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ラグアース大陸の冒険者たち  作者: 浅谷一也
第四話 妖精の森のコーデリア
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その8 山猫~ヒュドラ

 毛布にくるまって眠っていたマテオは、顔にひんやりとした柔らかいものが当たる感触で目を覚ました。


 まぶたを開けると、肉球で彼の頬を叩いていたパットがニイィッと笑った。


 辺りはまだ薄暗い。起き上がって周囲を見回したマテオは、毛布の上にちょこんと座っているコーデリアと目が合った。


「おはようっす。起きてたんすね」


 マテオがそう声をかけると、小さな声でにコーデリアが答えた。


「おはよう……。あの……もうすぐ、日の出の時間……」


 そう言う彼女の顔は、どこか申し訳なさそうであった。


 朝日を見たいという彼らの希望は知っていたが、かといって気持ちよく眠っているところを起こしてしまうのも躊躇われ、どうしたものかと逡巡していたらしい。


 パットの方はそんなことは気にせず、さっさとマテオの顔を叩きはじめたという顛末のようだ。


「じゃあ、先輩達を起こしますか……」


 マテオが立ち上がったところで、気配に気づいたらしいファルコが目を覚ました。


「む……。もう朝か?」


「ええ。もうすぐ日の出だそうっす」


「そうか。では、アンジェリカを起こそう」


 そう言ったファルコは、こちらも躊躇いなくアンジェリカを起こしはじめる。彼女が目をこすりながら毛布から出てくる頃には、既に東の空が白みはじめていた。


 見晴らしの良い崖の上から拝む日の出は、昨日の夕焼けに勝るとも劣らないほど素晴らしいものだった。


 太陽が顔を出す前から辺りがほのかに明るくなり、地平線の上の空が赤から緑、そして青へとその色を変えていく。昨日の夕日は赤色が目立ったが、朝日のほうは空の色の様々な変化が目を引いた。


 やがて太陽が徐々に昇り始め、地上を照らし始めた。


 そのあまりの眩しさに思わず目を逸らしたマテオの視界に、すっくと姿勢良く立つアンジェリカの姿が映った。


 朝日に照らされる彼女の黄金色の髪は、太陽を見たときと同じくらいに眩しく感じられた。


 ──この人には、夕日よりも朝日の方がよく似合う。


 そう、マテオは思った。


 迫りくる宵闇への最後の抵抗のような真っ赤な光よりも、暗い世界を明るく照らし出す黄金の輝きこそが、彼女の本質なのだ。


 昇りはじめた太陽によって静まりかえった森が目覚め、その命の息吹を取り戻していくように、自分も彼女の放つこの輝きから活力を得ている。


 ──ああ、やはり自分はこの人のことが好きなのだ。太陽の女神のような、この凜々しい女性が。


 一身に日の光を浴びるアンジェリカの姿を見ながら、マテオは改めて自分の気持ちを自覚していた。


 彼が崇める光の女神は、真っ直ぐに太陽の方に向けていた視線をおろして、眼下の森を見渡しはじめた。光を取り戻した世界を睥睨するように眺め回したあと、アンジェリカはぽつりと呟いた。


