その9 ブルトの家
ブルトの住まいは、大きな邸宅が集まる”堀の内”の南の端に位置していた。
壁に囲まれた街であるローラン新市街だが、その中にはもう一つ堅牢な城壁に囲まれた一帯があり、タラマカンの首長の側近や貴族、上級役人たちが住んでいる。
その城壁と堀割の間である”堀の内”には、地方貴族の別邸や、貴族を相手にする商人・職人の屋敷などが建ち並んでいた。
いまリジャールが歩いているのはその南側の端で、ここらは新市街の建設当初から整備が始められた地区だ。歴史の浅いローラン新市街の中でも、比較的古いお屋敷が建ち並ぶ一帯である。
この辺りに住んでいるのは、首都機能を旧市街から新市街に移すと決めたときから城の近くに住むことを許された者たちであり、平民であれば古くからの大商人か、力のある職人ということになる。
ただ、貴族と違って血縁よりも本人の才覚が物を言う商人や職人の場合は、ここに住むことを許された当人が富裕であったからと言って、その子や孫が身代を維持できるとは限らない。
商才のない後継者のせいで店の経営が傾き、地所を管理しきれなくなったというのはしばしば耳にする話で、ファティマと並んで歩くリジャールは、同じ”堀の内”でもオザンの屋敷がある一帯とこの辺りとでは、随分と雰囲気が違うように感じていた。
規模は大きいが、どこか荒廃した家が多いのだ。
ようやく辿り着いたブルトの家は、その最たるものであった。
地所を囲む塀に使われている石は汚れてくすみ、石と石の間から雑草が顔を出している。
崩れ果て、石垣の用を足していないような場所まである始末だが、そのような石垣の隙間から覗ける屋敷の庭には、雑草や灌木が生い茂り、その奥の様子はよく見えない。ある意味で、これらの木々が塀の役割を果たしているとも言えた。
「植物が多いですね……」
ポツリと、ファティマが呟いた。
リジャールも、そのことは少し気になっていた。
同じく荒れ果てている他の家に比べて、ブルトの家には明らかに庭に繁茂する植物の量が多い。
ローランは雨の少ない気候だ。新市街のある一帯は土壌もそれほど豊かではないから、手入れされずに放置された土地の多くは、瑞々しい植物のない茶色の景色となる。
この街で庭木を育てることは一種の贅沢であり、定期的な水やりと手入れが欠かせないのだ。
事実、ブルトの家の周囲にある他の屋敷の庭にある木々は、定期的に人の手が入っているのだろう綺麗に剪定された庭木か、放置されて枝葉が落ちている枯れ木かのどちらかだった。
人の手がほとんど入っていないように見えるのに、瑞々しい緑が生い茂るこのブルトの家の庭は、ローラン新市街としては些か異常な光景である。
「庭に、池や小川があるのではないでしょうか」
ファティマが言った。
「どうしてそう思うのです?」
「あそこに、蓮の花の彫刻があります」
ファティマが指さしたのは、石塀の上の方に間隔を空けて掘ってある模様だ。薄汚れていたり欠けていたりで分かりにくいが、確かに何かの花の模様に見える。
「蓮の実や葉、根などは生薬の原料としてよく使われます」
池の少ないローラン新市街では蓮は貴重だから、どれもそれなりに高値で取り引きされる薬だ。
逆に、大河アンタルヤに繋がる小川が多い旧市街では、そこから引いた水で池を作り、蓮を育てる者もいた。新市街に持っていけば高く売れるからである。
「ここは元々、蓮を使った薬剤を作る工房だったのではないでしょうか」
この辺りは、新市街が建設された頃から人が住んでいる土地だ。蓮を栽培するために、あらかじめ近くの堀か運河から水を引き、敷地内に池を作った可能性は十分にある。ブルトの師の祖先は、そのために旧市街からここに移住してきたのではないだろうか。
リジャール達が水死体を見つけた川べりと同じように、池や小川があればその周りに植物が繁茂することはありうる。
そして池があれば──
「ケルピーのような水棲の魔物も飼うことができますわね……」
二人の表情が、緊張に包まれた。
まずは池の存在を確認したい。
そう思ったリジャールが、朽ちた塀の隙間から中を覗き込んだり、飛び上がって塀の上から庭の様子を窺っていたら、不審者と間違われたのだろう。突然に、厳しい口調で誰何の声がかけられた。
「貴様、そこでいったい何をしている!?」
塀の上部に両手をついて庭を見ていたリジャールが、慌てて地に足を戻して振り返ると、そこに立っているのは誰あろうベーラムだった。
「なんだ? リジャールか?」
ベーラムもすぐに気づいたのだろう。厳しかった表情が、途端に怪訝な様子に変わる。
「いったい、何をしているのだ?」
口調は異なるが、先程と同じようなことを訊いてくる。
そこでリジャールは、ヤスミンの店からここまでの経緯を説明した。黙って彼の話を聞いていたベーラムの表情が、やや苦笑気味になる。
「そうか、考えることは同じだな……。実は私も、君と合流する前にブルトの家を下見してみようと思ってな……」
それで、ここまで足を伸ばしてみた。オザンの店で、首尾良くブルトの住まいを聞き出せたのだという。
「そちらの女性は? 見たところ、神官のようだが……」
リジャールの隣にいるファティマを見て、ベーラムがそう訊いてきた。
「英雄神の神殿のファティマ神官です」
ケルピーの情報をはじめ、ここまで何かと世話になっている人だと紹介すると、
「そうでしたか……」と、ベーラムは相好を崩した。「ご協力、感謝いたします。ローラン騎士団のベーラムと申します」
そう名乗ったベーラムが、ファティマの前に片膝をつく。彼女が何かを言う前にその片手をとると、騎士はファティマの手の甲に口づけをした。
実際にはベーラムの唇は、ファティマの肌に触れるか触れないか程度のところだったとは思う。だが、それでもリジャールの心には何だかモヤモヤとしたものが沸き上がっていた。
ベーラムの行為が、淑女に対する騎士の正式な挨拶なのだということは理解している。しかし、貴族のお屋敷で姫君に対して行うのならばともかく、こんな道端で平民の女性にする挨拶としては、少し大仰すぎやしないだろうか。
ベーラムは、普段から誰に対してもこうなのか──?
