その14 オルトロス
「ロック・トロールは石化させたのね?」
背中にノーム族の少女を張りつかせたまま、エレナが訊いてきた。
彼女たちも、ロック・トロールの存在には気がついていた。だから、すぐにこちらに来るのを逡巡していたのだという。
特にターニャが怖がっていたらしい。ロック・トロールは、ノーム族の天敵とも言える存在である。
「ああ、セシリアのおかげでな」
レオンがそう答えると、エレナが──こちらはセシリアに抱きつかれたままのフェリペの方へと目を向けた。
老司教が、頷いて口を開く。
「よくやった、セシリア」
「フェリペ様に教えて頂いた術のおかげです」
いまだ涙声のままセシリアが応えた。
ロック・トロールを怖れるターニャに、フェリペは太陽神・ソレイユの奇跡があれば、この魔物は怖ろしくもなんともないのだと説明したのだという。
フェリペは当然その奇跡を使えるし、セシリアも使える。むしろ、番兵がロック・トロールであるのはソレイユの神官にとっては僥倖なのだ、と。
それでどうするか相談していたところで、妖魔達がロック・トロールの方へと向かう臭いと足音にギムザが気がついた。
そのまま妖魔を追っていけば、レオン達と挟み撃ちにできるが、もしも邪教の神官の元に手勢が残っていた場合には、逆に自分たちが挟み撃ちにされる危険もある。
それで結局、フェリペが囚われていた牢の傍でエレナたちはずっと待機していたらしい。
その牢の中には、ダニーロの儀式の生け贄となった犠牲者の遺体が放置されたままだとも、エレナは言った。
それを聞いたレオンは、数人の部下を呼んで、フェリペが囚われていたという牢の方へと向かわせた。せめて遺体を持ち帰り、ねんごろに葬ってやりたいというのがフェリペの希望であった。
部下達について牢の方へ続くという曲がり角まで行くと、その先にいくつものゴブリンの死体が倒れているのが見えた。
エレナ達が牢に潜んでいたら、案の定、妖魔を連れた邪神の神官がやって来たのだという。
フェリペを連れて脱出しようとしたのか、彼をレオンに対する人質にしようとしたのかは分からぬが、現れた妖魔達を次々と倒していくエレナ達を見て、かなわぬと悟ったのだろう。結局、神官はゴブリン達だけを残して逃げ出した。
それが、つい今しがたのことだそうである。
ゴブリンを全て倒し、逃げた神官を追って曲がり角までやって来たエレナは、そこで通路の向こう側を探るために顔を出して、レオンの姿を見つけたのだ。
「ダニーロの奴は?」
レオンは訊いた。
フェリペの救出という第一の目的は達することができたが、このまま邪神の神官を放っておくわけにもいかない。フェリペと共に捕らえられた神官たちをはじめ、既に何人もの犠牲者が出ている。
ここでダニーロを逃がせば、もっと多くの悲劇が生まれてしまうだろう。
「たぶん、貴方たちとは逆方向に逃げたんだわ」
そう言って、エレナは通路の向こうに目を向けた。
多少曲がってはいるが、幅の広い洞窟が長く伸びていた。左右には、牢に続く道以外にも、複数の分かれ道や横穴が存在している。
ここから見る限り、それらの横道からは光は漏れ出ていないようだから、そちらはきっと妖魔達の居住区なのだろう。彼らは暗闇でも物が見えるので、灯りが必要ないのだ。
ダニーロの居室や儀式のための神殿は、道を真っ直ぐ進んだ先にあるに違いないとレオンは考えた。
洞穴の行き止まりには、おそらくは手製と思われる粗末な扉があった。ここに住む邪神の眷属達にとって神聖な場所──そして彼らの今の主が普段過ごす場所を、あの扉で分けているのだ。
洞穴の奥へと逃げる邪神の神官がその扉をくぐったのは、レオンが通路を覗くよりも前のことだろう。
彼が通路を覗き込んだとき、逃げるダニーロの背中は見ていない。エレナの話から時間関係を推測するに、それはちょうどセシリアが光の術を使った頃なのではないか。
洞穴のメインの通路まで逃げてきたダニーロは、太陽神の光の術を見てロック・トロールの敗北を悟った。そして、奥の扉の方へと逃げたのだ。そこに立て籠もるつもりか、あるいは他に脱出路があるのか──。
いずれにしろ、邪神の神官がいるのはあの扉の向こうだ。
そこには、ここと同じく灯りが据え付けられているに違いない。人間であるダニーロは、レオン達と同じく暗闇では物が見えないはずだから。
そう考えたレオンが、手に持つ松明を船員の一人に渡そうとしたときだった。
『グルル……』『ガルゥッ!』
扉の向こうから、獣の唸るような声が聞こえてきた。
二匹いるように思える。
再会に緩んでいた皆の体に、一気に緊張が走った。
ダニーロは、少なくとも二人の光の神官を生け贄に捧げて儀式を行っている。その儀式で、妖魔よりも強大な魔物を邪神から褒美として授けられていると推測されるのだ。
トロールは二匹いたが、おそらくこれは一度の儀式で同時に得たものなのだろう。つまり、少なくとももう一匹、強力な魔物をダニーロは配下にしている筈だ。
フェリペとセシリア、それにターニャを下がらせ、ギムザとキッドがそれぞれの武器を構えて前に出てきた。レオンも松明を船員に渡し、一行の先頭に立つ。
バァアン!
