その5 堀割と水門
オザンが死んだという堀割は、屋敷から歩いて十分ほどの距離にあった。五分ほども走れば衛兵の詰め所がある場所だから、それでセミルは、救援を求めるときに詰め所の方に走ったのだ。その方が速いと判断したのである。
リジャール達が水路が近づいていくと、カタン……カタンというゆっくりとした規則的な音が聞こえてきた。
「何の音だ……?」ベーラムが訝しげに呟く。
堀割が近づくにつれて、その音の正体はすぐに明らかになった。
彼らが歩いている方とは反対側の堀の壁に、小さな水車が一つ据え付けられていた。あまりに殺風景な堀割に色を付けるため、誰かが造って置いていったのだろう。実用ではなく、あくまで飾りとしての水車のようだ。
(水車、か……)
水の流れを受けて音を立てながら回る車を見て、リジャールは眉をひそめた。
ローランに伝わる昔話では、ケルピーは水車の近くに出没するとされている。
セミルの目撃した白馬がケルピーであるという、一つの傍証のように思えた。
リジャール達が立つ場所から、対岸の水車まではそれなりに距離があった。この堀割は外敵を防ぐためのものでもあるから、簡単には越せないようにかなりの幅が確保してある。
水車が回る音を聞きながら、リジャールは堀割の縁に近寄った。
彼の膝上くらいまでの高さの低い塀が設けられてあるだけで、近寄ると少し恐怖感が湧く。下に目を向けるとすぐに水面が見え、川岸と呼べるようなものはないから、暗い夜道で、ここに水路があることを知らないと、かなり危険な場所だ。
堀の向こう側には、落下防止のためか、道路との間に低い段差で岸が造ってあった。水車が設置してあるのもその岸だ。しかし、”堀の内側”にあたるこちら側の壁は、這い上がりにくくするためだろう、ほぼ垂直な造りになっている。
だから水上に立つ馬は、オザンのいる道路際まで寄ってくることができたのだ。落下防止の塀も、むしろ向こう側にいる馬の背に跨がるときには、よい足台となったに違いない。
リジャールは、暴漢制圧用に背負っていた棒を手に取って、水路の中に突っ込んでみた。
堀の向こうに身を乗り出して、腕をいっぱいに伸ばしながら水の中に差し込んでみたのだが、棒の先端が水底についた感触は得られない。壁の部分を差し引いても、かなりの深さがあるようだ。
セミルが見た馬は、堀の水底に足を着けて立っていたわけではないことの何よりの証拠であると思えた。もしも水底に立っていたのなら、せいぜい長い首の一部が見えるだけであっただろう。
堀の向こう側に脚も見せて立っていたということは、その蹄は水面の上になければおかしいのだ。水の上に立っているのでもなければ、セミルが目撃したような馬の姿にはなり得ない。
「オザンさんは、泳げたのか?」
立ち上がってセミルの方を振り向き、リジャールは尋ねた。
この深さと幅では、泳げぬ者がこの堀に落ちたら相当に危ない。
セミルは、首をかしげて答えた。
「さあ……。オラは見たことがねえだ」
それはそうかと、リジャールは思う。
彼だって、最近は水に入って泳いだ記憶などない。子供の頃ならばともかく、大人になって仕事を始めたら、漁師のような職業でもない限り、泳ぐ機会などそうそうないものだ。
オザンは東方の草原地帯出身だというから、川や水路の多いローランの出身者と違って、子供の頃にもあまり水に入った経験はないかもしれない。泳げない可能性は十分にあった。
念のためベーラムにも同じことを尋ねてみたが、やはり彼も首を横に振る。ベーラムがオザンと顔を合わせたのは、薬の売買の時と乗馬を教えるときぐらいのものだ。川や池に、共に行ったようなことはなかったという。
「ベーラム卿は、オザンさんに乗馬を教えていたという話でしたが、馬にはどこで乗られていたのです?」
ついでとばかりに、リジャールは訊いてみた。
旧市街にいた頃は、彼もしばしば馬には乗っていた。そこに残してきたリジャールの恋人が、乗馬好きだったのである。彼女につき合い、リジャールも良く郊外の草原まで馬術の訓練に出かけたものだ。
しかし、壁に囲まれたローラン新市街では、土地は貴重である。馬を乗り回せるような広い場所はあまりなく、新市街の衛兵になってからは、リジャールは馬に乗る機会をほとんど失っていた。
「最初は、騎士団の馬場で馬を見せたのだ」
ベーラムが答えて言った。
乗馬を得意とする彼は、騎士団の保有する馬の管理も任されているのだという。それを聞いた馬好きのオザンが、彼に馬を見せて欲しいと頼んできた。
「何度か馬場に連れて行っているうちに、乗ってみたいと仰られてな」