「それで、ですね……」
咳払いでもしたいところだったが、そこはさすがに遠慮して、リジャールはベーラムに言った。
「この庭に池があるのではないか。であれば、そこにケルピーのような水棲の魔物がいるのではないかと、彼女は言うのです」
ようやくファティマの手を離して立ち上がったベーラムが、厳しい表情を作った。
「成る程……」塀に掘られている蓮の花の彫刻を見ながら、ベーラムが頷く。「確認する必要は、確かにあるな」
だが、予想通りにそこに凶悪な魔物が飼われていた場合、たった三人で庭に立ち入るのは危険ではなかろうかと、ベーラムは言った。
「私がここで見張っているから、君たちが衛兵隊の詰め所や英雄神の神殿に応援を求めに行くというのはどうだ?」
その提案に、少し困惑しながらリジャールは答える。
「ですが、まだブルトが下手人と決まったわけでもないですから……」
大勢を呼び集めておいて、濡れ衣でしたではすまされない。
何か、確証となるものが欲しかった。ブルトが、ここで危険な魔物を飼っているという確かな証が。
付近の人間に聞き込みでもしてみるかと、リジャールが足を動かしかけた時だった。
「ぎゃぁぁあーーーっ!!」
突然に、何者かの悲鳴が聞こえた。
ブルトの家の庭の方からだ。
声のする方を見た後、リジャールは再び塀の上部に手をかける。
「リジャールさん!」
その彼をファティマが制止した。
一人で行くのは危険だ。
だが、鎧のベーラム、ローブ姿のファティマでは塀を乗り越えるのは難しい。
リジャールに声をかけたファティマは、塀の一角を指さしていた。
すぐさまベーラムがそちらに走る。リジャールも続いた。
そこには、勝手口らしき粗末な扉があった。長い間放置されていたのだろう。材木は朽ちかけ、蝶番は錆び付いている。
ベーラムが体当たりをすると、扉は簡単に開いた。
三人で、なだれ込むように庭の中に入る。
「どっちだ!?」
「あちらの方です!」
言うと共に、リジャールは先頭に立って駆けだした。
藪をかき分けながら進むと、すぐに年季の入った家屋が見えてきた。
隣接するように池がある。個人の邸宅では珍しいほどの大池だ。敷地のかなりの部分が池で占められている。
その池のほとりに、一人の男がうずくまっていた。ブルトだ。右腕を押さえて顔を歪ませている。
その理由はすぐに分かった。
彼の肘から先はなくなっていた。傷口から真っ赤な血が流れ出している。
「なんだ、アイツは!?」
そのブルトの前に立つモノを見て、ベーラムが声を上げた。
リジャールも一瞬、足が止まりかけていた。
見たこともない動物だった。
いや、怪物と言った方が正しいか。
異様な外見をし、人喰いワニのように巨大だ。
全体としては巨大な蛙のように見えるが手足はなく、体のほうはオタマジャクシに近い。ここからはよく見えないが、尾の先は池の中に入っているようだ。
頭の後ろには大きなコウモリの羽根のようなものがついており、おそらくはヒレなのだろうと思われた。
「ウォーター・リーパーです!」
叫ぶように、ファティマが教えてくれた。
水辺に棲む人喰いの魔物らしい。
ガパリと、ウォーター・リーパーが大きな口を開いた。目の前のブルトに向けて。
蛙に似た大口の中には鋭い牙が無数に生えており、この怪物が肉食であることを如実に示している。
ブルトは呆然と、自身に向けて口を開くウォーター・リーパーを見上げていた。足がすくんでいるのか、逃げるそぶりを見せようとしない。
「何してる! 逃げろ、ブルト!」
リジャールは叫んだ。
助けに行こうにも、ブルトの所までは、まだだいぶ距離がある。
(間に合わない!)
リジャールは唇を噛んだ。
ブルトの上半身が、怪物の大きな口の中に消える。
「この!」
怪物が口を上げて、ブルトを完全に呑み込もうとした時、一度腰に手をやったベーラムが、何かを投げた。
投げ縄のようだった。
タラマカンの騎士が、剣の他に常に持ち歩いている伝統的な武具である。
その縄は、本来は馬上で敵兵に絡みつかせるためのものだ。縄の先には、遠くにまで投げるための錘として、いくつかの金属製の分銅がつけられている。
手元の縄を巧みに操り、ベーラムがその分銅を怪物の頭にぶつけた。
ガヅゥゥウンッ!!
「グゲッ!」
たまらず叫んだ怪物が、ブルトをべっと吐き出す。
ぐったりとしたブルトの身体が怪物の口から飛び出し、池から少し離れた地面に倒れ伏した。
剣を抜くベーラム。
水辺に立つウォーター・リーパーに、騎士が接敵した。