その7 マテオとコーデリア
どうせなら、落ち着いた気持ちで夕日を見たい。
そう考えたマテオ達は、早めに野営の準備をはじめた。
マテオが割り当てられた仕事は水汲みである。来た道を少し戻って横に逸れれば小川があると、コーデリアが教えてくれた。流れは少し急だが、水はきれいだという。彼女の水飲み場の一つだそうだ。
そこまで案内してくれると言うので、マテオが持っていた荷を下ろして大剣だけを背負い直したとき、コーデリアがその彼の方を見て不思議そうな顔をした。
「その剣は……持っていくの?」
珍しく自分の方を正視して問いかけきた彼女に少し慌てながら、マテオは答えた。
「え、ええ……。何があるか分かりませんし。……ヴェルデさんがいれば安心かも知れませんが、それでも一応っすね……」
そこまで言って、マテオは気がつく。
「あっ! やっぱり、妖精の森で金属の武器を持ち歩くのはまずいっすか?」
その言葉を聞いて、今度はコーデリアの方が少し慌てたようだった。
「ごめんなさい……そうじゃなくて。その……重くないかしらっ、て……」
「ああ……」マテオの顔に安堵の笑みが広がる。「これぐらいは何でもないっすよ。むしろ、背負っていないと背中が軽くて不安になるぐらいっす」
「そう……。凄いのね……」
呟くようにそう言ったコーデリアの顔には、驚嘆と感嘆の色が入り混じっていた。
マテオは両手に全員分の水袋を持っている。帰りには水が入って相当な重量になるだろう。
だが、彼は余りそのことを気にしてはいなかった。むしろ良い鍛錬になるだろうと考えている。
コーデリアが案内してくれた水場は、小川というよりは小さな渓流であった。ところどころに低い滝があり、水が白く泡立っていた。
二人で手分けして革袋を水でいっぱいに満たした後、マテオはそれを肩に担いで来た道を戻りはじめた。汲んだ水の分だけ荷重が増えた上に、帰りは登り坂であったが、それでもマテオの足取りは変わらない。
涼しい顔のまま彼が戻ったとき、崖の上にファルコとアンジェリカの姿はなかった。薪拾いや狩りにでも出かけているのだろう。
もしかして、彼らは二人で一緒にいるのだろうか──。
ふとそう考えて、マテオの胸の内が少し疼く。
彼は思い出していた。
──誰か、遺跡探索に詳しくて、信用できる者の心当たりはないか。
王の近習からそう問いかけられて、一同の前でファルコのことを話しだしたときのアンジェリカの表情を。
誇らしげに輝いていたその顔は、他の騎士を出し抜いたことによるものではなかった。
ファルコという男が、国から必要とされていることを誉れに思っていたのだ。そして、そのファルコと一緒に仕事ができることへの期待──。
それからのアンジェリカは、マテオの目から見ても生き生きとしていた。
昨晩もそうだったが、王宮で常に見せている近衛騎士としてのいかにも気を張った顔ではなく、女性としての一面も垣間見せるようになった。
そして彼女にそうさせているのは、ファルコなのである。彼が、太陽のようなアンジェリカの輝きをさらに引き出している。
岩棚まで戻って来たマテオは、二人を手伝いに行こうかとも思ったが、逡巡の末にやめておいた。どこにいるのか分からないし、何だか邪魔をしに行くようで嫌だったのだ。
今ここで自分がやれることをやろうと、マテオは野営の準備に専念しはじめた。
崖近くは突風が怖いとコーデリアが言うので、森に近く、下が土の場所を選んで彼らは焚き火の場所を整えた。
心の中のモヤモヤを忘れようと仕事に集中していたマテオが一息つくと、ふとコーデリアとヴェルデの会話が漏れ聞こえてきた。
『……なら、勇気を出して……ないと……』
「でも……」
何の話をしているのだろうと顔を上げたところで、コーデリアと目が合った。慌てていつものように目を伏せた彼女だったが、この時はどういうわけかすぐにまた顔を上げてマテオの方に近寄ってきた。
