その16 水上の跳ね馬亭
真っ暗な靄の中をエレナはたゆたっていた。
見える範囲の視界は黒一色に覆われ、何も見ることができない。
なんだか、つい最近も似たような状況にいたような気もする。だが、あの時感じたような不快な振動はなかった。代わりにゆらゆらとたゆたうような感じがする。呼吸の出来る黒い水の中に浮かんでいるように思った。
ただ、周囲の靄が動いて身体にまとわりつくたびに、その部分の肌にピリピリと痛みが走るのには閉口した。顔の皮膚ではそんなことはないのだが、腕や足で特にひどい。
ここに来る直前にダニーロから受けた術のせいではないだろうかと、彼女は考えた。
あのとき、抜き放った剣を邪神の神官に向けて突き出す直前、ダニーロは振り返って彼女に向けて片手を伸ばした。
その手から黒い霧のようなものが吹き出したと思った瞬間、エレナは全身に耐えがたいほどの激痛を感じたのだ。思わず悲鳴をあげ、そして意識を失った。気を失う寸前、手や足が真っ黒く変色していたことをよく覚えている。
その時の痛みに比べれば、いま手足に感じる疼痛は、不快ではあるが耐えられぬほどではない。
だけど、いつまでこんな場所にいなければならないのだろう──。
自身の置かれた境遇に不満と怒りを持ちかけたエレナは、前方に淡い光が見えることに気づいて、そちらに目をこらした。
彼女を包む黒いものは、やはり靄と言うよりは水に近いものであるようだ。手足を動かすとわずかな抵抗を感じ、かき分けるように両腕を動かしてみると、身体が前へと進んでいく感覚がある。淡い光も、少し近づいてきたような感じがした。
レオンやキッドと付き合いはじめてから、めきめきと上達した泳ぎの技を駆使して、彼女は淡い光の方へと近づいていった。
やがて光の中に、女性の姿が見えるようになってきた。見知らぬ顔だが、なんだかとても懐かしい気がする。
(もしかして、母上……?)
エレナは母の顔を知らない。それなのに、目の前の光の中にいる女性は、自身の母なのだと何故だか確信できた。
その女性は、しきりにエレナに向けて何かを訴えかけていた。声は聞こえぬが、口をパクパクと動かしながら、手を動かしている。
やがてその女性は、両腕を前にして掌を大きく広げて見せた。
──止まれ。
あるいは、
──来るな。
と、そう言われている気がした。
(どうして……)
懐かしい女性の元に──母の元に行きたくてたまらないエレナの心に、たまらない寂しさが沸き上がってくる。
(どうして、来るななどと言うのですか!? 母上!)
女性に向けてそう言おうとするが、声が出ない。
パクパクと口を動かすエレナを哀しげに見ていた女性が、ふと何かに気づいたように顔を上にあげた。何かを確かめるように頭上を見つめた後、女性はまたエレナの方に目を向けて、それから人差し指を上に向けて立ててみせた。
(?)
──上を見ろ。
と、そう言っているようだった。
エレナがそれに従って上方に目を向けたとき、
『エレナ!』
突然に声が聞こえてきた。まさに彼女が目を向けた、その方向からだ。
相変わらず黒い靄のせいで何も見えなかったが、エレナにはその声の主が誰であるのかすぐに分かった。
レオン──。
いつの間にか、エレナの左手には真っ赤に輝く宝石が握られていた。ターニャが持っていたはずの、カーバンクルの額の宝石だ。やがてその宝石が輝きはじめ、真上に向けて一筋の赤い光の線が延びる。
同時に聞こえてくる声。
『エレナさん!』
『エレナ殿!』
聞こえてきたのは、セシリアの声とフェリペの声のようだった。
その二人に続くように、ターニャ、キッド、ギムザ、トマソン……
たくさんのヒトが、彼女を呼ぶ声が聞こえてくる。
エレナは、もう一度淡い光の中にいる女性の方へと目を向けた。少し寂しげに微笑みながら、女性の口が動いた。
──行きなさい。
と、そう言っているように思えた。
こくりと頷いた後、エレナは赤い光の線が伸びている方向へ、彼女を呼ぶ声がする方向へと泳ぎ始めた。
上へ、上へ──
しばらく進んでいくと、黒い靄の中が少しずつ明るくなり始めた。白く、暖かい光が頭上から降り注いでいる。カーバンクルの宝石から伸びる赤い線は、その光の遙か向こうに伸びていた。
その線を辿るように、エレナは暖かい光のほうに向けてどんどんと泳いでいった。
やがて視界が黒から白に変わり、眩い光が彼女を包む──。
「気づかれましたか、エレナさん」
ふと気づくと白い光は消えて、視界にはくすんだ色の木目の天井が見えていた。
どうやら、ベッドに寝かされているようだ。
ヌッと、目の前に巨大なサメの顔が現れる。
