その9 蛙の腹~狗鷲の巣
──ヒュドラの尾の先で 膨れた蛙の腹に登れ
狗鷲の巣の下にいたりて 空の魚の尾が指す先で
母と父の名を唱えれば 竜の顎門が口を開く
その口に入る者 汝 一切の希望を捨てよ──
沼の岸辺で小休止をとった後、マテオ達は入り江に向けて歩き出した。
足下はいつしか砂地から岩混じりの大地に変わっていた。入り江の岸も砂浜ではなく、低い崖のようになって沼に落ち込んでいる。
足を踏み外さないように水際から少し離れて歩きながら、マテオは”蛙の腹”を探した。低い丘か、盛り土のような地形ではないかと彼は考えていた。古文書の内容を辿った探索に、彼もようやく慣れ始めている。
やがて入り江が細くなり、まさに蛇の尾のように先細りになって終わったところで、周囲の木々の間にマテオはそれを見つけた。
「蛙の腹だな……」
彼とほぼ同時にそれを見つけたのであろうファルコが呟いた。
入り江から少し離れた場所に、小高く盛り上がった丘のようなものがあった。
周りは木々で囲まれているのに、不思議なことにその丘にだけは木が一本も生えていない。代わりにマテオの脛までの高さの短い草が生い茂り、緑に覆われたその丘は、遠目に見ればまさに腹を膨らませて仰向けに寝転がる蛙のようだった。
丘に近づいたファルコが、荷物からシャベルを取り出して草の根を掘り返しはじめた。
「何してるんすか?」
「土の下に何があるのか見たいんだ」
そう言って額に汗をにじませながら、ファルコはしきりにシャベルを動かしている。
「土をどければいいの?」
近づいてきたコーデリアがファルコに訊いた。
臆することなく自ら話しかけてきた彼女に、ファルコは少し驚いたような目を向けたあと、答えた。
「ああ……。手伝ってくれるのか?」
「土の精霊にお願いしてみるわ」
その言葉に、ファルコは得心したように頷いた。
「そうか……。きみは祈祷師だったな」
コーデリアがファルコの隣にしゃがみ込み、土に両手をつけて目を閉じた。
『わたしの名前はコーデリア。妖精の森の巫女よ。初めまして、土の精霊さん。不躾だけど、お願いがあるの。ここの土の下に何があるのか見てみたいの。だから、ほんの少しだけその場所を空けてはくれないかしら──』
彼女が唱えるその祝詞の言葉の意味は、マテオには理解することができない。
精霊達に話しかけるための言語だから、彼女が何かを呟いているのは分かるが、それぞれの単語の意味が分からないのだ。
モニャラ、ムニャラ──としかマテオには聞こえないコーデリアの祝詞は、しかし確かに精霊達の耳に届いたようだった。
彼女の両手の下にある土が突然に消え、黒々とした穴が口を開いた。コーデリアの頼みを、土の精霊は快く聞き届けてくれたのだ。
ファルコが小剣の先に魔法の明かりを点して穴の中に差し入れる。覗き込む彼の傍に立って、マテオも穴の底を見た。
ゴツゴツした灰色の何かが見えた。
「石垣の一部のように見えるな……。加工した跡がある」
ファルコが言った。どこかから切り出されてきた石のようだという。
「なぜ、そんなものが埋まっているのだ?」
そう聞いてきたアンジェリカに、ファルコが答えた。
「おそらく、この丘は人工のものなんだ。石を積み上げ、そこに土を被せた」
だから根の短い草は生えることができても、木は根を下ろすことができないのだ。
「これも、遺跡の一部と言うことか……」アンジェリカが感慨深げに呟いた。
猫の額から下りる階段と同じく、この丘も遺跡への道を示すためにルキウスが造らせたのだろう。
「そういうことだな」ファルコが立ち上がって言った。「さあ、登ってみよう。次は”狗鷲の巣”を探すんだ」
“蛙の腹”はあまり高い丘には見えなかったが、それでも上まで登ってみると見晴らしはかなりのもので、周囲の森の木々の梢がよく見えた。
見渡せば西の空は開けており、ここからならば夕日も楽しめそうである。
ただ、東側には山がそびえていて、今朝見たような雄大な朝日は望めそうにない。
丘の下にいるときには分からなかったが、その山肌は意外に近くて、露出した岩壁のゴツゴツした様子がよく分かった。
「あの山は……」
「”猫の額”のあった山だな」
やはりそうかと思いながら、マテオは今日歩いたルートを思い浮かべてみた。
”猫の額”から東側の崖を降り、山の尾根を下っていった。そこから低地の森に入り、川に沿って歩いたわけだが──。
「山の周りをぐるりと回ってたってことっすか……」
いま見えている崖は、ちょうど猫の額の西側に当たるのだ。つまり、そちら側の崖を下っていれば、もっと早くにここまで辿り着くことができた。
「どうせなら、こちら側に階段を造ってくれれば良かったのに……」
思わずぼやいたマテオに、何でもないことのようにファルコが言った。
「それだと、遺跡の場所がすぐに分かってしまうからな。盗掘防止だろう」
おそらく、”猫の額”に崖を作った人足と、この丘を作った人足は別の者達ではないかとファルコは言った。目的を知らせず、単独の工事にのみ携わらせることで、作業に関わった者から遺跡の場所が漏れることを防いだのだ。
そして、そのためには両者はある程度離れたところに作らねばならない。”猫の額”の崖からこの丘の工事の様子が見えては、あるいはその逆では意味がない。
そう説明しながら、ファルコはすでに周囲を見回しはじめていた。”狗鷲の巣”を探しているのだ。
「鷲なら、ここにもいるがな」
