その4 水上馬の犠牲者
その日の朝、衛兵隊の詰め所に出勤したリジャールは、昨夜、新たな水死者が出たことを知った。
水路の多いローランでは、水の事故で命を落とす者は少なくない。だから水死者自体は珍しいことではないのだが、昨夜発見された遺体は、どうもケルピーに殺されたようだと、朝から衛兵達の間で噂になっていた。
「ケルピーに殺されたという根拠が、何かあるのか?」
昨日のファティマとの会話があったから、リジャールは自身が見つけた遺体とケルピーとの関連を疑っている。そこで、夜番明けの衛兵にそう聞いてみたのだ。
「目撃者がいるんだよ」
「目撃者?」
「そうだ。殺された者と一緒にいた奴が、水の上に立つ白い馬を見ている。犠牲者はその馬に跨がって、水の中に振り落とされたらしい」
一緒にいた者が慌てて近くの衛兵隊の詰め所に走り、急を知らせた。
だが、数名の衛兵が現場に到着した頃には既に遅かった。被害者は、顔を水につけた状態で川に浮かんでいたという。遺体に大きな傷はなく、溺死と考えられた。
「喰われたような跡はなかったんだな?」
「なかった」
そこは、リジャールの見つけた水死体とは大きく違う。右上腹部にも傷はなかったという話だ。
ただ、衛兵隊が現場に駆けつける途中、遠くで馬の蹄の音を聞いた気がするというから、彼らの接近に気づいた魔物は、犠牲者を喰らう前に逃げ出したという可能性はあった。
「馬は、水の上に立っていたのか?」
リジャールは訊いた。水上に立つ馬が走ったときにも、蹄の音がするのだろうかと思ったのだ。
「そこは、はっきりしないな」夜番の衛兵が答えた。「なにせ暗かったから。ただ、現場は馬が立てるような浅瀬ではなかった」
市街を流れる堀割が、事件の現場だという。
豪商や騎士貴族の大きなお屋敷が立ち並ぶ一帯の裏手にあたる閑静な場所で、夜になると灯りも人通りも少ない。
その部分を流れる水路は、有事の際に外敵の侵入を阻む堀としての役割もあった。だから川岸のようなものはなく、地面が崖のように途切れてその下に水が流れている。現場となった場所には、歩いて渡れるような浅瀬もないらしい。
それなのに、馬は堀割の中に立っていた。足元は堀の陰に隠れて見えなかったが、背中に鞍を着けていて、ちょうどその鞍から垂れ下がるアブミが、地面と同じくらいの高さだったという。
「それで、足をかけやすかったんだろうな」
被害者はついつい馬に近づき、アブミに足をかけて跨がってしまった。そして次の瞬間、堀割の中に振り落とされたのだ。
「そんな怪しげな馬に、どうして乗ろうと思うんだ……」
思わずリジャールは呟いた。
「相当、馬好きの御仁だったらしいな」
集まってきた衛兵達の中にも、リジャールと同じような感想を持った者がいたらしい。呆れたような、責めるようなその視線に耐えかねたのか、衛兵を呼びに行った者は、しきりに「旦那様は最近、乗馬に凝っていらっしゃって」と言っていたそうだ。
「旦那様? 被害者は、商人か何かなのか?」
「そうらしい。俺たちを呼びに来たのは、その召使いだ」
商人仲間の家で酒を酌み交わした帰り道だという。迎えに来た召使いと共に千鳥足で歩いていて、災禍に見舞われた。
「あの辺りに住んでるってことは、結構な大商人じゃないか?」
「そう思うが……」
そこを調べるのがお前の役目だろうと、仲間の衛兵が言い、リジャールはそういうことかと納得した。
細身の体型で、衛兵としてはあまり押し出しがよろしくないリジャールの主な仕事は、探索方なのである。情報を集めて歩き回り、上に報告して治安維持の役に立ててもらう。
相次ぐ水死者に、ローランの役人達もさすがに放ってはおけぬと思ったのだろう。
案の定、眠い目を擦りながら夜番の衛兵が帰っていった後、リジャールは隊長に呼ばれてこの事件の調査を命じられた。本当にケルピーの仕業なら放置はできない。騎士団にも応援を要請せねばならないだろう。
一方、ただの事故であれば、忙しい騎士様の手を無駄に煩わせることになる。そうならないためにも、魔物の仕業なのか事故なのかをはっきりさせろ、ということだった。
