その3 二つの水死体
リジャールが、英雄神の神殿にいるファティマを訪ねることができたのは、結局、翌日の昼過ぎになってからであった。
川から水死体を引き上げてしまった彼は、ファティマに頼んで近くの詰め所に応援の衛兵を呼びに行ってもらいつつ、自身はその水死体の検分を続けた。
一目見て、ただの溺死でないことは瞭然であった。右上腹部に開いた穴もそうだが、身体の至る所に欠損がある。比較的新しい遺体のように見えたから、腐乱して失われたわけではなさそうだ。
その欠損部は、何かに食いちぎられた痕のように見えた。川魚や水鳥の仕業ではなく、もっと大きな動物だ。例えば、ワニとかサメのような。
推測できる口の大きさから察するに、サイズは人間より一回りか二回りほど大きいぐらいか。ただ、市街を流れるこの川に、そんな大きな肉食生物がいるという話は聞いたことがなかった。
ローラン新市街の傍を流れる大河・アンタルヤは、大陸でも屈指の幅と深さを誇る河だから、そこにはかなり大きな生物が棲んでいる。ワニは勿論、水竜が目撃されたことだってある。
アンタルヤに繋がる支流にも、それらの巨大生物が入り込んでくることがままあり、旧市街の方では町中の水路にワニが出て大騒ぎとなったり、水棲の魔物が現れて冒険者に退治を依頼したり、ということがたびたびあった。
だが、新市街においては、そのようなことはあり得ないのだ。
タラマカン首長国の首都・ローランは、大河アンタルヤを挟んで旧市街と新市街とに分かれている。大河のほとりに自然に人が集まって形成された旧市街とは異なり、新市街の方は人工的に造られた街だ。
敵国の侵攻や野党、あるいは魔物の侵入を防ぐため、新市街はその周囲をぐるりと高い壁で囲まれ、さらにその周囲には水堀が張り巡らされている。
新市街を流れる川の水は全てこの掘を経由しており、壁をくぐる部分には何重もの鉄格子や水門を設けて、水棲の魔物や泳ぎに長けた敵国の間者が入り込むのを防いでいた。
堀を通じて大河アンタルヤから市街に入り込めるのは、せいぜいが小魚程度なのである。昨日、子供たちが釣っていた魚も、元を辿れば稚魚の時に鉄格子をくぐり抜けた魚が大きくなったものか、人工的に放流された魚の子孫かのどちらかだ。
あるいは仔ワニなどであれば、鉄格子をくぐって市内に入り込むことは可能かもしれない。だが、人間大まで大きくなるにはエサの量が少なすぎる。新市街の川には、あまり大きな魚はいない。
にもかかわらず、リジャールが発見した遺体には何か大きな動物に食いちぎられた跡があった。彼だけではなく、死体を検分した者達の誰もが同じ感想を得ていたから、これについては間違いがないと思う。
死亡した後に食われたのか、泳いでいるところを食い殺されたのかは分からない。
ただいずれにしろ、市内の川に人間を噛み殺せるほどの大きさの生物が出現したことだけは確かで、衛兵隊の詰め所はたちまち大騒ぎになった。
しばらくは市民達に、川での遊泳を禁止せざるを得ない。
その生物が、どこからどのように入り込んだのかも調査せねばならない。
勿論、最終的には捕らえて処分する必要があるが、その生物の正体によってはこの仕事は衛兵隊では手に余る可能性もあった。
ここのところ目撃談が続いている、ケルピーの仕業ではないかという意見が出たのだ。
もしもそうだとすると、相手は動物ではなく魔物である。騎士団に応援を頼むか、冒険者に依頼するかしなければ、退治は難しいだろう。
水死体の検分だけでなく、そのようなことも話し合い、上の判断を仰ぎ、それに従ってまた対応策を練る。そんなことをしているうちに昨日は終わってしまい、今朝も朝から巡視経路の確認や分担をしているうちに、時間は飛ぶように過ぎてしまった。
ようやく隊長に、「相手がケルピーなのだとすれば、まずはそれがどんな魔物かよく知る必要がある」というリジャールの意見が通り、巡視の当番を外れてオウル神殿に出向く許可を得ることができたのは、正午を知らせる鐘の音が鳴ったすぐ後のことであった。
昨日、ケルピーの名前は出していたから、リジャールが尋ねたときには、ファティマは既に資料室からケルピー関連の書物を集めておいてくれていた。