「それ……」
言いながら、彼女はマテオの傍らに置いてある大剣を指さした。さすがに立ったりかがんだりで邪魔なので、背中から下ろしていたのだ。
「すごく重そうだけど……」
どうも彼女は、先程からマテオの大剣が気になって仕方がないらしい。
妖精は金属を嫌う者が多いというから、彼女の周りには大きな金属製品はあまりないのかもしれない。だから大剣が珍しいのか。
「持ってみるっすか?」
にっこり笑ってマテオは聞いた。
「いいの?」
好奇心のためか、少し頬を染めたコーデリアがこわごわと大剣に近づいてきた。
たおやかな腕を伸ばし、両手で柄を握って持ち上げる。その顔が少し意外そうな表情になった。
「重い……、けど……」
「見た目はごついっすけど、思ったほど重くはないでしょう?」
重量に任せて叩き切る武器である大剣だが、重さによる打撃だけを期待するのならば、モールと呼ばれる大型の戦棍で充分である。
大剣は”切る”ために刃を薄くし、”振るう”ために職人が重心を計算して軽量化の工夫もしている。大型武器の中では、比較的軽い部類に入るのだ。
マテオは以前に親戚の子供をおんぶしてやったことがあるが、普段背負っている大剣と同じくらいの重さだと感じた。
山間に住む母親であれば、子供を抱いて山道を歩くのは日常的にやることだ。大剣を背負って歩くというのは、それぐらいの感覚である。
コーデリアは細身に見えるが、森の中で暮らしている以上、体力も筋力もそこらの町娘よりはあるだろうし、現に今日も彼女の健脚ぶりをマテオは見せつけられたばかりである。
だから、大剣を持ち上げることくらいはコーデリアの細腕でも可能だし、背負って山道を行くこともできるに違いない。
ただ──。
「あっ……!」
刃先が地に着いたままの大剣を両手に持ったコーデリアが、そのまま剣を振り上げようとしてよろめいた。
しゃがんで子供を抱き上げるときとは違って、立った状態から腕の力だけでこの重量を頭上に持ち上げるのは、さすがにきついのである。
「大丈夫っすか?」
あまりに危なっかしいので、マテオはそう声をかけてコーデリアの手に持つ大剣を支えてやった。抜き身ではないとは言え、足の上にでも落としたら怪我をしかねない。
そのまま柄を握って彼女から大剣を受け取り、ゆっくりと地面に下ろす。
「あ、ありがとう……」
そう言うコーデリアの顔は真っ赤に上気していた。重い物を振り上げようと無理をしたせいだろうとマテオは思う。
「これを……振り回すの? やっぱり、凄い……」
「そうでもないっすよ……。俺には、これくらいしか取り柄がないっすから……」
剣の技術だけなら、騎士団には彼よりも優れた者はいくらでもいる。マテオがその中で頭角を現そうと思ったら、持って生まれた筋力を鍛えて伸ばすしかないのだ。
謙遜と思ってもらえるよう、笑って言ったつもりだったが、表情に自嘲が混じってしまったのか、コーデリアの顔にも翳りがさした。
悪いことを聞いたというように、また目を伏せてしまったコーデリアを見て、マテオはかえって申し訳ない気持ちになった。
『ねえねえ……』
気まずい沈黙を破って二人にそう声をかけてきたのは、パットだった。
そういえばこの妖精猫もいたなと思いながらマテオが目を向けると、パットはニイィッ、とあの独特の笑みを見せて言った。
『マテオ、だっけ? あんたもコーデリアに何か訊きたいことがあるんでしょう?』
「は?」
特に何もないっすけど──と、そう言いかけて、マテオはパットがそう言った理由に思い当たった。
彼らとオーヴェルの会話を、この妖精猫も聞いていたのだ。オーヴェルがマテオ達に突きつけた条件のことを知っているのである。
(……ああ。そういうことっすか……)