「この広い森のどこかに、ルキウス王の作った遺跡があるのだな……」


 彼女の言葉に、マテオも眼下に広がる森を見た。


 地平線の彼方まで、果てしない緑色の世界が広がっていた。あまりにも雄大な大自然の光景だ。人工物を疑うようなものはどこにもない。


 三百年という時の間に生い茂った植物が、ちっぽけな人間の造ったものなど覆い隠しているようだった。


「昨日も探してみたが……それらしきものはなさそうだな」


 ファルコも彼らの所にやってきて言った。


「やはり、あの古文書の意味を説き明かすより他はなさそうだ」


 いつしか太陽が昇りきり、”猫の額”から続く崖も明るく照らされていた。


 野営地を片付け、彼らは崖下りに取りかかる。


 ロープを全員の身体に縛り付けた後、先頭で下りて行くのはマテオだ。万が一、大荷物を背負った彼が足を踏み外しても、他の三人で彼を支えるためである。


 マテオは重装備に加えて大荷物、さらに足を滑らせた場合には落下速度も加わるが、


「その時には≪重量軽減≫の魔法をかける」


 とファルコは言った。一時的にだが重さを軽くし、その間になんとか引っ張り上げる腹づもりだ。


 彼一人のためにそこまで準備をされると、なんだかかえって緊張してしまうと思いながらも、慎重にマテオは“猫の額”まで降りてみた。


 真下の崖を見ると、確かに積み重なった岩が段のようになっている。上面が平らな部分も多く、石と石の隙間には土も詰まっているようだ。


 これではまるで──


「階段のようだな……」


 マテオに続いて降りてきたアンジェリカが呟いた。足を踏み外せば確かに危険だが、ロープがなければ降りられないというほどの難所でもなさそうである。


 それでも、最大限に注意しながらマテオは石段を少しずつ下っていった。


 長い時間をかけてようやく崖下に降り立ったときには、緊張から解き放たれて心の底からほっとした。


 互いの身体に結びつけたロープをほどきながら、ファルコがコーデリアに聞いた。


「この森には、こういう場所が──つまり、階段のように登り降りできる崖が、他にもあるのか?」


 コーデリアはかぶりを振って否定した。他にはないからこそ、彼女はここを通って朝日や夕日を見に行くのだ。


 ファルコが一番下の石段に歩み寄ってかがみ込み、石の上の土を払ってつぶさに観察し始めた。


「だいぶ風化しているが……これは、人工的に造られたものじゃないのか?」


 誰かが崖を削り、そこに段差状に石を配置していった。”階段のよう”ではなく、階段そのもなのである。


「妖精の森の中だぞ? 誰がそんな大がかりな工事を……」言いかけて、アンジェリカは自身でその答えに気づいたようだった。「そうか……“暴虐王二世”ルキウスか……」


 ファルコが頷いて言った。


「ある意味で、ここも遺跡の一部だということになるな」


 そして彼らの行程が正しいことも示している。


 禁足地にある断崖にわざわざ苦労して階段を造ったのは、それが遺跡へと続く道だからだ。


「ありがとう、コーデリア。きみのおかげだ」


 立ち上がったファルコが、真っ直ぐに彼女の顔を見て言った。


「そんな……」見つめられたコーデリアの頬が赤くなる。「私は、何も……」


「いや。俺たちだけでは、ここまで来れたかどうかは分からない。来れたとしても、”猫の額”から下に降りる道があることには気がつかなかったかもしれない。きみの案内があればこそ、だ」


 コーデリアがぷいとファルコから顔を背けた。照れているのだ。


 そんな二人に、アンジェリカが近づいて言った。


「おいおい、まだ遺跡に着いたわけではない。先は長いぞ」


 十行以上ある詩の、まだ最初の一行を解決したに過ぎない。


「だが、コーデリア。私からも礼を言う。そして、これからもよろしく頼む」


 そう言ってアンジェリカがコーデリアに頭を下げ、コーデリアは頬を染めたままこくりと頷いた。


「さて、次は『山猫の毛を撫で』だが、これはこのまま尾根を下っていけばいいと思う」


 ファルコが行く先を指し示しながらそう言った。


 彼らのいる崖下から先は、三方とも下り坂になっている。正面のなだらかな下り坂と、その左右の比較的急な下り坂。


 そのなだらかな方の坂を進んで行くわけである。猫の背中の毛を撫でるように下りていくのだ。


「そうすると、大蛇が現れるんすか?」


「もちろん、本物の蛇ではないだろうがな」


 ファルコが苦笑した。


「蛇に例えられる何か、だ」


 猫の額に山猫の毛──。


 この二つが解決されたことから、ファルコは今やこの不思議な詩が地形の暗示をしていると確信しているようだった。その場所に行って注意深く観察すれば、次に進むべき道が分かるのだ。