「ケルピーが出たのですか?」
そう訊いてきた彼女に、リジャールは事の次第を説明する。
数ヶ月ほど前から、主に夜中に、川の上に立つ白い馬の目撃例が相次いでいた。水の中ではなく、水の上に立っているのだという。
最初は、酔っ払いが川縁に立っている馬を見間違えたのだろうと、衛兵隊でもさほど気にも留めてはいなかったのだが、あまりに目撃証言が相次ぐので、ようやく川の傍の警備を強化しようという話になった。
その矢先に起きたのが、昨日の水死体の発見である。
「それまで、ケルピーの犠牲になった方はいないのですか?」
「はっきりそうだと言える者は、という意味では」
目撃者の多くは、ローランに伝わるケルピーの昔話を知っていた。だから、水上に立つ馬を見た瞬間に泡を食って逃げ出している。
ただ、一人でいるところをケルピーに出くわし、襲われた者がいないとは言いきれなかった。目撃者がいなければ、そして遺体が揚がらなければ、行方不明ということで話が終わってしまうからだ。
「ただ……」
昨日彼らが見つけた遺体は、少なくとも最初の犠牲者ではないのでは──という話が出ている。
死体の右上腹部に開いた穴を見た衛兵の一人が、一週間程前にも似たような水死体があったと言い出したのだ。
その遺体はかなり腐乱していたから、身体の各部が欠損していても、そのときはあまり不審には思わなかった。流されているうちに、岩か何かにぶつかって欠損したのだろうと考えたのである。
右の腹に開いている穴だけは、水死体ではあまりお目にはかからないもので、そこにはさすがに違和感を覚えたらしいが、尖った石にでもぶつけたのでは、という結論になったという。
ただ、いま思えばその水死体の様子は、昨日発見されたものの状況とよく似ていたと、その衛兵は言いだしたのだ。
「人間の肝臓は、右腹の上の方にあるそうですね」
リジャールが確認するように言って、ファティマは黙って頷いた。
「だから、二つの遺体はケルピーに喰われたのではないのかと、そういう話になったんです」
穴のある場所を中心に、遺体からは肝臓をはじめとする臓物が抜け落ちていた。昨日の遺体も、一週間前に揚がった水死体もそうである。その穴から、内臓を魔物に喰われたのではないかという話になっていた。
だが、そのリジャールの言葉に、ファティマは怪訝な顔をして首をかしげた。
「ケルピーに?」
少し何かを考えるような顔をした後、彼女は言った。
「そもそも、この辺りにもケルピーは出るのですか?」
え? と思って彼女の顔を見たリジャールに、申し訳なさそうにファティマは続けた。
「ごめんなさい。私は、この辺りの出身ではないものですから」
彼女の褐色の肌はローラン出身者にはあまり見ないものだから、リジャールはそのことを薄々とは予測していた。
聞けば、彼女のルーツはタラマカン首長国の南方にあるという。
短い草の生える草原地帯が多いタラマカン首長国だが、南方には砂漠地帯がある。そこで暮らす遊牧民が、ファティマの祖先であるそうだ。
それが彼女の祖父の代に北上し、ローランの南東にある街へと移住した。ファティマの祖父はそこで、とある魔術師に弟子入りしたのだ。遊牧を続ける一族から離れ、市井の魔術師としてそこに定着した。ファティマの褐色の肌は、祖父の血が色濃く出たものだという。
その祖父の開いた魔術の店は、今も彼女の父が引き継いでいる。
父は娘にも魔術師になってもらいたいと望んでいたし、実際ファティマは幼少より魔術の手ほどきも受けていたらしいのだが、結局彼女は英雄神の神官になることを選び、首都の神殿に入信してしまった。
「ですから私は、この辺り固有のお話には詳しくないんです」
文書に残るような記録ならばともかく、主に子供の時分に大人達から聞かされるような話に彼女は疎いのだ。子供の頃の彼女は、ローラン辺りに伝わるのとはまた別の昔話やお伽話を聞かされていた。
そこでリジャールは、このローランに伝わるケルピーの昔話を彼女に語って聞かせた。
語り終えると、ファティマはしばし考え込む様子を見せた。
「この辺りにも、ケルピーは出るのですか……」
先程と同じことをまた口にする。