初めは、立っている馬に乗るだけだった。そのうち、馬場の中で少し馬を歩かせ、やがてオザンが自分で手綱を握るようになった。
最近では新市街の壁の外に、ベーラムと共に馬に乗って出かけることもあったという。ただ、一人で遠乗りができるほどの腕前はまだなかったという話だ。
だから、もしも乗っている馬が暴れ出したら、オザン一人でなだめて乗り続ける、あるいは安全に馬から下りることは難しい。
事実昨夜も、彼は水上に立つ馬の背からすぐに振り落とされてしまった。
「壁の外に出かけるのも、もう少し上達してからの方がいいと、常々言っていたのだがな……」
苦渋の表情でベーラムは言った。
ちょうど一人で手綱が握れるようになったオザンは、この新たな趣味に中途半端な自信がついてきた頃であった。
もっとできる、もっと一人でやりたいと──ある意味で、最も事故の多い時期である。
そう考えたベーラムが、口うるさくオザンの先走りを注意していたものだから、欲求不満も溜まっていたのだろう。それで、夜道で見つけた馬に跨がり、自分一人で連れ帰ってやろうと考えてしまったのか。
「そうですか……」
言って、リジャールはもう一度、堀割の方を見た。
ケルピーの話がよく知られ、水辺で見つけた馬にはけっして跨がろうとはしない者が多いこのローランで、オザンは水棲馬にとって格好の獲物だったのだ。不幸にも、その餌食になりうる条件が重なっていた。
犠牲になるべくして犠牲になってしまったような、不運な男だったのである。
セミルとベーラムに礼を言って別れたリジャールは、堀割に沿って歩き始めた。
左右が石造りで、いかにも”お堀”という趣のこの水路は、しばらく進むと二本に分かれる。
一本はオザンの家をはじめ、大きなお屋敷の建ち並ぶ一帯をぐるりと囲むように流れ、もう一本は東の方へと伸びていく。
リジャールは、その東に伸びる堀割の方に足を向けた。
お堀の水は、リジャールの進行方向からゆるやかに流れてきていた。水路の上流に向けて歩いているのだ。
もう少し進めば、やがてこの堀は川にぶつかるはずだった。ファティマと子供達が釣りをしていたあの川である。そこが、この堀の水源だ。
新市街の中を流れるこの川も、元々は人工の水路である。だが、生活用水を兼ねたこの川の岸は土で、そこには藪や灌木が自生していた。石造りの建物の並ぶこのローラン新市街で、数少ない自然の緑が見られる場所だ。
川はいくつもの水路を分岐させながら市街を縦断するように流れ、やがては大河アンタルヤへと還る。
分岐した水路のほうは堀や運河、生活用の上水道となって市内のあちこちを流れた後に、暗渠となって下水に変わる。その先がどうなっているのかは、リジャールは知らない。おそらくは、やっぱり最終的にはアンタルヤに還るのだろうが、自分の目で確認したことはなかった。
暗渠の入り口は金属製の柵と金網で厳重に塞がれ、水は流れ込むことができてもヒトは入ることができない。そこに、文字通りの”地下組織”ができてしまうことを懸念したことによる処置だ。
そしてそれは、アンタルヤから市内を流れる川、そしてこの川からお堀へと続く取水路の部分でも同様である。これらの場所には水門が設けられ、衛兵の詰め所もあって、昼夜を問わず異常がないかを監視していた。
衛兵隊が、今回の事件をケルピーの仕業と断定しきれない理由の一つがそこであった。この魔物が、いったい何処から市内に入り込んできたのかという問題がある。今後の警備のことも考えると、その点はきちんと明らかにしておかねばならない。
そこで今日、衛兵隊ではまず、川から堀への取水部分にある水門の点検を行うことになっていた。水中の金属柵部分に欠損がないかを確認するのだ。
その作業は水門番の衛兵達で行うという話だったから、リジャールには特に何か役目が割り当てられているわけではない。
それでも彼が水門に向かったのは、自分自身で柵に欠損がないかを確認しておきたいという気持ちもあったが、単純に好奇心を抱いたからでもあった。
水中にある柵を確認するには、当然のことながら、誰かが水に潜らねばならない。
ただ、相当の水量と水の流れのある場所だろうから、潜って見てくるだけでもかなり大変な作業だろう。
そこまで泳ぎに長けた者が衛兵隊にいただろうか。いったい、どうやるつもりなのだろうと、単純に興味をそそられていた。
水門の所まで辿り着くと、詰め所の周りにはちょっとした人だかりができていた。リジャール同様、手の空いている者達が珍しい作業の見学にやって来ているのだ。
その中に懇意にしている衛兵を見つけたリジャールは、近づいて彼に話しかけた。