 アンジェリカは「まだ先は長い」と言ったが、ファルコは遺跡への道は既に開けていると感じているようで、マテオは頼もしく思う。


「コーデリア、ここをずっと行くとどういった所に出るんだ?」ファルコが訊いた。


「最終的には、森の深いところに入っていくことになるけれど……」そこで彼女は、ふと思い出したように言った。


「そう言えば……その前に泉があるわ」


「泉?」


 山に降った雨水が湧き出ている場所だという。


 コーデリアの言葉に、ファルコはしばらく考え込む様子を見せた。


「…………。その泉からは、川が流れ出してはいないか?」


「川……? ……あるわ」


 泉から、低地にある森の方へと流れ出る川が一本あるという。


 それを聞いたファルコの口の端が持ち上がった。


「たぶん、それが大蛇だな」


「え?」


「古来から、川はよく蛇に見立てられるんだ。蛇行して流れる様が、巨大な蛇に見えるというわけだな」


 そして、大雨などで川が氾濫して大きな被害を出したときには、「凶暴な大蛇が暴れて多くの人々を殺した」などと古文書に書き記されたりする。


「では、『現れし大蛇に呑まれよ』というのは、その川に入れということか?」


 アンジェリカが聞いた。


「川に沿って歩いて行け、ぐらいの意味だと信じたいがな」


 彼らは船を用意していない。どうしても川を下らなければいけないのなら、即席の筏かなにかを作る必要がある。


 苦い顔をしたファルコに、コーデリアが言った。


「水の精霊にお願いして、沈まないように支えてもらうことはできるけど……」


 その言葉に、「ん?」という顔をしてファルコは彼女の顔を見た。


「きみは、祈祷師(シャーマン)なのか?」


 自然界に宿る精霊と意思疎通ができ、それらに祈り願って奇跡を起こす者たちの総称である。神の使途たる神官や、この世の(ことわり)を魔力で変容させる魔術師とは、また違ったやり方で奇跡を起こす者たちだ。


 ファルコの問いに、コーデリアはこくりと頷いた。


「妖精達が、精霊と話す方法を教えてくれたの……」


 妖精は、精霊が肉体を持ってこの世に具現化した存在だと言われている。精霊としての性質を強く残している者ならば自らの力だけでも奇跡を起こせるし、そうでなくとも祖である精霊と意思疎通をし、命令や頼み事のできる者が多い。


 その妖精達に育てられたコーデリアが、祈祷師としての能力を持っているのは、考えてみれば当然の話であった。


「そうだな。万が一の時にはお願いしたいが……」そう言ったアンジェリカがマテオの方を指さした。


「私はともかく、そこの男は大丈夫か? 精霊達が『重い』と言わないだろうか」


 コーデリアは一瞬きょとんとした後、マテオの背負う大剣と大荷物を見てくすりと笑った。暗く湿った森の中で見つけた一輪の白い花のような笑顔だった。


「大丈夫。ヴェルデだって支えてくれるから」


 牛のような巨大な体躯の犬妖精を見てアンジェリカが笑い、ヴェルデが不満そうに鼻を鳴らした。


 和やかな雰囲気で尾根を下っていくと、やがて左右の急峻な斜面に樹木が目立つようになってきた。彼らが進む尾根の上にも木が立ち塞がり、よけて歩かなければならいことがしばしばある。


「背中にこんなものを生やした山猫などいるか?」


 アンジェリカがぼやき、


「遠目に見たら、緑の毛並みに見えるのだろうさ」


 ファルコが本気か冗談か分からぬ言葉でなだめていた。


 やがて傾斜が緩やかになり、平地が近くなってきた頃、一行の前に小さな池が現れた。澄んだ綺麗な泉だった。


 泉の水で渇いた喉を潤しながら、アンジェリカがぽつりと言った。


「水浴びでもして、汗を落としたくなってくるな。こんな窮屈な鎧など脱ぎ捨てて……」


 マテオは思わず、口に含んだ水を吹き出しそうになった。知らず、胸の鼓動が早くなる。


「私も、たまにここで水浴びをするけど……」


 そのコーデリアの言葉に、アンジェリカが笑って返した。


「すまん、冗談だ。本気にしないでくれ。野獣が現れでもしたら困る」


 言いながら、男二人の方をチラリと見る。


「野獣?」コーデリアがきょとんとした顔になった。「熊や剣歯虎(サーベルタイガー)なんかが水を飲みにやってくることはあるけど……でも、ヴェルデを見たら大抵は逃げていくわ」


「いや、そういう意味ではなくてだな……」


 苦笑半分のアンジェリカに、渋面を作ってファルコが言った。


「アンジェリカ、変な冗談はやめてくれ」


 そのファルコの頬も、心なしか赤くなっているようにマテオは思った。


「さあ、先を急ごう」


 ぷいとこちらに背を向けて、ファルコは泉から流れ出る川の方へと歩き出した。


「やはり、この川が蛇なんすかね?」


 早足でファルコの隣に並びながら、マテオは訊いた。


「おそらくはそうだと思う」


 泉から流れ出た川は、くねくねと曲がりながら森の奥へと消えている。文字通り蛇行して流れるその様子は、確かに大蛇のように見えなくもない。


「潜ってみるんすか?」


 古文書では、この蛇に呑まれよと書いてあるのだ。


「いや、今はまだそこまでする必要はないだろう。『呑まれよ』というのは、大蛇の口から腹に移動する──川の流れに沿って下っていけという意味なのだと思う。船があれば、確かに早いのだろうが……」