死んだ商人は、名をオザンといった。薬種問屋で、ローランの富裕層に向けた珍しい薬も扱っているらしい。リジャールが訪れたオザンの屋敷はかなり大きく、相当に儲けているであろうことが窺えた。
門の前にはいくつもの馬車が止められ、その近くで御者や召使いらしき者達が所在なさげに待機している。弔問客が、多数訪れているのだ。
オザンは、騎士や貴族の屋敷にも出入りしているという話であった。門の前にいる者たちの中には、御者や召使いであるにもかかわらず、明らかにリジャールよりも身なりの良い者がいる。相当の金持ちか貴族が、オザンの遺族に会いにやって来ているのだろう。
屋敷の門番に来訪の理由を伝えたリジャールは、やはりというべきか、屋敷の中にまでは入れてはもらえなかった。貴族様がいらっしゃる場に、こんな薄汚い格好の下っ端衛兵が招き入れられるはずもない。
屋敷の横に使用人専用の出入り口があるから、そちらに回るように言われたリジャールは、素直にその言葉に従った。
歩きながら、屋敷の庭を囲う高い塀へとリジャールは目を向けた。大きなお屋敷が建ち並ぶこの一角の中でも、一際高い塀だった。塀の上には、折れ曲がって先端の尖った金属棒が無数に設置してある。盗人返しだ。
探索方であるリジャールは──あまり大きな声では言えぬが、塀や壁を乗り越えて誰かの屋敷に侵入することもままある。だからどうしても、オザン家のこの高い塀に目がいってしまう。
相当に盗賊を警戒した造りだと思えた。
珍しい材料を使った薬の中には、目の玉が飛び出るほど高額な物もあると聞くから、あるいはそういった薬をこの敷地内で保管しているのかもしれない。
辿り着いた使用人専用の通用門の前には、一人の男が立っていた。この屋敷の執事のようで、リジャールを見るとぺこりと頭を下げた。
正門から入れるわけにはいかないが、主人の死亡原因の調査をしている衛兵に、あまり失礼があってはならない、とも思ってくれてはいるのだ。
執事に案内されたリジャールは、通用口から裏庭を横切り、勝手口から屋敷の中へと招き入れられた。使用人部屋の一室で、昨夜オザンが亡くなった時に一緒にいたという召使いを呼んでもらって話を聞く。
セミルという、まだ年若い少年であった。ただ、体格はかなり良く、リジャールよりも体の幅がある。主人が夜道を歩くときなどの護衛も兼ねて雇われているようだ。
昨夜も、帰りの遅いオザンを心配した奥様が、セミルに主人を迎えに行くように申しつけたらしい。
「オラがランタンを持って、旦那様と一緒に堀割沿いを歩いて帰ったんですだ」
そう話すセミルの証言は、夜番の衛兵から聞いた内容と大差ないものだった。
堀割の所で白い馬を見つけたオザンは、その美しい毛並みにふらふらと引き寄せられるように近づいていき、馬の背に跨がった。
「オラぁ、止めたんですけども……旦那様は、馬がお好きだで……」
言い訳をするようにセミルは言った。
オザンが馬好きだろうということは、ここに来るまでの短い間にもリジャールは痛感していた。家人のプライベートスペースであろう庭の中には、いくつもの馬の象が置かれていたのだ。
この使用人部屋の中にまで、木彫りの馬の置物が飾られている。
「旦那様が背に跨がった瞬間、馬がするりと動いて地面から離れましただ」
あっ、と思ってセミルは手伸ばしたが届かず、次の瞬間には馬が暴れ出した。そしてオザンは水に落とされたという。セミルがいるのとは反対側の岸の方に、身体を傾けるようにして落ちていった。
オザンがもがく音は聞こえたが、暗くてランタンを掲げても主人の体は見えず、それでやむなくセミルは、応援を呼びに近くの衛兵の詰め所まで走ったのだ。
「きみは、ケルピーの話は知っていたかい?」
リジャールは訊いた。
セミルの言葉には訛りがあった。肌も──ファティマほどではないが、かなり濃い色をしており、ローランの出身者ではないように思えた。であれば彼も、ケルピーの昔話を知らない可能性がある。
案の定、セミルは答えて言った。
「昨夜、衛兵さんに聞いて初めて知りましただ……」