合点したマテオは、目を伏せて黙りこくってしまったコーデリアの方に再び目を向けた。
改めて見るまでもなく、美しい女性だなと思う。”妖精の森の巫女”などと呼ばれて、テネアの村人から崇められているのも納得だ。
ただマテオは、彼女の容貌は妖精というよりも、哀しみを漂わせた女神のようだと思っている。やや下がった目尻のせいか、いつも憂いを帯びた表情をしているように見えるからだ。
妖精という言葉から連想する可憐さよりも、十代後半という年齢には不釣り合いな、妙に大人びた雰囲気をコーデリアからは感じていた。だから妖精ではなく、女神なのである。
だが、成熟した大人の女性に見えるのは、あくまで容貌から受ける印象にすぎない。
人里から離れて育った彼女は、特に人間関係においてはまだまだ未熟なのである。初対面の時からあまり視線を合わせようとしないのも、ようは人見知りをしているのだ。
再会の時にこちらに笑いかけてきたパットのほうが、よほど人間との関わりは上手いと思う。
おそらくコーデリアは、これまで他人と長く会話をする機会がほとんどなかったのだ。いかにも儚げな雰囲気を醸し出す彼女が、なにやら哀しそうに目を伏せていては、テネアの村人としてもなかなか話しかけづらかったに違いない。
現にマテオも、これまであまり彼の方から積極的にコーデリアに声をかけたりはしてこなかった。
しかし、そこを乗り越えてくれと、コーデリアにもっと会話をさせてやってくれと、パットはそう言いたいのだ。
だから彼に、無茶な振りをよこしたのである。
そしてそれに気づいてしまった以上は、言われた通りコーデリアに何かを訊かなければならない。
普段は余り使わない脳細胞をフル回転させたマテオだったが、結局気の利いたことは何も思いつかず、当たり障りのないことを聞いてみることにした。
「コーデリアさんは、その……いつもこんな風に野外で過ごしているんすか?」
そう尋ねつつも、まさか星空を屋根に草むらをベッドに──などという生活を彼女がしているとは思っていなかった。
コーデリアの服装は、野性的な日常を過ごす者のそれにはとても見えなかったからだ。
彼女はそこらの寒村の娘よりもよほど小綺麗な格好をしている。仕立ての良い服をいくつか持っていて、こまめに洗濯もしているのだろうと容易に想像できた。
野外での動物的な生活ではなく、それなりに人間的な暮らしをしている証拠である。
マテオの問いに、彼の方をチラリと見ながらコーデリアは答えた。
「妖精達が……小屋を建ててくれたの。『人間としての生活を覚えなければいけないから』って……」
ぽつり、ぽつりと彼女は説明しはじめた。
小屋に必要な材木や釘などは、テネアの村人から調達してきた。
小人の姿をした妖精達が協力して家屋や家具を造り、小屋が完成した後もそのまま入れ替わり立ち替わり彼女のところにやって来る。
妖精達の中には人間の生活圏に近いところに住んで、靴屋や仕立屋の真似事をする者もいる。そのような妖精達が衣服や生活必需品を作ってくれて、幼いコーデリアに人間としての暮らし方を教えてくれた。
地べたや木の上ではなく、家の中のベッドで眠ること。掃除や洗濯をして身の回りを清潔に保つこと。生活に必要な道具の使い方や、それが壊れたときの直し方──。
今では彼女は、鍋や包丁を使って自分で料理をする事も覚えた。当然、食事の際には皿と食器を使う。
それらはどれも、森に住む獣や妖精たちが普通は行わないことである。
彼らは、将来コーデリアが人間社会に戻っても困らないようにと、色々心を砕いてくれたのだ。
「料理もするんすか。すごいっすね」
その彼女の話を聞いて、妖精達の献身ぶりに感服したマテオだったが、ここはコーデリアについての感想を口にすることにした。
マテオも遠征での野営の際には簡単な食事を作るが、普段は騎士団の寮暮らしで自炊の習慣がない。そもそも寮の私室には厨房がないのである。だから自分で食事を作れるコーデリアを、単純に凄いと思った。
