その17 白骨島へ
三百六十度を青い海で囲まれた白骨島の岩山の上で、海賊バラクーダはじっと水平線を見つめていた。
足下に転がる白い石を爪先で弄びながら、大陸があるほうの海に目をこらし続ける。
「……来たな」
やがて、ぽつりと彼は呟いた。
平らな水平線の上に、帆船のマストが見えはじめていた。最初は点のようだったものが、徐々に大きくなってやがて船全体が見えてくる。
ヴァロアの海軍がよく使っている型の船だった。帆には大きくリヴォーリ侯爵家の紋が描かれている。
それを見たバラクーダは、ブルルと一つ身震いをした。背中を生ぬるい汗が流れ落ちる。
あの船がこの島までやって来て、そこに乗る者が上陸してきたら、もう後戻りは出来ない。
見る限り、ヴァロアの船は一隻だけだ。相手は、忠実に条件を守っている。
人質と身代金の交換に際し、バラクーダが提示したのは日時と場所、そして「護衛艦は付けずに、ラウル王子の乗る船一隻だけで島までやって来ること」という条件であった。
その代わり、金額に関しては相手が現段階で用意できている分だけでよい。金貨一万枚まではすぐに用立てできるという話だったから、それで良いとバラクーダは返事をしたのだ。
「急に金が入り用になったんでね」
そう言って相手には誤魔化したのだが、バラクーダがこの取り引きを急がねばならなかった事情は別にある。
その会合の少し前、彼は宿敵のレオンがオルレシア方面に向かったという情報を得ていた。
その理由は、すぐに察しがついた。
おそらくは邪神の神官・ダニーロの討伐に向かったのだろう。
レオンがダニーロのところに辿り着いてしまえば、バラクーダの元にフェリペはいないということがばれてしまう。
ダニーロがレオンを倒すということは期待できないだろう。妖魔を従えていることだけが取り柄の、あんな小者にレオンが負けるとは思えない。
そして邪神の神官を倒したレオンが帰還してしまえば、ラウルが身代金を支払いにこの島までやって来ることはもうない。計画は失敗なのである。
(だが、レオンがいないのは、むしろこちらとしてはラッキーだ。ヤツは、何をするか読めねえところがあるからな……)
バラクーダはそうも考えていた。
ラウル王子の乗る船一隻だけで、島までやって来ること──。
この条件を提示することが、今回の計画のキモなのだ。ここだけは、絶対に譲るわけにはいかない。
ラウルが「ついてくるな」と命令すれば、国軍もリヴォーリ侯爵家の船も、それを無視することはないだろうが、一人だけ──レオンだけは、ラウルが言うことを無視する可能性があった。
王子の命令よりも自身の判断を優先して勝手についてきてしまうということを、あの男ならやりかねないとバラクーダは思っている。
──島に行ける船が一隻だけとなれば、使うのは近くにいる王国海軍の船か、リヴォーリ侯爵家の船だろう。
バラクーダを庇護する男は、そう彼に説明していた。
そして、いずれの場合もその船を指揮し、ラウル王子の護衛を務めるのは、
──この私だよ。
そう言って、男はクツクツと笑ったのだ。
身代金を持ってこの島に上陸してきたラウルに”海賊”が襲いかかったとき、男とその部下の海兵達は、王子を守るための行動をとらない。
場合によっては、バラクーダと協力して王子を害する方に回る──。
ラウル王子の暗殺こそが、この計画の真の目的なのだった。
そのために、バラクーダを庇護する男は、自分とその腹心の部下だけが王子の護衛役になるという状況を作り出したのである。
現在のヴァロア国王・フェルディナンド三世の子供はラウルだけだ。そのラウルが死ねば、直系の王位継承者はいなくなる。
──そうなれば、次の国王はこの私になるのだよ。
そう、男は言っていた。
バラクーダには、彼が「次期国王は自分である」と確信している理由がとんと分からなかったが、それでもそうなってもらわねば困ると、切実に考えている。
彼はこれから、”王子殺し”という大きな罪を背負うのだ。その事実を隠蔽し、バラクーダを擁護してくれるような者は、”次期国王陛下”ぐらいしかいないであろう。
近づいてくる船を見据えながら、バラクーダはじっとりと汗ばむ手を服で拭った。
船影は、もうだいぶ大きくなってきている。まもなく、あちらも岩壁の上に立つ彼の姿を認めるだろう。
そうなれば、いよいよ──
「な……なんだ、ありゃあっ!?」
浜に降りるべくバラクーダが踵を返しかけたとき、手下の一人が西方の海を見て叫んだ。
驚愕の表情の手下の視線の先を追って、そしてバラクーダも目を見張った。
西の方の水平線に、白い波しぶきが上がっていた。
どんどんとこちらに近づいてきている。
