その19(終) 腕輪の習慣
「レオン、遅いわね……」
エレナは、”紅玉の波姫”号の寝室のベッドの上で、そう呟いた。
体調はもう完全に回復しているつもりなのだが、彼女を見張るように枕元に座るギムザが、まだベッドから出ることを許可してくれない。この魚人の神官は、変なところで心配性なところがあるのだ。
(このままじゃ、かえって体調がおかしくなるわよ……)
ずっと寝ていては、筋肉が萎えてしまう。
早く体を動かしたい。新しい剣の振り具合を試してみたい──。
そう身体をうずうずとさせるエレナの肌の様子を、先程入室してきたセシリアが入念に確かめていた。彼女がもう大丈夫だと口添えしてくれれば、エレナはこのベッドから解放されるだろう。
男性陣から見えないように毛布で隠しながらエレナの服の下を診察していたセシリアが、やがて顔を上げて口を開いた。
「もう心配はないでしょう。これ以上寝ているのは、かえって身体に悪いと思いますわ」
待ってましたと目を輝かせて、エレナは魚人の神官の方を見た。
「分かりました。貴女がそう仰るのなら」
ギムザが安堵したような息をつく。
彼の言葉に、がばっと飛び起きて、机の上にある新しい剣の方に向かおうとしたエレナに、ギムザが釘を刺してきた。
「でも、しばらくは無理をしないでくださいね」
言いながら、彼はどこか不安そうな眼差しをエレナに向けている。
だが、机上にある新しい剣を間近で見ると、エレナはもう我慢が出来なかった。新しい玩具を貰った子供のような気分に包まれながら剣の柄を握り、鞘に入れたまま軽く振って握りと重さを確かめる。
ギムザがはぁっとため息をつき、セシリアがうふふと声を出して笑った。
そんな彼女たちを微笑ましそうに見ていたフェリペが、やがて顔に寂しげな表情を浮かべて口を開いた。
「エレナ殿が回復したようで安心した。それではセシリア、我々はそろそろ……」
それを聞いたセシリアが、名残惜しそうに立ち上がる。
彼女たちは今日、王都に向けて出立することになっていた。
もともと二人はエレナの診察ではなく、別れの挨拶をするためにこの部屋に立ち寄ってくれたのだ。
「レオンには会っていかなの?」エレナは訊いた。
レオンはいま不在だ。グスマンの所に行っている。一連の事件の報告をし、今頃は領主から労いの言葉をかけられていることだろう。
エレナの問いに、セシリアが答えて言った。
「レオン様とは、グスマン卿のお屋敷に向かわれる前に挨拶を済ましておきましたので」
「そう……」
別れの寂しさに目を伏せたエレナに、話題を変えるようにセシリアが言った。
「その剣、気に入りまして?」
彼女の目は、エレナが握る新しい小剣に向けられている。
「すごく手になじむわ……。本当にコレ、私がもらってもいいの?」
セシリアとフェリペ、それにギムザの方に順に目を向けてエレナは訊いた。
その小剣は、ラウルとソレイユ神殿からの、今回のレオン達の働きに対する報償の一部だ。報酬は何がいいかと訊かれたレオンは、船の乗員達に配る現金の他に、魔法の武器を要望したのだという。
──また、どこかでロック・トロールに出くわさんとも限らんからな。
彼は、そう言っていた。
今回の冒険の反省として、石の身体、硬い身体を持つ相手にも対抗できる手段を欲したのである。
それで、いち早く王都に帰ったラウルが、王宮の宝物庫からセシリアに送ってよこしたのが、この小剣であった。すぐに下賜できるもので、レオンの条件に合う武具はこれだけだったという。
”岩砕き”と呼ばれるこの魔法の小剣は、持ち手が柄に気力を篭めることで、先端から衝撃波を発して対象を破壊する。ロック・トロールのような相手にこそ有効な武器であるとのことだった。
ソレイユ神殿から支払われた金貨を手下達に配ったあと、レオンはこの剣をエレナに渡すようギムザに言った。ちょうど彼女は、愛用の剣をダニーロに破壊されて、新しい武器を必要としていたところだ。
「でも私、今回なんの活躍もしていないんだけど……」
少し申し訳なさそうに、エレナは言った。
活躍していないどころか、敵の首領にあっさりとやられてしまい、しばらく寝込むことになって皆に迷惑をかけた。
それなのに、こんな高価な品を受け取ってしまっても良いものだろうか……。
「モノが小剣であれば、この船で一番それを上手く使えるのは貴女でしょう」
ギムザが言った。
あくまで、今後の冒険を見据えた適材適所の処置ということである。もしもこれが槍であればギムザが、曲刀であればレオンが持つことになっていただろう。
「そういうことなら……」
ギムザの言葉で己を納得させ、ワクワクする気持ちを抑えきれずにまた小剣を軽く振ってみたエレナに、フェリペが言った。