「どんなものを作るんすか?」
マテオが続けてそう聞くと、コーデリアは少しだけ頬を赤らめて恥ずかしそうに言った。
「そんなにすごいものが作れるわけじゃないから……」
一度だけテネアのパブの店長が振る舞ってくれた人間の料理。それに比べれば、いかにも粗末で簡単なものばかりだという。
「ああ、あのパブの店主はいい腕してますねえ」
最初にテネアの村に訪れた日に、その店で食事をしたことをマテオは思い出していた。確か、『岩窟巨人亭』という名の店だった。素朴だが、リヴェーラの彼のお気に入りの店にもひけをとらない美味さであった。
「作り方を……聞いておけば良かった……」
コーデリアが悔やむような顔をした。材料や調理法を聞き出せるほどには、店主と懇意にはなれなかったのだ。
きっと瞳を輝かせながらも、黙々と食べていたのだろうとマテオは想像する。
「コーデリアさんは、普段はどんなものを食べてるんすか?」
「木の実とか、野草とか……」
川で魚を獲ったり、兎や鹿を狩ることもあるという。弓矢は得意なのだと彼女は言った。
コーデリアが狩猟をよく行い、肉食も厭わないというのは、マテオには少し意外であった。今朝、森の入り口で見た小鳥たちに向ける慈愛の眼差しから、てっきり彼女は殺生を嫌う人だと思っていた。
「何かを食べなければ……生きていけないから……」
少し哀しそうな顔でコーデリアはそう言った。
森の中で生きているからこそ、動物だけではなく植物にも生命があると彼女は理解している。木の実を食べる程度なら命を奪うことにはならないが、それだけでは彼女自身の命を繋げない。
だから彼女は、生きるための糧として動物と植物の区別はつけないのだ。
そう言えば昨日のサーベルタイガーに対しても、コーデリアは狩りの邪魔をすることに対して、むしろ申し訳なさそうにしていた。生きるために他の動物を襲い、喰らうことを否定していないのである。
(そういえば、猫も犬も肉食っすね……)
コーデリアの傍らにいるパットとヴェルデを見ながら、ふとマテオはそう思った。
ただ、彼らは必ずしも食事が必要ではないらしい。マテオ達がオーヴェルと出会った場所のような精霊力が濃い所であれば、何も食べなくても周囲の空間から力を得て生きていける。
一方で、精霊力の弱い場所では食べ物からエネルギーを得ることもできるので、パットなどはコーデリアの食事のご相伴にあずかることがしばしばあるという。
「この子は結構、味にうるさいの」
コーデリアが不満げに口を尖らせ、パットがニイィッと笑った。
そうやって世間話をしていたら、徐々に日が傾いて辺りが少し暗くなってきた。
アンジェリカやファルコも戻ってきて、火起こしを始める。
パチパチと焚き火が燃えだし、食事の準備も整った頃、コーデリアが崖の西側を指さした。
果てしなく広がる緑の森が、いつの間にか影絵のように黒くなり、地平線の上下だけが赤く染まっていた。その中心にはオレンジ色の巨大な太陽がある。
この場所からだと、ちょうど日の沈む辺りには山影が少なく、平らな地の底に夕日が徐々に潜っていく様子がよく見えた。
マテオは、ここまで壮大な夕焼けを見るのは初めてだった。声も出せず、ただただ沈みゆく太陽を見つめていた。
空の色が徐々に濃紺から黒へと変わっていく。森は暗闇に閉ざされ、夜空には星が輝きはじめた。
太陽に変わって冴え冴えとした銀色の月が光を放ち、マテオはふと焚き火の炎に照らされるコーデリアの方へと目を向けた。その隣にはちょうどアンジェリカがいて、何やら言葉を交わし合っている。
夜の闇の中、焚き火の幻想的な光に照らされて、まるで二人の女神が降臨したかのように錯覚し、マテオの胸がドキリと小さく高鳴った。




