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ラグアース大陸の冒険者たち  作者: 浅谷一也
第六話 水面に立つ馬
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その1 水棲馬ケルピー(ローラン昔話)

 むかしむかしあるところに、カシムという名の一人の男がおりました。


 あるときカシムは、兄と共に酒を呑んだ帰り道に、広い川の傍の土手を歩いておりました。


 暗い夜でした。


 その日は満月のはずでしたが、厚い雲が空を覆っています。


 昨日までのローランは、珍しく三日三晩続く大雨に襲われていたのでした。


 満足に外に出ることもかなわず、その夜はカシム兄弟にとっては久しぶりの夜間の外出でありました。


 久々の酒を満足いくまで腹に入れ、千鳥足で歩く兄が、ふと立ち止まりました。


 水車小屋の傍でした。


 兄は、小屋の近くの一点をじっと見つめています。


 何を見ているのだろうと、カシムも目をこらしてそちらを見ました。


 少し離れたところに見える水車と彼らの間に、何かが立っているようでした。兄は、それに気がついて足を止めたのです。


 四本足で長い首の、大きな獣のように見えました。


 初めカシムは、その獣が光っているように思いました。暗い夜道に、浮かび上がるようにして立っていたからです。


 しかし、そうではありませんでした。


 細く長い足を持ったその獣は、白い馬なのでした。


 絹のように美しい白い毛が、わずかな光を反射して輝いて見えたのです。


「どこの馬だ?」


 カシムの兄が言いました。


 馬の背には鞍があるように見えましたから、何処かから逃げてきた馬ではないかと、兄は考えたようでした。


「綺麗な馬だなぁ……」


 ふらふらと、兄が歩き出しました。


 カシムの兄は、乗馬の名人として知られた男でした。


 馬がとても好きな男でもありました。


 綺麗な毛並みのその馬に、どうやら兄は一目で魅せられてしまったようでした。


 カシムも、半ば呆然としながらその馬を見ておりました。


 夜の闇の中に、わずかに見える黒い水車小屋を背景にして、すっくと立つ輝くような白い馬──。


 まるで、絵画の世界に迷い込んでしまったかのようでした。


 馬は、じっとカシムたちの方を見ていました。


 彼らを待ってくれているようにも思えました。


 その美しい馬に引き寄せられるかのように、兄が土手を下り始めました。


 暗い夜に川に近づくのは危ないと思ったカシムでしたが、兄を止めるのはやめておきました。


 馬は、水車小屋よりもだいぶ手前に立っています。


 あの水車小屋は確か、川の縁に建っているはずでした。水車はその一部が水の中に入っていますが、小屋部分は陸の上にあるはずです。


 まさにあの水車小屋のあるところが川と陸との境界なのだから、そこまで近づかなければ大丈夫。


 カシムは、そう思ったのでした。


 兄が、馬のすぐ手前に立ちました。


 自分の方に首を伸ばしてきた馬のたてがみを兄が優しく撫でてやると、馬がその背を兄の方へと向けました。


 乗ってもいいよと、そう言っているように思えました。


 カシムの兄が、馬の背に手を当てました。


 鞍から釣り下がるアブミに、兄の片足が乗ります。


 その瞬間、雲の隙間から隠れていた満月が顔を覗かせました。


 そしてカシムは見たのです。


 馬の足下に、月の光が反射しておりました。


 兄の足下には、月の光は映っていません。


 ちょうど馬の足と、兄の足の間を境界に、月の影が半月のように切れておりました。


 兄が立つ場所は、固い大地の上です。だから月の光は反射しないのです。


 では、あの馬の足が立っているところは──?