「水中の柵の確認なんて、誰がどうやってやるんだ?」
「まあ、潜るしかないという話だったが……」
その仲間も、先ほど水門番の者に同じ事を尋ねたようである。
泳ぎの得意な者が潜っても良いが、息を止めていられる時間は限られるし、短時間の目視では見落としがあるかもしれない。
だから魔法の力を借りるしかない、という話になっているらしい。
「水の神・フルーブや、海神・オセアンの神官のなかには、水中でも呼吸ができる奇跡を使う者がいるらしいな」
少し乱暴なやり方になるが、風の神・ヴァンの神官も、体の周囲に風と大気を纏わせることで、ある程度の時間であれば水中で息をすることができるという。
「祈祷師なら、水の精霊や風の精霊に頼んで同じことができるだろう」
ただ、衛兵隊には祈祷師はいないから、この場合は冒険者の店でそれができる者を雇ってこなければならない。
神官にしても同様で、公の仕事とは言え、奇跡を使ってもらうためにはお布施を支払う必要がある。
それで今回は、英雄神の神殿に頼むことにしたという。ここならば、「英雄に近づくための社会奉仕」ということで、安く衛兵隊に協力してくれる。これまでにも何度か、水門の点検で力を借りているという話であった。
「英雄神に、水に潜れるような奇跡があるのか?」
「いや。そんなものはないそうだが、あそこは色んな特技を持った神官がいるからな」
他の神の神官と違って、英雄神の神官は、生まれつき奇跡を使う力を授けられているわけではない。神々や人々に奉仕し、「英雄に近づいた」と神に認められた者のみが、奇跡を使うことができるようになる。
その英雄に近づく“奉仕”の手段として、英雄神の神官には戦士や魔法使いなどの、まるで冒険者のような特技を持ち合わせている者が多いのだ。
「英雄神の神殿に、祈祷師なんていたか?」
リジャールはまた訊いた。
彼も、何度か英雄神の神殿には赴いているが、そのような者がいるという話は聞いたことがなかった。
「そうではなくて、魔術師らしいな」
「魔術師……」
それならば、リジャールは一人該当する者を思いつく。
実際に魔術を使っているところを見たことはないが、確か彼女は魔術師の手ほどきを受けたことがあると言っていた。
そこでリジャールは、仲間と別れて詰め所の中を覗き込んでみた。中にはやはり、リジャールの予想通りの人物がいる。強面の衛兵達に囲まれて、顔を下に向けて所在なさげに座っていた。
「ファティマさん」
そう声をかけて、リジャールは詰め所の中に入っていった。
「リジャールさん?」
緊張の面持ちでうつむいていた彼女が、顔を上げてリジャールの方を見た。知り合いに会って安心したのか、少しだけその表情がほころぶ。
なんだか、独身で女っ気に飢えた仲間達からの視線が痛かった。リジャールは故郷に心に決めた女性がいるから、ファティマとは何でもないのだと、これからしばらく喧伝して回らなければいけないかもしれない。
「ファティマさんが魔術師だとは聞いていたが……水に潜れるような魔法も使えるんですか?」
完全に興味本位でリジャールは訊いた。
「そういう魔術もありますけれど、残念ながらこの場所では難しいです」
魔力を使って物質の性質や性状を変え、術者の思う通りの現象を起こさせるのが魔術である。
水の性質を変えて呼吸ができるようにすることは可能だが、ここは川であるから、後から後から新しい水が流入してくる。それだけ大量の水の性質を変えようと思えば、膨大な魔力が必要となるのだ。ファティマの実力では、現実的ではない。
「もう一つの方法は、潜るヒトの身体の性質を変えることですけど……」
魚のように水中で息ができるよう、身体を作り替えるのである。
「ただ、人体を作り替える術はリスクも伴いますし、嫌がる方も多いです」
それは分かると、リジャールは首肯する。例え具体的な危険がなくとも、「今からあなたの身体を作り替えます」などと言われたら、彼だって少し躊躇する。
「ですから、今回はこれを使います」
言って、彼女は自身の隣に座らせている物をリジャールに見せた。
木で造られた等身大の人形だった。人形劇で使われるもののように関節部分でパーツが分かれており、体の中を通した紐でそれぞれが繋げられている。可動式の人形なのだ。
これをどう使うのかとファティマを見たリジャールに、彼女が言った。
「私、ゴーレムの製法に興味があるんです」
そう言って、ニッコリとファティマが笑う。
その目は、いつも子供達に向けているような優しげなまなざしではなく、研究と探求心に取り憑かれた者特有の、どこか酔ったような輝きを帯びていた。




