その9 ティアの帰還
「……もう一度、確認しておくぞ」
遺跡を前にして、ファルコはイライザに言った。
「危険は少ないと思うが、それでも隠された罠があるかも知れない。朽ちた壁や天井が崩れる可能性もある。だから、勝手にあちこち触らないこと。動き回らないこと。俺の指示には、すぐに従うこと。反論する前に、まず動いてくれ。理由が聞きたいというなら、安全が確認できた後に説明するから」
その言葉に、イライザは神妙な顔つきでうなずいた。
結局、彼女はヒコリ村の遺跡までついてきてしまっていた。
イライザはすでにティアの石像に奇妙な愛着のようなものを抱いている。だから最後まで見届けたい。自身の手で遺跡にこの像を戻して、そこで別れを告げたい。と、そう思っていた。
二人が遺跡に着いたとき、太陽はまだ東の空にあって遺跡の入り口を燦々と照りつけていた。
イライザは昨日の朝、ファルコとした話を思い出していた。
一昨日の晩、ファルコは遺跡を前に一晩だけ像を貸してほしいと彼女に頼んできたのだ。
「一度ぐらいは、ティアの霊に会ってみたい」
彼はそう言った。
ここまでの道中はずっと宿に泊まっていたし、宿の部屋は当然別々だったから、ファルコはまだ石像が泣くところを見たことがない。
翌日の晩はイライザにとって像と過ごす最後の夜になるだろうから、彼女としても容易に像を貸す気にはなれないだろう。そう見越して、ファルコはこの日に頼んできたのだ。
彼のその気遣いを嬉しく思いつつ、一方でイライザは、
(別に、最後の一晩で別れを惜しむような間柄じゃないけれど……)
などと、心の中で誰にともなく言い訳めいたことを呟いた。
そして迎えた朝、部屋から出てきたファルコにイライザは聞いた。
「……どうだった?」
「出たよ」
何事もないような顔でファルコは言った。あまり寝不足のようにも見えなかった。
「古代の人間は、ああいう服装をしていたのだな。勉強になったよ。珍しいものを見せてもらった」
不気味とか、怖いとか、そういう感情は抱かなかったらしい。
事前に散々話を聞いていたから心の準備ができていたのか──と思ったイライザであったが、続くファルコの言葉に、「やはりこの男は変人だ」と改めて思った。
彼は、こう言ったのだ。
「服の素材や装飾品なんかも、今とあまり変わりがないように見えたな。薄ぼんやりしていて、細かく観察できなかったのが残念だ」
「…………」
生身の人間ではないとは言え、目の前で女がさめざめと泣いている中、その女の服装をまじまじと観察していたわけである。
イライザは少しティアに同情した。
「ただ……少し、気になることを言っていたな」
「え?」
「『帰してくれ』と言ったあとに、『明後日までに』と付け加えたんだ。いつもそうなのか?」
「いや……そんなこと言ったことはなかったわよ」
いつもは「そうでないと……」という脅しまがいのことを口にしていた。
「そうか。じゃあ、昨晩が初めてか……」
ファルコが考え込んだ。
「明日は確か……」
「夏至よ」
イライザが答える。一年で最も長く太陽が出ている日だ。
「そう、夏至だ……。太陽の神を信奉する者にとって、夏至は最も大切な日だ。彼らの崇める太陽が、一年で一番長くその姿を見せる日だからな。そしてティアは……太陽神に仕える巫女だ」
「だから、夏至を気にしている?」
ということはこの像のティアは、まだ太陽神の巫女であった時分の──シドと結婚する前のティアなのだろうか。
しかし、そうするとシドの形見である鋤を持っている理由が説明できない。
それにヒコリ村に現れた影の男も確か、「夏至の日までに……」と言っていたことを、イライザは思い出していた。
ファルコが唸るように呟いた。
「夏至がティアにとって特別な日であることは確かなのだろうが……。はたして、本当にそれだけなのか……?」