 さぁーっと風が吹き、馬の蹄のすぐ下の地面がさざ波を立てました。


 それでようやくカシムは気がつきました。


 馬が立っている場所は、地面ではないのだと。


 鏡のように平らな水面の上に、馬は立っていたのです。


 三日三晩にわたって降り続いた大雨が、川を増水させていたのでした。その縁は、水車小屋よりもだいぶ手前に来ていたのです。


 兄の立つ場所は元々低い崖のようになっている場所でした。


 兄はその崖の際に立っています。一歩踏み出せば、その先に地面はないという場所でした。


 だから、兄の足下までは水は来ていませんが、馬の立つ場所には水が来ているのです。崖と、増水した川のちょうど境の場所に、馬は立っているのでした。


 そしてカシムは見ました。


 馬の蹄は、少しも水に沈んではいませんでした。


 浅い水辺に立っているのではなく、平らな水面のその上に、白馬は立っているのでした。


 カシムの背が、ぶるりと震えました。


 水の上に立つことのできる馬が、ただの馬とは思えません。


 あれは、魔性の馬なのです。


「兄さん!」


 カシムは叫びました。


 しかし、その時にはもう遅かったのです。


 カシムの兄は、すでに地面を蹴って飛び上がり、完全に馬の背に跨がっておりました。


 兄の尻が、馬の背に触れます。


 その瞬間、馬が走り出しました。


 川の真ん中の方へ──。


 水車小屋のある辺りを通り過ぎたとき、ようやくカシムの兄も異変に気づいたようでした。


 慌てた兄が手綱から手を離してしまったとき、馬が勢いよく背を跳ね上げました。


 高々と宙に舞った兄の体が一回転し、大きな水柱を上げて川の中へと沈んでいきます。


 水中でバシャバシャともがく兄の体を、力強い馬の前脚が押さえつけました。


 やがて、ズブリとその馬の脚が水中に沈み込んでいきます。


 前脚、胸、下ろした鼻先と長い首──。


 兄を押さえつけたまま、馬の体がどんどんと水中に没していきました。


 ついに、暴れる兄が起こす水しぶきが消えました。馬の尻が沈み、兄も馬も、完全に水の中に入って見えなくなってしまいます。


 そして、川はまた元の通りに鏡のような平らな水面に戻りました。


 馬と共に水中に消えたカシムの兄の体は、二度と浮かび上がってはきませんでした。


 ただ翌朝、水車小屋の近くの水の淀んだ場所に、赤黒い肉の塊が一つ浮いておりました。


 それは、カシムの兄の(きも)でした。


 あの白馬は、ケルピーと呼ばれる魔物だったのです。


 水車小屋の近くに棲むこの水の魔物は、川が増水した時などに現れては、人がその背に乗るように誘い、そして川の真ん中で水に沈めて喰い殺してしまうのです。


 あの赤黒い肉の塊は、この凶暴な水棲馬に喰われてしまったカシムの兄の、唯一残された遺体なのでした。


 雨の後の夜、もしもあなたが水辺で馬を見つけても、けっしてその背中に乗ってはいけません。


 ケルピーはそうやって人を誘い、その背に乗った者を水に沈めてやろうと待っているのですから──。




 ※




 吟遊詩人が、まことしやかにケルピーの話を語る『朽ち木の羽蟻亭』。


 先程までリジャールという男とそこで食事をしていた女魔術師ファティマは、いまは一人、寝静まったローラン新市街の路上で、一歩一歩確かめるように足を動かしていた。


 数時間ほど前、彼女はとある事情で大量の魔力を消耗した。だが、今は美味しい食事と酒のおかげで、無事に魔力を回復させることができている。


 アルコールは、魔力の回復に有効なのだ。


 ただ、あまり飲み過ぎると今度は酔っ払ってしまって、せっかく回復した魔力の制御が難しくなるから、適量にとどめておくのが難しいところである。


 夜の街を見ながらファティマは、ふらつかないように足を前に出すのに苦労していた。


 やがて彼女の視界に、夜の市街を流れる堀割の光景が入ってくる。


 この辺りの堀割には柵のようなものがなく、地面が突然に途切れて堀に変わるから、足取りがおぼつかないときには、うっかり落ちてしまわないように注意が必要だ。


 暗い石畳の凹凸を目で確かめながら、ファティマは慎重に体を動かしていく。


 ふと、彼女は前方に光が見えることに気がついた。ところどころに設置してある常夜灯や、家々から漏れる明かりとは少し趣が違う、青みがかかった光だ。


 近づいていくと、淡い光の中に何かが立っているのが見えてきた。暗闇の中に輪郭だけが浮かび上がっている。


 四本足の生物のようで、馬であると思えた。暗くてよく分からないが、堀割の中に立っているようにも見える。


(あれはまさか……ケルピー?)


 ただ、色は先程聞いた吟遊詩人の話とは違っているようだ。白馬ではなく、黒い毛色のように見える。だから、光に照らされながらも輪郭以外は闇の一部のように見えるのだ。


 少し緊張しながら、ファティマは注意深くその黒馬のような生き物に近づいていった。


 その生き物もこちらに気がついたようだが、動く様子は見せない。つぶらな瞳で、じっと見つめ返してきている。


 カタン、カタンと、何処かから小さく水車の音が聞こえた。


 馬らしき生物まであと数歩という所まで歩み寄り、やはりその黒馬の姿をしたモノは堀割の中にいると、ファティマは確信した。ただ、蹄の位置はまだ見えないから、浅い水底に立っている可能性はある。


(この辺りの水の深さは、どれくらいだったかしら……)


 彼女がそう考えたときだった。


 ヒュウンッ!


 突然に、風切り音のようなものが聞こえた。


 次の瞬間、首に何かが巻き付く。


 あっ、と思ったときにはもう遅かった。


 強い力で首が引っ張られ、体が傾いていく。


 堀割の方へと──。


 両足が、地面から離れる。


 倒れ込むように堀の水の中へと落ち、バシャアンという音が、どこか他人事のように聞こえてくる。


 もがくように手足を動かし、何とか水面に出ようとするのだが、どういうわけか体が上の方に浮かんでいかない。


 水に落ちてからも、首が何かによって水底の方に引っ張られ続けていた。


(リジャールさん……!)


 先程まで一緒に食事をしていた男の名を心の中で叫びながら、ファティマの意識は徐々にその体から離れていった。

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