彼女が言うには、ケルピーは主に大陸の北西部に出没する魔物であるという。
ローランも地理的には大陸の北西部にあると言えるが、タラマカン首長国全体で言えば、この国はむしろ大陸中央部の国という印象が強い。広大なラグアース大陸の、北西部と中央部を繋ぐ部分に位置しているのが、ローランなのである。
一般には、大河アンタルヤを境として大陸北西部と中央部を分けることが多いから、同じ街であるにも関わらず、河の西側にあるローラン新市街は大陸北西部だが、河向こうの旧市街はもう、大陸中央部ということになるのだ。
「おれは旧市街の出身ですが、ケルピーの話は、昔話として子供の頃に良く聞かされましたね」
リジャールは言った。大陸中央部にも、ケルピーの話は伝わっているということになるだろう。
子供の頃から新市街で育った者も、ほとんどがケルピーの話は知っている。少なくとも、リジャールの衛兵仲間は全員知っていた。
ただ、実際にケルピーを見た、あるいはその犠牲となった者の話は、リジャールも含めてこれまで誰も聞いたことがなかったようだから、昔話は有名でも、実はこの地方では珍しい魔物なのかもしれない。
「北西部でも、そう頻繁に現れる魔物ではないようですが……」
言いながら、ファティマは集めてきた資料をパラパラとめくりはじめた。昨日のうちにそれらを読んで、彼女なりにまとめたことを説明してくれるようだ。
ありがたく、リジャールはファティマの話を拝聴することにした。
ケルピーが邪神の眷属であるかどうかは、諸説ある。
だが、わざわざ人を背に乗せてから襲うという、迂遠にも思えるやり方をとっていることから推察すると、少なくとも他の邪神の眷属のように、何が何でも人間を根絶やしにしてやろうとまでは考えていないようだ。
昔話でも、カシムは襲われずに助かっている。背に乗りさえしなければ、襲ってはこないのだ。
ただ、肉食で人間を食べる魔物であることは間違いがない。
実際にケルピーと戦った者によると、この水棲馬は存外に知能が高く、水の精霊を操ったりもしていたようだから、あるいは妖精の一種なのではないか、という説もあるという。
「ローランの昔話では白馬のようですが、黒馬だったという話もあるようです」
毛の色は、様々なのだ。ただ、いずれも美しい毛並みをした馬ではあるらしい。
それでついつい──水上に立つ馬という不自然さを気にかけずにその背に乗ってしまうと、ケルピーは突然に水の上を走り出す。そして、水の深いところで乗り手は振り落とされ、水に沈められて食い殺されてしまうのだ。
「ケルピーに喰われた者の遺体は、ほとんど揚がることがないそうです」
水の深いところで襲われるからかと思ったら、どうもそうではないらしい。
「全て、ケルピーに食べられてしまうのです」
骨まで残さずに食い尽くすのだ。見た目の美しさとは裏腹に、相当に凶暴で大食いの魔物のようである。
「ただ、どういうわけか肝臓だけは、食べずに残すみたいですね」
それで、犠牲者の肝臓だけが翌朝になって水に浮かぶのだ。そしてそれを見た者たちに、昨夜その場所にケルピーが現れたことを知らせる。
カシムの兄も、殺された後に肝だけが水に浮かんでいた。
そのファティマの話を聞いたリジャールは、先程なぜ彼女が怪訝な表情をしたのかを理解した。
リジャール達がケルピーの仕業かもしれないと考えた水死体は、ケルピーの犠牲者の様相とはあまりにも異なっているのだ。
リジャールが発見した遺体は、喰われた跡はあったが身体の大部分は残っていた。だからこそ水死として認知されたわけだが、あの遺体がケルピーの犠牲者ならば、その死骸はほとんど残らないはずなのである。
加えて、右上腹部の傷だ。
衛兵隊では、あの傷口から肝臓をはじめとする内臓が喰われたのではないかと考えていた。だが、ケルピーの仕業だとすれば逆のはずである。肝臓だけが、喰われずに残るのだ。
してみると、あの遺体はケルピーにやられたものではないのだろうか。連続した奇妙な水死体と、相次ぐケルピーの目撃とは分けて考えた方がいいのかも知れぬ──。
ファティマの話を聞き、リジャールはそう考えた。
だがその二日後、ついに水上に立つ馬に跨がって命を落とした者が現れたのである。