「気に入ってもらえたようで何よりだ。儂は、『腕輪でなくて良いのか?』とレオン殿には何度も確認したのだが……」
王宮の宝物庫にもソレイユ神殿にも、魔法の腕輪ならいくつかあるという。
「腕輪……?」
また、その単語──。
唐突とも思えるフェリペの発言に、エレナは訝しげに彼を見た。
この国のソレイユ神殿の頂点に立っていたという男は、窘められるようにセシリアに肘で脇腹をつつかれて苦笑していた。
「若い者は良いのう……」
なおもそう言ったフェリペをまたセシリアが肘でつつき、二人は最後の挨拶を述べて部屋を出て行った。
別れの寂しさは、フェリペの発言に対する怪訝な思いで完全に上書きされてしまった。
「何なのよみんな……腕輪、腕輪って……」
フェリペとセシリアを見送った後、独り言のように呟いたエレナに、ギムザが言った。
「この前サンレモニに来たとき、腕輪は結局買われなかったのですか?」
提督と一緒に、工房を兼ねた店で腕輪を選んでいらっしゃった──。
「……見てたの?」
ギムザの言葉に、渋面を作ってエレナは訊いた。
「ええ。私はあの時、提督と一緒にいましたから」
グスマンの館から二人で船に帰る途中であったという。港町でエレナを見つけたレオンが彼女の傍へと歩み寄り、ギムザも声をかけようとしたところで、二人が店先に並んでいる腕輪を物色しはじめた。それで、話しかける機会を逸してしまった。
「声、かけてくれれば良かったのに」
そう言ったエレナに、「はあ……」とギムザは応じた。
「私も槍を新調しに、武器屋に行きたかったものですから……」
邪魔をするのも野暮かと思い、彼は静かにその場を去った。
「野暮って……」
あのとき出がけにトマソンと交わした会話を思い出して、エレナはまた渋面を作った。
「結局、腕輪は買われなかったのですか?」
もう一度そう訊いてきたギムザに、エレナは「買わなかったわ」と答えた。
「そうだったのですか……」
何故だかギムザが残念そうな顔をする。
(いったい、何なの……?)
なぜ、彼もフェリペも腕輪のことをそうも気にするのか。
そう考えたエレナは、ふと思い出したことがあってギムザに訊いた。
「あのさ……フェリペ司教が捕まってた牢屋でのことなんだけど」
あのとき、牢内には生け贄にされて焼かれた犠牲者の遺体が放置されていた。男か女かも分からぬその焼死体を見て、ギムザは即座に「ご夫婦ですか?」と訊いたのだ。
どうして彼には、あの遺体が男女一人ずつのもので、しかも夫婦者であると推測できたのか。
そのときのギムザの視線は、遺体の片方がつけている腕輪の方に向けられていたようだったが──。
「ああ」エレナの問いに、何でもないことのようにギムザは答えた。「小柄な方のご遺体が、腕輪を身に着けていらっしゃったので」
(やっぱり、腕輪──)
そう思いながら、彼女は訊いた。
「腕輪をつけていると、どうしてご夫婦ということになるの?」
それを聞いたギムザの目が丸くなった。
「ご存じなかったのですか?」
「何を?」
そう答えつつ、何だかモヤモヤした予感が彼女の心に沸き上がってくる。
ギムザが言った。
「この地方では、昔から男性が女性に求愛する際に、腕輪を贈る習慣があるのです」
その愛を受け入れた女性は当然、渡された腕輪を身に着けるであろうから、腕輪を巻いた女性は既婚者、あるいは決まった相手がいる女性だということを意味する。
左手薬指に着ける指輪──結婚指輪や婚約指輪と似たような習慣なのだ。
それを聞いたエレナは、自身の顔にどんどんと血が昇っていくのを感じた。
国は違うが、この辺り出身のフェリペはその習慣を知っていたに違いない。セシリアも、フェリペから聞いて知っているのだろう。彼らの不思議な言動の正体はそれであった。
そして、レオンも当然その習慣は知っているはずだ──。
「ギムザ……」
茹で蛸のように頭のてっぺんまで火照っていくのを感じながら、エレナは言った。
「私がレオンと腕輪を見ていたことは……誰にも言わないでね」
「はあ……」
頭を掻きつつ、申し訳なさそうな顔でギムザが答えた。
「しかし、フェリペ殿やトマソン……主だった者たちにはもう話してしまいましたが」
それを聞いた瞬間、限界まで熱くなっていたエレナの顔からはついに炎が吹き出し、船内に彼女の金切り声が響き渡った。
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございました。
第5話は、これで幕引きとなります。
次話は現在執筆中ですが、再びローランを舞台にしたシティアドベンチャーになる予定です。




