選ぶような場所には、少し相応しくないようにも思えた。
男の心に、徐々に警戒心が沸き上がってくる。
路地裏が見える場所に陣取りながら、彼は神経を研ぎ澄ませて辺りの様子を探ろうとした。
そのとき、路地裏から出てくる影が見え、彼の意識はそちらへと集まった。
暗くて顔はよく分からないが、人影は衛兵の鎧兜を着ているように見えた。ただ、街の衛兵の象徴である斧槍は持っていない。
(リジャールか……)
出てきた人影を見ながら、男はそう考えた。
あの細身の衛兵が、斧槍を持ち歩いているところを男は一度も見たことがない。
リジャールは探索方の衛兵だから、大きな斧槍はむしろ邪魔だと思っているのだろう。『朽ち木の羽蟻亭』に入店したときも、そこから出てきたときも、リジャールは衛兵姿ではあったが、斧槍は持っていなかった。
路地から出て、通りを歩き去っていく衛兵の鎧兜を視界の端に収めながら、男は慎重にその人影が出てきた路地まで近づき、中を覗き込んだ。
前方にはやはり建物らしきものがあり、道は袋小路になっている。ファティマの姿はどこにもない。
暗闇に目をこらして路地の中を探っていると、三方を囲む建物の壁に、いくつかの扉らしきものがあることに気づいた。そこでようやく、男は事情を推察できた。
(ここが、あの女の下宿なのか?)
路地を囲む建物は、どれも単身者や少人数の家族向けの集合住宅のように見えた。
ファティマは英雄神の神殿で寝泊まりをしているものだとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしいと、彼は合点する。
(わざわざ女を家まで送ってやったのか。リジャールもずいぶんな紳士だ……)
遙か彼方でふらふらと揺れるように進んでいく衛兵の兜を見ながら、男の顔が嘲笑するかのように歪んだ。
(だが、一人になってくれたのなら、むしろ都合がいい)
家に入った女のほうは、しばらくこのままにしておこう。
神殿の朝は早いから、ファティマがここから神殿に通っているのだとしたら、まだ周囲の住人が起き出す前に家を出るはずだ。
人目がない時間帯ならば、家から出てきた女をこの路地裏で拐かすことはたやすい。
そう考えた男は、まずはリジャール一人に狙いを定め、獲物の先回りを図ることにした。
記憶にある限り、ここから先の道には、堀まで分かれ道のようなものはなかった筈である。
そこで男は、来た道を少し戻って堀に続く別の枝道に入り、駆けるように堀割へと急いだ。
先程見た獲物の足取りは、随分とゆっくりで、少しふらついているように見えた。
(女を送り届けるまでは、無理をして普通に歩いていたのだろうな……。女と別れて安心し、酒の酔いが回ってきたのだろう)
あの足の運びならば、少し戻ることになっても、走れば堀まで先回りをすることは十分に可能だ。
息を弾ませながら堀割まで走りきり、そこに架かる橋を渡って向こう岸に移ったところで、ようやく男は足を止めた。
暗闇に目をこらして見渡す限り、堀沿いにはリジャールの姿は見えない。少し移動してリジャールが歩いてくるであろう道の対岸までやって来ると、暗い道の先に、ふらふらと揺れる衛兵の兜が見えた。
無事、先回りは成功したようだ。
堀のこちら側は、石垣が段差のようになっている。そこに下りて息を潜め、男はリジャールを待った。
やがて対岸の石壁の上に、衛兵の兜の先端が見えるようになってきた。堀に沿った道を左の方に進んでいく。
慎重に、男もその後を追った。
やがてカタン、カタンと水車の音が聞こえてきて、男はまたほくそ笑んだ。
絶好の場所だと思った。
──ここなら、間違いなくケルピーの仕業に見せかけられる。
腰に用意してあった縄を手に取り、男は獲物に向かって投げつけた。
ヒュウンッ!
狙い違わず、縄が獲物の首に巻き付く。
渾身の力を込めて、男は縄を引っ張った。
獲物の首に巻かれた縄にわずかな抵抗を感じたあと、引っ張る縄の重みが急になくなる。獲物の足が地を離れたのだ。
そして次の瞬間──
バシャアァンッ!