だから、夜道で水辺に立つ馬を見ても、生粋のローラン人ほどは警戒しなかったのだ。
最近、ケルピーらしき馬の目撃例が相次いでいるということも、セミルは知らなかった。ファティマや子供達も知らなかったし、まだ巷間ではそれほど噂にはなっていないようである。
そして、オザンもケルピーの話は知らなかったのではないかと、セミルは言った。
「旦那様は、オラと同郷なんですだ」
それで、数いる使用人候補の中からセミルを選んで雇い入れてくれた。
ローラン旧市街の東方にある草原地帯が、彼らの故郷だという。そこは遊牧民の多い地域で、彼らの祖先も馬に乗って草原を駆け回っていた。オザンの馬好きの所以も、その辺りに理由があったのではないか。
草原で採れる薬草から作った薬を売り歩きながら、オザンは上京してきた。ローランに辿り着いてからは、故郷の遊牧民を通じて東方の珍しい薬を仕入れて高値で売った。これが当たって、オザンは一代で巨万の富を築き上げたのだ。
それまで趣味らしい趣味を持たなかったオザンであったが、商いが軌道に乗って少し自分の時間が取れるようになった頃、乗馬を始めた。
商売を通じて、乗馬を得意とする騎士と知り合ったのだという。
「ベーラム様と仰る方で、奥様のご病気を治すために旦那様から薬を買っていらっしゃっただ」
残念ながらその妻は亡くなってしまったが、ベーラムは安く薬を譲ってくれたオザンに感謝し、彼が馬好きだと知ると乗馬を教えてくれるようになったという。
オザンはちょうど一人で馬を操れるようになった頃で、それでついつい興に乗って、夜道で見つけた白馬に跨がってしまったのだ。
その現場の詳しい場所を訊いたら、セミルがそこまで案内してくれると言った。執事からすでに許可を得ているという。
そこで二人は立ち上がり、馬の彫像が立ち並ぶ庭を通って通用口に向かった。
高い塀の一角に設けられた、地味だが頑丈な造りの扉をくぐりかけたところで、セミルが突然に足を止めた。
どうしたのかと思いながら彼の視線の先を見ると、通用口の前に一人の男が立っていた。中肉中背だが、袖から見える腕は筋肉質で逞しい。頭にターバンを巻き、街中だというのに肩当てや胸当てといった鎧を身に着けている。
「ベーラム様……」
セミルが言って、恭しく頭を下げた。
先程の話に出てきた、オザンに乗馬を教えていたという騎士だ。
いかにも使い込まれて薄汚れてはいるが、ベーラムの来ている鎧は金属製だった。胸には騎士団の紋章が彫られている。
遊牧民を祖とし、伝統的に馬上での戦いを得意とするタラマカンの騎士の鎧は、肩や胸などの急所だけを守ることで軽量化を図っている。
だから、街中でも問題なく歩き回ることができるはずだが、太平の世が続き、日常ではもう鎧など身に着けない騎士も増えている昨今、ベーラムの伝統的で実戦的な騎士の装いは、いかにも真面目で実直な印象をリジャールに与えた。
「セミル……」痛ましげな表情で、ベーラムが口を開いた。「オザン殿が亡くなったと聞いてやって来たのだが……」
「へえ……」
昨夜、水の事故で……。
そのセミルの返事を聞いたベーラムが、沈痛な表情で顔を伏せた。
しばらく死者を悼むように目を閉じた後、顔を上げてベーラムが言った。
「事故と言ったが、いったいオザン殿は、どのように亡くなられたのだ?」
問われたセミルが、チラリと伺うようにリジャールの方を見て、それでベーラムは彼の存在に気づいたようだった。
「そちらは……?」
「旦那様の事故の調査をされている衛兵様で……」
「リジャールと言います」
そう名乗り、リジャールは頭を下げた。
「これから彼に、オザン殿の亡くなった場所に案内してもらうつもりでした」
それを聞いたベーラムが、少し考え込むようにした後に言った。
「そういうことであれば、私も同行して構わないか? 良ければ、道々事情を聞かせて貰いたい」
生前のオザンのことをよく知るであろうベーラムの話は、リジャールも一度は聞いておきたいと考えていた。だから、この申し出はリジャールにとっても有り難い。
丁寧に承諾の意を示し、リジャールはセミルとベーラムと共に堀割の方へと歩きだした。