アンジェリカが盾を掲げながら、冗談めかして言った。近衛騎士に支給されているその盾には、王家の紋章である翼を広げた鷲が彫られている。
「ただ、本物のイヌワシの巣は見たことがないな……。コーデリア、イヌワシはどういったところに巣を作るんだ?」
盾に彫られた紋を珍しそうにしげしげと眺めていたコーデリアが、尋ねられて口を開いた。
「そうね……。高い木の上とか、崖の岩棚とか……。そう、ちょうどああいう所」
言って、コーデリアは崖の一点を指さした。
切り立った崖に、そこだけ中空へと出っ張ったところがある。崖の上からも地面からも離れていて、空でも飛べなければ辿り着けないような場所だ。そういう所に巣を作ることで、天敵から卵や雛を守るのである。
マテオがその岩棚に目を向けたとき、ちょうど大きな鳥が飛んできて岩の上に降り立った。遠目だが、鷲であるように思われた。
「……本当にあるみたい」
コーデリアがほっこりと笑った。その笑顔を見て、やはり彼女は鳥や動物が好きなのだな、とマテオは思う。
「あそこは、いかにもイヌワシが巣を作りそうな場所なんだな?」
二人の話を聞いていたファルコが、確認するようにコーデリアに訊いた。
実際に巣があるのだから、適した場所に違いないのだろうとマテオは思うが、ファルコの表情は存外に真剣だ。
コーデリアが頷くのを見て、彼はブツブツと独り言のように呟いた。
「イヌワシの生態を知っていれば、『ああ、いかにもあそこに巣がありそうだな』となる……。本当にそこに巣があるのかどうかは、この際、関係がない……」
その言葉を聞いてマテオははっとした。
「じゃあ、あそこが……」
うなずいたファルコが、またコーデリアに呼びかけた。
「コーデリア。ここから見える範囲で、他にイヌワシが巣を作りそうな場所、あるいはイヌワシの巣のように見えるところはあるか?」
言われて、コーデリアは少し背伸びをするように辺りを見回した。しばらくそうしていた後、首を振って彼女は答えた。
「他にはなさそう……。もちろん、高い木の上であれば巣を作る可能性はあるけど……」
木は形が変わりうるし、朽ちてしまうこともある。遺跡の場所を指し示す目印としては不適当だろうとは、ファルコから既に説明済みである。
「目指す場所は、”狗鷲の巣の下”だったな」
アンジェリカが言った。
「よし、あの崖まで行ってみよう」
”蛙の腹”を下りると、木々が邪魔をして岩壁はあまり見えなくなった。コーデリアが見つけたイヌワシの巣のある方向をもう一度よく確認してから、彼らはできる限り真っ直ぐに森の中を進んでいく。
ヒュドラの沼は低地にあったが、崖が近づくにつれて地面は緩やかな上り勾配になっていった。踏みしめる土の感触も徐々に固いものへと変わっていく。
やがて木々がまばらになり、一行は大小の岩が転がる荒れ地のような場所に出た。前方には高い岩壁がそびえ立っている。
下から見上げると、垂直の崖にはいくつかの岩棚があった。先程見たイヌワシの巣があった場所を探してみるが、下からだと見え方が変わって、どれがそうなのかマテオにはいまいちよく分からない。
「たぶん、あれだと思うけど……」
ずっと上を見上げていたコーデリアが、崖の一点を指さして言った。マテオもそちらを見上げたが、彼女の言うことが正しいのかどうかは、やっぱり判断がつかなかった。
それでもファルコは崖に近づき、コーデリアの指す場所の下に位置する岩壁を仔細に観察しはじめた。荷物からハンマーを取り出して叩いたりもしている。
しかし、結果は芳しくないようだった。首をかしげながらファルコは呟いた。
「特に何もなさそうだが……。真下である必要はないのか? この辺りで、”空の魚”を探せということか……?」
崖に沿って歩いていたファルコは、徐々にその捜索範囲を広げて崖から離れたところも歩き回るようになった。
マテオもそれに倣って辺りを見回しながら、歩き始める。
木々は少ないが、代わりに大きな岩があちこちに転がっていた。岩陰に入ると仲間たちの姿は一時的に見えなくなるが、植物の密生した場所に比べれば全体の見通しははるかに良い。多少離れたところでも、誰が何をしているのかはすぐに分かった。
見ると、アンジェリカもコーデリアもめいめいに歩き回りはじめている。
みな、”空の魚の尾”を探しているのだ。
──魚のような形をした何かなのか。
そうマテオは考える。
あるいは鱗状に見える何かを、魚に例えているのかもしれない。
ただ、その場合はどこが”尾”なのか判断がつくのだろうか──?
そう疑問に思いながらも一応、マテオは鱗のように見える物も探索対象に広げることにした。
石や岩に関係するものではないかと、直感的に彼は思っていた。この場所が特徴的なのは、やはり岩が多いということだからである。
辺りにはマテオの背よりも高い大岩から小石まで、様々な大きさの岩石があちこちに転がっていた。崖から落石してきたものもあるのだろうが、なかには地面から直接生えて見えるものもあった。岩の本体は土中にあって、一部だけが顔を出しているのだ。
これだけたくさんの岩があるのだから、中には魚の形や鱗のように見えるものもあるのかもしれない。そう思って石の表面にも注意して歩くのだが、どれだけ目をこらしても、特に何も見つけることができない。
諦めかけて足下の石から目を上げたところで、とある岩の前で何やら考え込んでいるコーデリアの姿が目に入った。