その日の晩、ティアの像と過ごす最後の夜に、イライザはそのことも彼女に聞いてみた。
「……ねえ……夏至の日に何かあるの? それは、シドと関係のあること? あなたは、シドの所に帰りたいんじゃないの?」
それとも女の言う「あの人」とは、シドではなく太陽神ソレイユのことなのだろうか。
しかし、女は何も答えなかった。いつも通り、ひたすらしくしくと泣き続けるだけだ。
ただ、最後に彼女はこう言った。
「私を……あの人の所に帰して。明日までに──」
それで、朝食もそこそこに二人はこの遺跡までやってきたのだった。
像の女の言う「明日まで」というのが、今日の何時頃までなのかが分からないから、できるだけ早くに返した方がいいだろう、と考えたのである。
事前に聞いていたとおり、遺跡はこの辺りで最も高い山の頂付近にあった。
山肌にぽっかりと洞窟が口を開け、一見したところでは古代遺跡のようには見えない。だから、これまで探索されずにいたらしい。
あるとき洞窟の入り口付近の土砂が雨で崩れ、土に隠されていた石のプレートが露わになった。そこには太陽の印が彫られており、中に太陽神・ソレイユに関わる遺跡があるのでは──となったという。
イライザは顔を上げて、そのプレートを見た。
おそらく土に埋まった門の一部が露出しているのだろう。そこに彫られている印は、確かにティアの石像の背に彫られているものと同じだった。
洞窟の入り口付近にまで足を進めてみると、その辺りの床はすべて土だ。石畳が埋まってしまったのか、あるいは自然の洞窟を利用しているのか。
壁もゴツゴツとした岩がむき出しで、外の光が届く範囲では、ずっと自然の洞窟が続いているように見える。
イライザは荷物からランタンを取り出して、火を点けた。
隣では、ファルコが松明を取り出している。
「あなたは、松明を使うの?」
「重いし片手が塞がるから嫌だ、という者は多いな。その意見には賛同できるところもある。ただ、ランタンと違って落としても壊れず、明かりが消えないという利点があるから、俺は松明を採用している」
突然の事故や魔物に急襲された際にも、明かりの中で対応できるわけだ。
「……もっとも俺の場合は、こう使うが」
言いながら、ファルコは懐から書物を取り出した。魔術の呪文が書かれた魔道書だ。その中の一頁を見ながら、ファルコが何やらブツブツ呟くと、松明の先にぼうっと白い明かりが灯った。
火に比べて圧倒的に明るく、手を近づけても熱くない。松明の先に灯ったのは、魔法の光だった。
「相変わらず、便利よね」
その光を見ながらイライザは言った。
リヴェーラのような大きな街では、黄昏時が近づくと若い魔術師が“灯り”を売りに町中を歩き回る。
暗い夜の間中ともり続け、ランプよりも明るいその光は大変に重宝されるが、毎晩使うには少し値が張るから、庶民は何か特別な日にしか使わないことが多い。
魔術師であれば、呪文さえ知っていればその“灯り”が使いたい放題なのだ。特に暗い遺跡に頻繁に潜るファルコのような者にとっては、必要不可欠な技術だろう。
「……普段はランタンも併用するがな」
照れ隠しなのか、苦笑のような笑みを浮かべてファルコが言った。
遺跡の中には目に見えないガスが溜まっていたりして、呼吸可能な空気が薄いことがある。そのような場所では火が消えるから、魔法の光とは別にランタンに火を灯してしておくのだという。
何かを焼き払いたいなど、炎が必要になったときにもランタンに火を点していれば、すぐに松明に移すこともできる。
「今日は、君のランタンがあるから、そちらを使わせてもらおう」
「ええ、いいわ。明かり持ちぐらい、させてもらうわよ」
イライザは言った。自分が役に立つことなど、その程度だ。