何か大きな物が、水に落ちる音した。
縄に引っ張られた獲物が、堀割の中に落ちた音だ。
彼が手に持つその縄の先端には、錘として分銅が取り付けてある。
金属製の分銅は水に沈むから、それが首に巻き付いた獲物は、どんなに泳ぎに長けていても溺死は免れないだろう。沈む錘に引っ張られ、頭を水面上に出すことができないはずだ。
「悪く思うなよ、リジャール……」
小さく男は呟いた。
リジャールが、ブルトからどのような話を聞いたのかは分からない。
だが、ブルトに罪をなすりつけようとしていた男にとっては、彼と直接に話をしたリジャールをこのまま生かしておくわけにはいかなかった。
男にとって都合の悪い情報を──ブルトが犯人ではおかしいのだという手がかりを、何か聞いてしまったかもしれないからである。
そしてそれは、あのファティマとかいう女も同様だ。彼女は、リジャールと同じ情報を見聞きしているはずなのだから。
それに、ブルトの庭に立ち入った者達が今夜中に全員死んでしまえば、そこで飼われていたのがケルピーではなくウォーター・リーパーであったということを知る者は、もうどこにもいなくなる。
できれば今夜中にあの怪物の死骸も引き上げて、代わりに何か馬の魔物が飼われていたという証拠になるようなものでも投げ込んでおこう。
手に縄を持って水面を見つめたまま、男は忙しくなるであろう今晩の計画を立てはじめていた。
これからブルトの家に行って魔物の死体を引き上げるのだとしたら、時間的な余裕はあまりなさそうにも思える。
だが、それでもすぐにここを立ち去るわけにはいかない。
いま彼の手の中にある縄は、リジャール殺しが彼の仕業であることの大きな証拠だ。これだけは確実に回収しておかねばならないが、縄の先は獲物の首に巻き付いている。溺死した頃合いを見計らって、一度引き上げる必要があった。
水に落とした相手の動きが完全に停止したことを確認して、男はぐぐっと縄を引いた。
想像していたよりも手応えが軽いことに、男はわずかに不審感を覚えた。
リジャールは──かつて彼が同じように水に沈めたオザンよりも細身ではあるが、とりたてて痩せているというわけでもない。
鎧兜を着ている分、むしろオザンよりも体重があるように思えるのだが──?
やがて水面に、衛兵の兜が見えるようになってきた。
そのまま一気に岸まで引っ張り上げ、水から出てきたものを見て男は目を見張った。
(な……)
思わず、「何だこいつは!」と叫びそうになっていた。
彼が引き上げたものは──先程、縄を巻き付けて水の中に引っ張り落としたものは、狙っていた人物とは異なっていた。
衛兵の鎧兜を身に着けてはいるが、明らかにリジャールではない。
そもそも兜の下の顔には目鼻がなく、のっぺりとしている。
人間ですらないのだ。
錘のついた縄を首に幾重にも巻き付けた、等身大の木製の人形が男の足元に横たわっていた。
(な、な、な……!?)
いったい何が起きたのかと、男は困惑する。
何故だか、体がブルブルと震えてくる。
「全て見たぞ……」
突然に、頭上から声がかけられた。
同時に、真っ暗闇だった堀割に仄かに光が差す。
赤い光だった。
堀割上の道に誰かがいる。
その者が、何かに火を着けたのだ。
その火に呼応するかのように、周囲の路地裏や物陰に次々と明かりが灯っていった。
ダダダダダァアーッという複数人が駆けてくる足音もする。
見上げた彼の頭上に、大柄な男が立っていた。手には赤く光る剣を持っている。炎の魔剣のように見えた。何かに火が着けられたのではなく、燃える剣が鞘から引き抜かれたのだ。
ズダンッ!
大男が、路上から彼がいる堀割の岸まで飛び降りてきた。
「夜目は利くほうでな……」
そう語りかけてきた大男の胸元には、聖印とおぼしき首飾りがかけられていた。
あれはおそらく、英雄神のロザリオ──。
「貴様の所業は、この目で全て見せてもらった。助けるためではなく、殺すために縄を投げたところも……。オザンとかいう者も、同じようにして貴様が殺したのだろう?」
大男の手にある魔剣の炎が、彼の顔を赤々と照らす。
バタバタと、堀割の上の路上に何人もの人影が現れた。
そのうちの一人が、炎に照らされた彼の顔を見て言う。
「ま、まさか……ッ!」
その声には、聞き覚えがあった。確か、衛兵隊の隊長をしている男の声だ。
「まさか……貴方が……」信じられぬものを見たというように、衛兵隊長が彼の名を呼んだ。
「ベーラム卿……」