 しかし、船での移動を想定していたのであれば、猫の額から崖を下らせるようなことはしないだろう。例え小舟であっても、あの崖を船を担いで降りるのは難しい。


 だから船は必須ではないはずだと、ファルコは言った。


 その彼の考えに従い、一行は地上の探索も兼ねてまずは川に沿って歩いてみることにした。


 この辺りまで来ると土地はかなり平坦になっていた。一方で植物の繁茂も激しくなり、川の水の上まで枝葉が張り出しているような場所も多々ある。灌木や木々に遮られて、川を大きく離れなければならないこともしばしばだ。


 それでもできるかぎり川を視界に収めて進みつつ、マテオは古文書の次の一節を思い浮かべていた。




 ──大蛇はやがてヒュドラに変わる


   ヒュドラの尾の先で 膨れた蛙の腹に登れ──




 ここで言う”大蛇”というのは、この川のことである。ならば、この川がやがてヒュドラに変わるのだ。これも何かの見立てだろうから、”ヒュドラのような川”ということになるだろうか。


 それはいったい、どういうものなのだろう──?


 マテオは脳裏にヒュドラの姿を思い浮かべた。


 何本もの蛇の頭を持った巨大な怪物である。


 ずんぐりとした身体に短い手足。そこから、幾本もの長い蛇の首が生えている。その蛇の牙には、怖ろしい毒が含まれていると言われていた。毒蛇なのである。首の数は、六本とも九本ともそれ以上とも聞く。おそらくは個体によって異なるのだろう。


「コーデリアは、ヒュドラを知っているか?」


 ファルコがコーデリアに聞いた。マテオと同じように、彼もヒュドラのことを考えていたらしい。


「お伽話で聞いたことはあるけど……」


 妖精達は、幼い彼女に人間の世界で見聞きした話をよく語ってくれた。


 彼女自身は吟遊詩人に会ったことはないが、彼らが話す物語は妖精達を通じていくつか聞き知っているという。


「でも、本物を見たことはないわ。この辺りには、そんな危険な怪物はいないから……」


 コーデリアが普段立ち入ることのない森の奥深くならば、もしかしたらヒュドラもいるのかもしれない。


 だが、彼女の生活圏であるこの一帯では、ヒュドラのような魔獣や幻獣はあまり住んでいない。一昨日出会ったサーベルタイガーや豹、狼、それにヒグマあたりの猛獣が最も危険な獣だという。


 この辺りは、妖精の森の中では比較的安全な地域なのだ。だからこそ、妖精達は幼い彼女をこの場所で育て始めた。


 ”妖精の森の巫女”などと呼ばれているが、コーデリアがよく知っているのは森のほんの端っこのことだけである。彼女は、異界と人界の境界領域に暮らしているのだ。


 それを聞いたマテオは、一昨日の夜のオーヴェルの話を思い出していた。


 妖精王が彼らに突きつけた条件のことを。


 コーデリアを育てるにあたって、妖精達が人里にも近いこの場所を選んだのも、あの条件と無関係ではあるまいと考えていた。


 しばらく川に沿って歩いて行くと、前方に少し明るい場所が見えてきた。木々の少ない場所があるようだ。


 何だろうと視線を前に向けて歩くマテオに、コーデリアが声をかけてきた。


「気をつけて。沼があるわ」


「沼?」


 確かに、足下の地面がぬかるみはじめている。足を下ろすと、じゅくっと水がしみ出す。


 歩みを止めてマテオはもう一度前を見た。背の高い藪に隠れて見えなかったが、その向こう側にコーデリアの言う沼があるようだ。だから、木が生えていない。


 藪をかき分けて、マテオは慎重にその向こうを見た。


 足下の地面が突然にストンと途切れ、広大な水たまりが広がっていた。水際まで藪が生えているのだ。


「いかにもヒュドラが住んでいそうな沼だな……」


 藪が途切れて小さな砂浜のようになっている場所まで移動し、沼の全体を見渡しながらアンジェリカがそう言った。


 先程の泉とは違ってこちらの水は濁り、底を見ることはできない。水面は平らで穏やかだが、それがかえって水中に何か巨大な化け物が潜んでいるのでは、という妄想をかき立ててくる。