──これも、少し前に同じようなことがあった気がする。ただ、その時とは違って、今回はギムザの目鼻立ちがくっきり、はっきりとよく分かった。
「……ゴメン。寝起きに貴方の顔のアップは……ちょっと心臓に悪いわ」
ヒトだと分かっていても、怖ろしげなサメの顔である。厳ついレオンの顔もゴメンではあるが。
できれば可愛いターニャか、優しげなセシリアの顔が良かったと、彼女は思う。
「それは、申し訳ありません」
そう返してきたギムザは、少し微笑んでいるようだった。最近は、エレナもこの魚人の表情の変化が少し分かるようになってきている。
「ここは?」
そう訊いた彼女に、ギムザが『水上の跳ね馬亭』という宿の一室だと教えてくれた。
その名に、エレナは覚えがあった。オルレシア領内のレオンの縄張りの街にある宿だ。
その街はダニーロの住む島に最も近い港町であったから、攻め入る日の前の晩に、彼女たちはこの宿で英気を養ったのである。
そこに寝かされているということは、今はおそらく島から戻ってきた後のことなのであろう。
「邪神の神官は……?」
「無事、討伐できました」
エレナがやられた直後に、レオンが討ち倒したのだという。長い付き合いのギムザでも背筋が凍りつきそうになるほど、鬼気迫る怒気をはらんだ一撃だったそうである。
その後、邪神の術による疫病に冒された彼女に治療を施してくれたのは、セシリアとフェリペの二人であるということだった。ヴァロア王国の太陽神の神殿でも、最高の力を持つ神官二人の治療だ。
「私なんか、出る幕はありませんでしたねえ」
海神の神官でもあるギムザが、少し苦笑しながらそう言った。
王族でもない限り、そうそう体験できないほどに贅沢な二人組による治療であったというが、あいにく、その間ずっと気を失っていたエレナにはあまり実感が湧かない。
ただ、命を助けてくれたことには感謝していた。
裏を返せば、それほどまでに彼女は危険な状態だったのである。元・司教と現・宮廷司祭の二人がかりで治癒を施しても、しばらくは意識が戻らなかった。
「私一人でしたら、命は助かっても後遺症が残ってしまったと思います」
自嘲気味にギムザはそう言った。
疫病に冒されたエレナの身体は、首から下全体がどす黒く変色していた。ギムザの実力では、その皮膚の変化が後遺症として残ってしまっただろうということである。
毛布から両腕を出して、エレナは自身の皮膚をまじまじと観察した。
意識を失う直前に真っ黒だったその腕は、今は元通りの白い肌に戻っている。シミ一つ残ってはおらず、疫病の後遺症に見えるところは何処にもなかった。
「腕輪が無駄にならないようで、良かったです」ギムザが言った。
あのどす黒く爛れた腕のままでは、とても腕輪など身に着けることは出来なかったでしょうから──。
「腕輪……?」
唐突とも思えるそのギムザの言葉に、エレナの頭の中で疑問符が舞い踊った。なぜ今そんな単語が出てきたのか、彼女にはまったく理解ができない。
ダニーロのアジトを捜索して、高価な腕輪でも見つけたのかとも考えたが、どうやらそういうことではないようだ。
そもそも邪教の巣窟の探索は、まだほとんどできていないということであった。エレナを療養させるため、ダニーロを倒してすぐに”紅玉の波姫”号はこの港に引き返してきたのだ。
それを聞いたエレナは、すごく申し訳ない気持ちになった。
邪神の神官の住む島に攻め入る前から、ダニーロの資金源については何度かレオンやギムザと話をしていた。
探れた範囲では、ダニーロにはパトロンと呼ぶべき者はいないようだ。誰からも資金を提供されていないのならば、彼はどうやって邪教の儀式を行う神殿を整備したのか。
洞窟の改造は妖魔達にやらせるにしても、そもそもまず、その妖魔を呼び出すために、儀式が必要なのである。
ダニーロは、昔の海賊が隠したお宝を発見したのではないか──。
それが、レオンの推測であった。
そのまま財宝のあった洞窟にダニーロは隠れ住み、見つけたお宝を資金にして、邪教の儀式を行う場を整えていったのではなかろうか。
もしもその推測が正しいのであれば、ダニーロの住んでいた洞窟には、まだ多少なりともお宝が残されているかもしれない。
にもかかわらず、レオンやその仲間達は、財宝の探索よりもエレナを休ませることの方を優先してくれたのだ。
エレナの胸に申し訳ないという思いと共に、何だか熱いものがこみ上げてきていた。
「レオン達は?」
早く仲間たちの顔を見たくて、エレナは訊いた。
別の部屋か、下の酒場ででも待機しているのだろうか──?