勢いよく扉が開かれ、通路の向こうからダニーロが姿を現した。
「提督レオン……! 貴様……」
ギリリと歯ぎしりするように言った邪神の神官に、レオンはニヤリと挑発的に笑い返してやった。
ダニーロの手には、一本の鎖が握られていた。その先には、牛ほどもある巨大な獣が繋がれている。
大きな犬のような外見だった。
だが、ただの巨犬ではない。たてがみの一本一本がしきりにうねっていた。体毛の代わりに、無数の蛇をその首筋から生やしているのだ。
そして、その大犬には頭が二つあった。先程の唸り声が二匹の獣のもののように聞こえたのは、そのためだ。
「オルトロスですわ……」セシリアが教えてくれた。
有名な三つ首の地獄の番犬・ケルベルロスの弟分にあたる怪物だそうである。
巨大で強靱な狼の身体に、鋭い牙を持つ二つの頭。ドラゴンのように炎を吐いたりはしないが、たてがみの蛇は毒蛇で、自在に伸ばすことができるという。
ただ、知能は犬と同程度だ。
ケルベロス同様、邪教の施設の番犬として使われることが多いが、ここの場合は入り口を岩に偽装したトロールで隠していたから、外ではなく中で──おそらくは神殿の最奥の守護を担っていたのだろう。
それを連れてきたということは、この魔犬がダニーロにとって最後の手札に違いない。レオン達にとっては、最後の障壁だ。
「双頭の魔犬よ、あの侵入者たちを排除しろ!」
ダニーロがそう言って鎖から手を離した瞬間、オルトロスがレオン達に向けて疾風のごとく駆けだしてきた。
牙を剥き出しにして、先頭のレオンに飛びかかってくる二つの狼の頭。
一歩下がりながら素早く曲刀を抜き、レオンはオルトロスを牽制するように振るった。
同時に、彼の両脇から繰り出される槍と三つ叉の矛。
太い首を反らすようにして、オルトロスがレオンの曲刀をよける。
彼の前に着地した大犬は、襲い来る槍と矛も、二つの口で咥えるように受け止めた。
次の瞬間、
「ギャウゥッ!」
矛を咥えた方の頭が、苦痛の声を漏らす。キッドが電流を流し込んだのだ。
すかさずレオンは、ギムザの槍をくわえている方の頭めがけて曲刀を振り下ろす。
口から槍を放して首を振り、オルトロスがレオンの曲刀を払う。
たまらず少し距離を取ろうとする魔犬を油断なく見据え、レオンは巨大な犬の体越しに通路の奥を見た。
ダニーロが、扉の向こうへ走り去ろうとしていた。オルトロスに時間を稼がせている間に、逃げるつもりだ。
「エレナ!」
レオンは叫びながら、女剣士の姿を探した。
(こいつは俺たちに任せろ。お前は奴を追え)
エレナは、すでにオルトロスの隙をついて、その脇をすり抜けようとしているところだった。その目がちらりとレオンの方に向けられる。
(こいつは任せるわね。私は奴を追うわ)
彼女の目はそう言っていた。
こくりと頷き、レオンはエレナと怪物の間に割って入るように横へと移動する。
オルトロスのたてがみの蛇が、逃がすまいとばかりにエレナに伸びる。その蛇たちを、レオンが次々と曲刀で切り払う。
オルトロスが前足を上げて、体の向きを変えようとした。番犬としての本能なのか、その目は自分の横を取り過ぎようとするエレナのことを追っている。
(エレナの方には、行かせねえ!)
魔犬に体当たりをして、レオンは動きだそうとする敵の体勢を崩してやった。
そのレオンの援護が功を奏した。
身をかがめるようにして走るエレナが、ついにオルトロスの背後へと抜け出る。怪物を後ろから攻撃しようとはせず、彼女はそのままダニーロを追って駆け出していった。
邪神の神官はエレナに任せ、レオンはその場に残って曲刀を振るい続けた。
切られたオルトロスのたてがみの蛇が次々と宙を舞い、どす黒い血しぶきがレオンの腕を濡らす。
蛇の猛攻の間隙を縫うように、レオンは曲刀をオルトロスの首筋へと叩きつけた。
「ガグァアアァッ!!」
魔犬の強靱な筋肉に阻まれ、刃を骨まで食い込ませることは出来なかったが、それでも苦しげに吠えたオルトロスが、レオンの方に頭を向ける。
そこに繰り出される槍と矛。
二つの頭を振って刺突を払うオルトロス。
間断なく繰り出される攻撃に、鋭い牙を持つ狼の頭は防御一辺倒に回っていた。
狼という動物は、広いところで駆け回り、相手の隙を見て飛びかかったり、走りながら急所に噛みついたりして獲物を襲う。
左右を土壁に阻まれた、ここのような地中の洞窟は、巨大な魔犬にとってはいかにも窮屈すぎるのだ。本来の戦い方ができないのである。
地の利は、レオンたちの方にあった。
加えてオルトロスの頭は二つだが、攻め手は三人いる。後方には、他の仲間達も控えている。数の利も生かして間断なく攻撃を続け、レオン達はオルトロスを自由にはさせなかった。
その彼らの攻勢に、防戦一方のオルトロスが唸りながらじりじりと下がり始めていた。




