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ラグアース大陸の冒険者たち  作者: 浅谷一也
第六話 水面に立つ馬
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その10 水面で燃える火

 怪物は騎士に任せ、リジャールは地に倒れ伏すブルトの元に駆け寄った。


「おい、大丈夫か!?」


 まだ息がある様子のブルトにそう声をかけたものの、助かる見込みがないのは明白だった。怪物の鋭い牙で腹がズタズタに裂かれ、内臓の一部がはみ出している。


「衛兵……さん、か……」


 弱々しく目を開いたブルトが、リジャールを見てそう言った。


「バチが……当たったんだ。人の生き肝なんかで、薬を作ったから……」


「もう喋るな……。すぐに医者を呼ぶ」


 気休めでもと、そう声をかけたリジャールの言葉が聞こえたのかどうか。ブルトは独り言のように語り続ける。


「アイツも……飼い始めたときは可愛い奴だった。掌にのるぐらいの大きさだった……」


 だから、水門の金網を通り抜けることができたのだ。


「でも……大きくなって……たくさん食うようになって……」


 ブルトが顔をしかめる。それは苦痛か、それとも後悔の表情か。


「生き肝をとるために、俺が……アイツに人を襲わせてしまったから……人の肉の味を覚えさせてしまったから……」


 ウォーター・リーパーにとって、人間は”世話をしてくれる者”から”餌”に変わってしまった。そして、幼獣の時から自分を育ててくれたブルトに襲いかかったのだ。


 ゴポリと、ブルトは口から大量の血の塊を吐き出した。


「バチが……当たったんだ……」


 もう一度そう言って、ブルトはそれを最後に何も喋らなくなってしまった。呼びかけても何の反応もない。絶命したのだ。


 リジャールがブルトの目をそっと閉じてやったとき、バシャアンと、何か大きなモノが水に飛び込む音がした。


 ベーラムの剣に叶わぬと悟ったウォーター・リーパーが、水中に逃げたようだ。


「くそっ!」


 ベーラムが悪態をついている。


 地上では動きの鈍いウォーター・リーパーだが、泳ぎは巧みだ。水の中に逃げると同時に、べーラムの剣が届かないところまで瞬時に離れていってしまう。


 ベーラムがまた投げ縄を手にして、水面に浮かぶ怪物に向かって投げた。


 ブウゥーーン──!


 ドプンッ!


 ベーラムの分銅が命中するその寸前、ウォーター・リーパーが素早く水に潜る。


 ボチャァアンッ!


 金属製の分銅が水面を叩き、そのまま虚しく沈んでいく。


 池から分銅を引き上げたベーラムが、また縄を投げた。しかし今度も怪物は、水に潜って騎士の攻撃をやり過ごす。


 何度やっても同じだった。


 水中で自在に動く怪物に、ベーラムはどうしても致命打を与えることができないでいる。


 やがて、もうこの人間は脅威ではないと判断したのか、ウォーター・リーパーは池の真ん中あたりを悠々と泳ぎ始めた。ベーラムが、憎々しげにその姿を見つめている。


 リジャールは、クロスボウを持ってこなかったことを心底後悔していた。彼はその武器が得意なのだが、街中で使うことはまずあるまいと、普段は持ち歩いてはいないのだ。


 何かテはないかと、辺りを見回すリジャール。


 彼の横では、ファティマも同じように周囲を探るように見ている。と、その視線が一点で止まった。


 何か見つけたのかと、リジャールも彼女の視線の先を追う。


 家屋部分の壁に隣接して、レンガを積み上げた一軒の小さな建屋があった。


 ファティマの目は、その屋根部分に向けられている。そこには、やはりレンガで作られた出っ張りがある。煙突のようで、一筋の煙が空に向けてたなびいていた。


 どうやらあの建屋は、(かま)か何かのようだ。薬を作るために必要なのか、ゴミを処分するためのものなのか。扉のようなものはなく、庭からすぐに入っていけるような構造だ。


「リジャールさん!」ファティマが言った。「あそこに、火があると思うのです」


 熾火なのか、何かを燃やしている最中なのかは分からないが、煙が出ているからには必ず火があるはずだ。


「お願いです! 持ってきてください、すぐに!」


「え、ええ……」


 ファティマの剣幕に、リジャールは理由も聞かずに頷いて駆け出した。


 走りながらチラリと見ると、水辺にひざまずいたファティマが両手を水面に浸し、集中するように目を閉じていた。何か魔法を使うつもりのようだ。


 隙だらけの彼女にウォーター・リーパーが近づかぬよう、ベーラムが投げ分銅で牽制をかけてくれている。


 辿り着いた建屋は、やはり大きな窯であった。扉のない入り口から中に入ると、火が赤々と燃えさかっている。


 使わなくなった薬草でも燃やしているのか、独特の臭いにリジャールは鼻をつまんで顔をしかめた。屋内に作らなかった理由の一つはこれか。


 幸いなことに、窯の火種は薪であった。片側だけが燃えている木の棒を取りだし、松明のように掲げて、リジャールはファティマの所に戻った。


「ファティマさん!」


 リジャールの手にある燃えた薪をチラリと見たファティマが、ウォーター・リーパーを指さして言った。


「投げてください! できる限り、ウォーター・リーパーの近くに!」


「池の中に!?」


 それでは、折角の火が消えてしまうだろう。


 戸惑うリジャールに、子供を急かすときのような声音でファティマが言った。


「いいから早く! 言われたとおりにして下さい!」


 わけが分からないまま、リジャールは振りかぶるような動作をして、水面を悠々と泳ぐ怪物目がけて、手に持つ薪を投げた。


 クルクルと空中で何度か回転しながら、燃えさかる薪がウォーター・リーパーの近くの水面に着水する。


 その瞬間だった。


 ボッ! ボボボボボォオオォォォッ──!