しかしその彼女の問いに、かぶりを振ってギムザは答えた。
「いま、この宿にいるのは私だけです」
彼だけが、エレナの介抱をするためにここに残ってくれたのだという。レオン達は、彼女をこの宿に置いてすぐに、また船に乗って出航していったそうだ。
ダニーロの住処を捜索するためかなのかと思ったら、そうではないとギムザは言った。
「邪教の神官を倒して、即座にこの街まで戻ってきたのは、結果的に正解でした」
エレナの体調の問題もあるが、それとは別に、早めに港に戻って良かったと思える出来事があったのだ。
「グスマン侯爵から、言伝てが入っていたのです」
オルレシア領内にいるレオンの協力者の手を経て、早馬を使って届けられていた。
海賊バラクーダとラウル王子の間で、フェリペの身柄と身代金を交換する日時と場所が決まったという連絡である。
「身代金って……」
エレナは思わず呟いた。
フェリペは、彼女たちが救出した。もはやバラクーダに身代金を払う必要はないのだ。
しかし、ラウルもグスマンもそんなことは知らないだろうから、できる限り早くフェリペ救出を彼らに知らせる必要がある。
それで、レオン達はエレナをこの宿に寝かせると、またすぐに出航していったのだ。
「言伝てを受け取った時点で、身代金受け渡しまでの時間は半日程度しかありませんでした」
使者が国境を越えるのに、少し時間がかかってしまったのだ。
たった半日では、陸路でも海路でもグスマンのいるサンレモニの港まで行く時間はない。
それで、身代金受け渡しの場所に向かったラウル王子を、直接捕まえることにしたそうである。
「受け渡しの場所は何処なの?」
「白骨島です」
ヴァロア領内の海域に浮かぶ孤島だ。石と岩ばかりの小島で、あちこちに転がる白い石が、まるで白骨のように見えるからそう呼ばれている。
その島の場所は、エレナもよく知っていた。内海に浮かぶ島々への遠征の際に、休憩のために何度か立ち寄ったことがある。
「半日では……無理じゃない?」
だから、思わずエレナはそう言ってしまった。
ここから白骨島まで、どんなに風向きが良くても丸一日以上はかかるだろう。航海術に疎い彼女でも、それぐらいのことは分かるのだ。
「ええ」ギムザが頷いて言った。「私も最初はそう思いました。ただ……」
そこまで言って、ギムザが窓の外に見える海の方へと目を向けた。
エレナがこの宿に連れてこられてから、すでに半日程度が経過しているという。まさに今頃が、約束の時間なのだ。
どこか遠くを見つめるような顔で、ギムザがぽつりと呟いた。
「提督、間に合っていると良いのですが……」
「いや、無理でしょ」
ギムザの言葉に、エレナはついついそう突っ込んでいた。どう考えても、ここから白骨島まで半日で行けるとは思えない。
そのエレナの方を見返して、ギムザが口を開いた。
「いえ……アレなら、確かに間に合う可能性はあります。あるのですが……」
そこでギムザがはぁーっとため息をつき、エレナの頭にまた疑問符が浮かんだ。