波しぶきの真ん中に、赤い色が垣間見えた気がした。
最初バラクーダは、それは船ではないだろうと考えた。人力でも帆船でも、あんなに速く動く船などこの世にはありはしない。
だが、やがてその波しぶきとの距離が近づき、中心の赤いモノの形が分かるようになったところで、バラクーダはもう一度大きく目を見張った。
それは、海賊である彼にとっては見慣れた形をしていた。ただ、それを赤い色に塗る者は珍しい。
波しぶきを上げながら猛スピードで近づいてくるそれは、明らかに船の形をしていた。
船体を真っ赤に塗った船。
帆に掲げられた忌々しい提督旗──。
それは間違いなく、彼の仇敵・提督レオンの乗る”紅玉の波姫”号であった。
「いったいどうやって……」
呆然と、バラクーダは呟いた。
レオンがいたはずの所からここまで、こんなに早く戻って来られるなんてあり得ない。いったい何をどうやったら、船があんな速度で走れるのか……。
やがて速度を落とした赤い船が、ゆっくりとラウル王子の船に近づいていった。
二つの船が接舷し、そのまましばらく波間に浮かんで動かなくなる。
じっとそれを見つめるバラクーダの目に、チカチカと忙しく瞬く小さな光が映った。ラウルの船から、島に向けて放ってきている。
おそらくはラウルやレオンの目を盗んで送ってきているのだろうそれは、鏡を使った秘密の暗号通信だった。
──ケイカクハシッパイ。タダチニ、テッシュウセヨ。
そう言ってきている。
その時には既に、バラクーダもその理由は理解していた。
ダニーロを倒してフェリペを奪還したレオンは、どのような手段を使ったのかは分からないが──あり得ないほどの速さでここまで戻ってきた。
そして、彼はラウルに告げたのだ。バラクーダの元に、フェリペはいないということを。
「撤収だ! 急げ!」
手下達に向けて、バラクーダは叫んだ。
いまここでレオンと戦って負けるつもりはないが、無駄に戦うことも避けたかった。撤収しろと言われているのだから、素直に従った方がいい。
慌てて駆けだす手下達を追うように走りかけたバラクーダは、もう一度振り返って波間に浮かぶルビーウェイベス号を見た。
何故だか全身から力が抜け、同時にどこか背中が軽くなったような気分になっていた。
あの船のおかげで、自分は”王子殺害”という大罪を犯さずに済んだ──。
頭に浮かんだその考えを振り払いつつ、バラクーダは叫んだ。
「レオン、テメエっ! 覚えてやがれよッ! この借りは、いつか返すからなァッ!!」
彼の声が、遠く離れたレオンに聞こえるわけはない。
それは、自分自身と部下達に言い聞かせるための叫びだ。
真っ赤に塗られた船を精一杯憎々しげな顔を作って睨みつけた後、バラクーダは部下を追って自身の船に向けて走り出した。
※
「半日後に、白骨島だと!?」
グスマンからの知らせを聞いて、レオンは思わずそう叫んでいた。
ここからその島まで、どんなに条件が良くても丸一日はかかる。実際には、もっとだろう。どう考えても半日で行ける距離ではない。
身代金受け渡しの前に、ラウルにフェリペの生存を伝えるのは、諦めるしかないように思えた。
空売りを仕掛けてきたバラクーダに、みすみす大金を渡してしまうのは業腹であるが、無理なものは無理である。
しかし──
(なんだ、このイヤな感覚は……)
腹の奥で、何かがしきりに蠢くような感覚をレオンは抱いていた。
「ラウルを白骨島に行かせてはならない」と、「諦めてはならない」と、そうしきりに語りかけてきている。
だが、その声に従いたくても方法がないのだ──。
「くそッ!」
思わずレオンは床を蹴っていた。
「何か……何か方法はねえのか……」
そう言ってギリリと歯ぎしりをする彼に、話しかけてきた者がいた。
「レオン──」
寝室で休ませているエレナの顔を見に行っていたはずのキッドだった。他の船員から、レオンの苛立ちの理由を聞いて戻って来たようだ。
「ちょっと来てよ。ギムザも、トマソンも──」
半日で白骨島まで行ける方法があるよ──
そう言って彼女は、船の主だった者たちを集めた。
皆の視線が自身に集まったところで、「ここでは、ダメだから」と言いながら宿を出て行こうとする。
「お……おい、キッド!?」
「時間がないんでしょ? 早く着いてきなよ」
一度振り返ってそう言った後、彼女はまた早足で歩き始めた。どうやら港の方に向かっているようだ。慌ててレオン達もキッドの後を追った。
波止場に辿り着く寸前で彼女は進む方向を変え、海沿いに港の外へと歩いていく。
突き出した崖で人目が遮られた小さな入り江までやって来て、ようやく彼女は立ち止まった。追ってきた仲間の方を向き、皆に自身の左手首を見せる。一部分だけ海竜時代の鱗が残ったそこには、青い古代文字が入れ墨のように書かれている。