それぞれの明かりを手に、二人は洞窟の中へと歩を進めた。
事前に聞いていたとおり中は一本道で、全体に緩やかな上り坂になっていた。
しばらく進んでゆくと、途中から地面が石畳に変わった。壁と天井には化粧石が並べられている。短い階段になっているところもあり、暗いことを除けば、どこかの神殿の回廊を歩いているような気分になってくる。
それでも、ファルコの足取りはいかにも慎重だった。
安全とは聞いていても、一歩一歩、確かめるように歩を進め、周囲の床や壁、あるいは天井の様子なども油断なく観察している。
イライザから見れば、変わり映えのしない石の廊下が延々と続いているだけの回廊でも、ファルコはそこから何か特別な情報を得ているのだろうと彼女は思う。自分が何気なく見ていた石像から、それがティアの像だと特定する情報を見つけ出したように──。
普通に歩くときの倍以上の時間をかけて、二人はようやく突き当たりの扉までたどり着いた。
両開きの、いかにも重厚そうな扉だ。左右それぞれの扉に一つずつ、遺跡の入り口にあったのと同じ太陽の印が彫られている。
扉とその周囲を慎重に検分した後、ファルコが左側の扉に両手を当てて押した。しかし、扉はびくともしない。
「開かないの?」イライザが聞いた。
「ああ……」言って、ファルコが首をかしげる。「おかしいな。鍵のようなものがあったとは聞いていないが……」
続いて、ファルコは右側の扉に手を当てて押してみた。
今度は少しの力で扉が動き出す。魔法なのか、あるいは扉自身の重みのせいなのか、ファルコが手を離しても扉は動き続け、
ずぅんっ!
と、部屋の中の壁に当たる音がして、止まった。
やはり慎重に中を伺いつつ、ファルコが部屋に入る。イライザも後に続いた。
聞いていたとおり、部屋は五角形をしていた。底辺に当たる壁にイライザたちが入ってきた扉がある。
部屋の中はほのかに明るかった。これまでの廊下のように真っ暗なわけではない。扉の所にいるイライザから見て左奥の斜めの壁に窓らしき切れ込みがあり、空が見えた。そこから外の光が差し込んでいる。
その隣の右奥の壁の前には台座のようなものがあった。だが、部屋の中にある調度の類いはそれだけで、あとは何もない空間が広がっている。
部屋の真ん中にも、左奥の壁の前にも台座のようなものは見当たらず、瓦礫だとか床の破損のような痕跡も見られない。やはり、台座は初めから部屋の右奥にあるもの一つきりなのだろうと思われた。
ファルコが台座の所までゆっくりと進み、初めは目で見て、続いて慎重に触りながら観察し始める。
やがて立ち上がった彼は、戸口でじっと待つイライザに頷きかけた。
神妙な面持ちでイライザもこくんと頷き、ゆっくりと台座に向けて歩き始める。
なんだか、ひどく緊張していた。
一度ファルコが歩いた場所であるし、安全を確認してもらっているはずなのに、何故だか背筋を汗が伝い落ちる。
あるいはこれは、像を返すという重責を担ったプレッシャーからなのか。ただ像を台座の上に置くだけのことなのに、どうしてここまでの圧を感じるのか。
ようやく台座の所まで歩み寄ったイライザは、荷物の中からあの像を取り出した。
見ると台座には窪みがあり、ミスリル像の足の裏と同じ形に彫られている。
その窪みにぴたりと像が嵌まるように向きを調整して、イライザはティアの像を台座の上に安置した。
ゆっくりと像から手を離し、周りを伺う。
しかし、特に何も起こらなかった。自分と、ファルコの息づかいの音だけがやけに大きく聞こえてくる。
拍子抜けしたようにふうっと息を吐いて、イライザは女の像を見下ろした。
「これで……満足?」
そっと彼女はミスリル像に呟いた。
ティアの像からは何の反応もなかったが、それでも彼女はティアがほんの少しだけ笑いかけてくれたような気持ちになった。