 薪の先端の火が触れた場所の水面に、突然に大きな炎が現れた。どんどんと広がり、すぐに池全体が炎に包まれる。


 まさに、火の海と言える光景だった。


 赤々と燃えさかる池に呆気にとられたリジャールに、少し疲れたような声のファティマが言った。


「池の水の性質を、”燃えるモノ”に変えたのです」


 だから、薪の火が触れて油のように燃え始めたのだ。


「これだけの量の水を……?」


 いまだ呆然としながら、リジャールは言った。


 水の性質を変える──。


 それは、以前に水中で息をする方法を尋ねたときにファティマが教えてくれた方法だ。


 だがその時は、「大量の水の性質を変えるには、膨大な魔力が必要になる」と言って、彼女はこの方法を採用しなかった。


 いま、リジャールの目の前で炎に覆われている池は、個人の家の庭池とはいえ、かなりの広さがある。中心で泳ぐ巨大な怪物を攻撃するため、ベーラムの投げ分銅は、その縄の長さをほぼいっぱいまで使っていた。


 巨体のウォーター・リーパーが完全に潜れるということは、池の深さもかなりあるはずで、相当の水量を湛えているようにリジャールには思える。


「この池の水全ては、さすがに無理です。ですから、水面の一部の水だけ性質を変えました」


 ここは池だから、あの時の水門のように後から後からどんどんと新しい水が流入してくるということはない。水は淀み、対流もほとんどないだろうから、水面近くの水の性質を変えるだけでも、しばらくの間は炎は消えずに燃え続けることだろう。


 池全体の水の性質を変えるよりも、はるかに少ない魔力量で火の海を作り出すことができるのだ。


 ただ、それでもファティマの顔は、どこか憔悴していた。相当の魔力を消費したのだ。


「水面を燃やすだけでは、潜られて終わりではないのか?」


 ベーラムが訊いた。


 そうやって、先程から彼の攻撃は空振りに終わっている。


「むしろ、そちらが目的です」


 ファティマが池の中心に目を向けながら答える。


 そこには、先程まで見えていたウォーター・リーパーの背中はない。火から逃げるように、水中深くまで潜ったのだ。


「あとは、時間との勝負です」


 目的を達する方が先か、彼女の魔力が切れて水が元に戻るのが先か。


 じりじりと、炎に炙られながら水面を見つめる時間が過ぎていった。


 どれほどの間、そうしていただろうか。やがて火の勢いが少し弱まってきた頃、水面にぷかりと白い物が浮かんできた。


 ひっくり返ったウォーター・リーパーの腹のようだ。先程のようにゆったりと泳ぎ回ることはなく、怪物は水面に浮かんだまま大量の炎に身を晒していた。白い腹がだんだんと焼け焦げ、黒色に変わっていく。


 それを確認してから、ファティマが言った。


「水の魔物であるウォーター・リーパーですが、蛙やワニと同じく、水中では呼吸ができないのです」


 だから、水面に頭と背中の一部を出して泳いでいたのだ。鼻の先だけを水上に出して呼吸をしていたのである。


「しかし水面の火から逃げようと思えば、水中に潜るしかありません。人間より潜れる時間は長いのでしょうけど……」


 それでも、息を止めていられる時間には限りがある。


 息継ぎをしようと水面に出れば、燃え盛る炎にやられる。


 池の表面全体を火で包まれた時点で、怪物にとっては詰みだったのだ。


 直火で焼かれ、焦げて縮んでいく怪物の腹をリジャールはじっと見つめた。


 いったい何人の犠牲者が、あの腹の中に収まったのだろう──?


 池の岸には、怪物にそれらの犠牲者を襲わせた者の遺体が横たわっている。


 ヤムダールの製法を知ったとき、ブルトは躊躇したのだと信じたい。


 ウォーター・リーパーの本来の食物を──あの怪物が人喰いの魔物なのだと知らなければ、彼も生きた人間を襲わせてその肝臓を得るなどということは、実行に移さなかったのだと思いたい。


 動機と、それを実行できる者と、状況と──その全てが揃ってしまったことで、彼は深い罪を背負ってあの世に旅立つことになってしまった。


 リジャールは、もう一度ウォーター・リーパーの死骸の方へと目を向けた。


 例えブルトが人を襲わせなくとも、成長したあの魔物は、いつか本能に従って人間を襲いはじめただろうと思う。


 ただ、川に大きな生き物がいないこのローラン新市街では、そもそもあの魔物が、野性のままあの大きさまで成長できたとは思えない。


 知ってか知らずか、ブルトが餌を与え続けてしまったから、あの怪物は人間を襲えるまでに大きくなった。


 師を亡くし、友人もいないブルトにとっては、もしかしたらウォーター・リーパーだけが唯一の家族であり、心を許せる他者だったのかもしれない。


 ──だとすれば、これほど哀しいことはない。


 池の真ん中に浮かぶ怪物を、リジャールはずっとそのまま黙って見つめ続けていた。

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