キッドが言った。
「この入れ墨ね、最初は赤色だったでしょ?」
そうだっただろうかと、レオンは首をひねった。手首の内側の目立たぬ場所にあるその入れ墨を、あまりまじまじと観察したことがなかった。
「すごく綺麗な青色になってるねぇ~。ちょっと前まで、紫色だったのに」
そう言ったのは、ターニャだ。女の子同士、キッドの手首を見る機会も多かったのだろう。
そこに彫られている古代文字は、少しずつその色が変わっているという話だった。赤から紫、そして今は青い海のような色になっている。
「コレね……。オセアンの爺さまからの施しなんだ……」
海神オセアンの眷属である海竜だった彼女は、そのオセアンの慈悲で海竜から人間に生まれ変わった。
そのときオセアンは彼女に──孫娘のようにも思っている自身の眷属に、元の海竜の力をいくつか残してくれたのだという。魚を獲るために使っていた電撃を発する能力もその一つだ。
キッドは人間になったが、一方でまだ海神の眷属でもあるのだった。
「この文字はね……海神の力が、どの程度溜まっているかを教えてくれてるんだ」
ほとんど力がなければ赤色。完全に力が満ちると青色になる。紫というのは、その過程の色だ。
「で、力が満ちると……」
言いながらキッドは波打ち際まで歩み寄り、そこでぴょーんと飛び上がった。空中で一つ宙返りをした後、頭から海へと落下していく。
水しぶきを上げて海中に沈んだ彼女の身体は、なかなか浮かび上がってはこなかった。
「お……おい、キッド?」
さすがに不安になって水中を覗き込んだレオンは、キッドが飛び込んだあたりの海中に巨大な影が見えることに気づいた。
巨大な魚かクジラのような影。
いや、これはクジラなどではなく──。
ザババァァアッと音を立てて、水の中から巨大な生物が顔を出した。
青い鱗をした、ヘビのようなトカゲのような──しかしヘビやトカゲと違って、その生物には長い二本の髭と大きな角がある。
長い首をもたげた巨大なドラゴン──海竜が、レオン達を見据えていた。
(この竜は、まさか……)
呆然とするレオンの目の前で、竜の大きな口が開いた。
『この姿でいられるのは、半日ぐらいが限界かなあ? でも、ちょうど間に合うぐらいじゃない?』
「キッド……? すごぉ~い……」
ターニャが目を丸くしながら感嘆の言葉を口にした。
ニイィィッとそのノーム族の少女に笑みを返した後、海竜の姿に戻ったキッドが言った。
『この世に海竜より速く泳げるヤツなんていないよ。ボクが船を引っ張って、白骨島まで連れてってあげる。さあ、早く船を持ってきて!』
キッドは、かつて海竜であったときに伝説の大海賊と共に冒険をしていたことがあったという。その時にも、海賊船を運ぶのが彼女の役割だった。
神出鬼没で、どんな大軍に追われても必ず逃げ切る大海賊の不思議な船の秘密は、それが海竜によって曳航される船であったからなのだ。
『みんな、なにボーッとしてんのさ! 時間ないんでしょ!? ほら、早く!』
キッドに急かされるがまま、レオン達は慌ててルビーウェイベス号を彼女のいる入り江まで運んできた。
数本の長く丈夫なロープを海中に垂らし、キッドがそれを口に咥える。
準備が整ったところで、レオンはギムザに言った。
「ギムザ……すまねえが、お前はエレナの所に残っちゃあくれねえか」
彼女の治療を担っている三人の神官のうち、フェリペは絶対にラウルの所まで連れて行かねばならない。彼を救出したという何よりの証拠だ。王子に顛末を説明するために、セシリアも一緒に行った方が良いだろう。
そうなると、必然的にエレナの所に残るのはギムザだということになる。
本来であれば、船長である彼が船から離れるのは好ましくないのだが、背に腹は代えられない。
「分かりました……」
素直にそう頷いてくれたギムザの顔が、一瞬歪んだ。海中の竜の方へと目を向け、心配そうに彼は言った。
「お願いですから……ルビーをあまり手荒には扱わないでくださいね……」
いくら過去に経験があることとは言え、キッドの性格を考えると、船を壊してしまわないか不安で不安でたまらないのだろう。
そんなギムザに申し訳なく思いながら、船首に立ったレオンは海中に向けて声をかけた。
「頼むぜ、キッド!」
『……うん!』
くぐもった声が船の下から聞こえてくる。
『トバすからね……! 振り落とされないように、みんな何かにつかまっていた方がいいよ……!』
そう彼女が言うが早いか、ルビーウェイベス号はレオンが経験したことのない速度で大海原へと駆けだしていた。