 マテオは子供の頃に聞いた、ヒュドラの出てくるお伽話ことを思い出していた。


 一人の英雄が、神に命じられて様々な怪物退治を行う物語だ。その一節に、主人公が森の中の沼に住むヒュドラと戦う話があった。


 彼がその伝説のことを口にしたら、コーデリアも頷いて言った。


「わたしが知っているのも、そのお話……」


 幼い彼女は、怖ろしいヒュドラの姿を想像して震え、たった一人でその怪物を討ち滅ぼした逞しい英雄の活躍に胸をときめかせたそうだ。


「現実には、この人数でヒュドラと戦うのは避けたいがな……」


 アンジェリカも話に乗ってきた。


 現実は、お伽話のようにはいかない。巨大な怪物にたった四人で立ち向かうのは、かなり危険である。


「マテオと私で首を一本ずつ……。ファルコに魔術で後方支援をしてもらって……。その間、他の首はどうする……?」


 ぶつぶつとアンジェリカが呟きだした。現実的に考えはじめてしまったらしい。


「コーデリア。貴女は祈祷師だそうだが、弓も使えるな?」


 突然に話しかけられてコーデリアが戸惑いながらも頷く。


 彼女は弓矢を入れた矢筒を背負っているし、一昨日もそれを使ってマテオ達をサーベルタイガーから助けてくれた。


「ヒュドラの目は狙えるか?」


 言われて、コーデリアは沼の方に目をやりながら考える仕草を見せた。そこにヒュドラがいると想定をして、真剣に検討しているのだろう。やがて、彼女は答えた。


「動いていなければ、たぶん……」


 止まってさえいれば小さな目を射抜けるというのは、それは相当な腕ではないかとマテオは少し驚いた。アンジェリカの高い要求に応えることのできる射手は、騎士団の中にもそうはいない。


 アンジェリカが満足そうに頷いて言った。


「うむ。では、私とマテオがそれぞれの首一本を相手にしている間、他の首は貴女とファルコに牽制して頂こう」


「う、うん……。いえ、はい……」


 緊張した面持ちでコーデリアが答えたところで、彼女の横でやりとりを聞いていたヴェルデが嘆息をしてから口を開いた。


『ここに、ヒュドラなどはいないから安心しろ』


 そんな怖ろしい怪物がいれば、妖精達を通じてすぐに彼の耳に入ってくる。


 見えないだけで、この森にはあちこちに妖精達が隠れ潜んでいるのだ。今も彼らの様子をじっと注視している者がいるという。


 それを聞いたマテオがキョロキョロと辺りを見回しはじめ、コーデリアがその様子を見てくすりと笑った。


「みんな上手に隠れているから、探しても見つからないと思うわ」


 コーデリアが彼らをサーベルタイガーから助けたときも、隠れて見ていた妖精が知らせてくれたのだという。


 ヒュドラなどが現れたら、すぐに注意が来ることは間違いない。


「まあ、さすがにこんな所にヒュドラがいるわけはないか……」


 何故だか残念そうにアンジェリカがそう言ったときだった。


「いや、ヒュドラはいるぞ」


 それまで黙っていたファルコが口を開き、皆驚いて彼を見た。


「見ろ」


 ファルコが沼の方を指さす。マテオは慌てて背中の大剣に手をかけた。


「あそこに川がある。あそこも、あそこにも……」


 沼を見渡しながら、ファルコが次々と指先を移動させていく。本物のヒュドラを見つけたわけではなさそうだと分かって、マテオは大剣から手を離した。


「古文書の一節を思い出してくれ。”大蛇はやがてヒュドラに変わる”んだ」


 ここでいう大蛇とは、彼らが沿って歩いてきた川だ。その川がヒュドラに変わる。


 意味するところは──。


「川は……沼に変わったわ」コーデリアが言った。「つまり……」


「そう。この沼がヒュドラなんだ。ヒュドラの身体だな。そこから、何本もの蛇が出ている」


 蛇、すなわち川だ。


 複数の川が沼に流れ込む様子を、一つの身体から複数の蛇の首が生えている姿に見立てたのである。


 マテオは、この沼と川を空から見た景色を想像してみた。確かに、ずんぐりした体から何本もの長い首を生やしている怪物のシルエットのように見えなくもない。


 だとすると、次は──


「尾はどこなんすか?」


 マテオの問いに、ファルコが沼の一点を指さした。


 岸が深くえぐれ込み、水が大地を分け入って木々の奥へと消えている。


「あの川っすか? あれは”首”なんじゃ……」


「よく見てくれ。あれは川じゃない。他の川は沼に向けての流れがあるが、あそこだけは水が流れていないんだ」


 水面に浮かぶ木の葉が、ファルコがさす場所だけは動いていない。流れが淀んでいるのである。


「川ではないとすると……。そうか、あそこは入り江か」


 得心したようにアンジェリカが呟いた。


 川のように、ヒュドラの尾のように、沼が長く大地に切れ込んでいるのだ。


「あの入り江の突端に、”蛙の腹”があるのだろう」


 ファルコの目は、その先を力強く見据えていた。

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