その6 猫の額
妖精王オーヴェルとの不思議な会見から一夜が明けた。
本格的に森の探索に乗り出す緊張と不安、それに奇妙な期待感に包まれながらマテオ達が妖精の森に赴くと、コーデリアはすでに入り口で彼らを待ってくれていた。森と道との境界部に立つ木に背を預け、両足を揃えて横座りしている。
その膝の上に猫の形態のパットが頭を乗せ、背中を優しく撫でられながら気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らしていた。
コーデリアの隣で蹲って目を閉じている巨大な獣──ヴェルデを怖れることなく飛んできた小鳥たちに、片手を広げて木の実を与えている彼女の顔は、昨日出会ったときの儚げな印象とは異なり、随分と優しく穏やかなものに見えた。
マテオ達に気がついたコーデリアが、パットを膝から下ろして立ち上がる。そのときにはもう、彼女の口元からは小鳥たちやパットに向けていた微笑が消えていた。
目を伏せて彼らの顔を正視しないまま、コーデリアは口を開いた。
「オーヴェルから言われたの……。あなた達の案内をしなさいって……」
そのコーデリアの様子に緊張の色を感じとったのだろう。些かわざとらしい笑みを作りながら、アンジェリカが右手を差し出した。
「ありがとう。感謝する」
その手をおずおずと握り返しながら、コーデリアが小さく「よろしく……」と言った。
「それで……まずはどこに行くの?」
続けて聞かれたアンジェリカは、少し思い悩む様子を見せた。具体的にどこに行こうというアテがあるわけではない。
返答に窮した彼女は、懐から例の遺跡の場所が書かれた古文書の写しを取りだして、コーデリアに渡した。
怪訝な表情で二つ折りの紙片を受け取り、開いて中を見たコーデリアの顔がみるみると曇っていくのを見たマテオは、彼女は文字が読めないのではないかと懸念した。辺境の小さな村には、そういう者が多いのだ。
だが、どうやらその心配は杞憂のようであった。
「朝日差し、夕日輝く、猫の額──」
独り言のように呟く彼女の言葉は、そこに書いてある文字をきちんと読めている証拠だった。
妖精の中にはヒトの生活圏の近くで暮らす者や高い知能を有する者がいて、人間の文字が読める者もいる。おそらくコーデリアは、そのような妖精から読み書きを教えられたのだろうとマテオは想像した。
彼女の表情が曇ったのは字が読めないからではなく、そこに書いてある意味を計りかねていたからなのだろう。
「これは……なに?」
案の定、紙片から顔を上げたコーデリアが困惑したようにそう聞いてきた。
「この森にある遺跡について書かれた古文書の写しだ。遺跡のありかを示す詩のようなのだが」
「ああ……。『我らが宝はそこにある』というのは、そういう意味……」
「そうだ」アンジェリカはそう頷いてから、尋ねた。
「ここに書いてある場所に、どこか心当たりはないだろうか?」
コーデリアの目が再び紙片に落とされる。しばらく眉間にしわを寄せて考え込んだ後、彼女はかぶりを振って答えた。
「ごめんなさい……。この文章がどこのことを言っているのか……全然わからないの……」
申し訳なさそうに顔を伏せた彼女に、アンジェリカが言った。
「いや、気にするな。私も、ここに書いてあることの意味が全く理解できないのだ」
「俺も、何が何やらさっぱりっす……」
マテオがそう言ったときだった。
「コーデリア。この森の中に、どこか他よりも小高い場所はないか?」
突然にファルコが口を開いた。
「小高い場所……?」
「そうだ。山とか丘……森全体が、あるいは全部でなくてもかなりの範囲が見渡せる場所だ。そうでなければ、他よりも突出して大きな木だな。登れば物見櫓のように周囲が見渡せるような大木だ」
言われてマテオは思い出した。ファルコは、あの詩の『朝日差し、夕日輝く』の部分は”朝日と夕日の両方を拝める場所”を指しているのではないかと言っていた。
周りの木々よりも高く、見晴らしが良い場所ならば、確かに朝日と夕日を同時に見ることができるだろう。
「……あるわ」
ファルコの言葉にしばらく考え込んだ後、コーデリアが言った。
森の中に、ちょっとした渓谷のようになっている場所があるという。崖の上の方は地面が岩盤のようになっていて、大きな木はあまり生えていない。
その最も高い岩山に、特に見晴らしのよいところがあって、コーデリアは時折そこに朝日や夕日を見に行くのだそうだ。
「つまり、朝日も夕日も両方見える場所ということだな?」
確認するようなファルコの問いに、コーデリアがこくりと頷いた。
「ここからは、少し歩くけれども……」
森に慣れた彼女ならばともかく、マテオ達ならば半日ぐらいはかかるかもしれないという。
「問題ない」
気遣わしげなコーデリアに、きっぱりとアンジェリカが言って、マテオの方に目を向けた。
「数日くらいは森の中で過ごせる準備をしてきたっす」
マテオはそう言って、大剣の上から背負った巨大な荷を振って見せた。
さすがにファルコは自分の荷物は自分で持っているが、マテオはアンジェリカの分の荷も背負っている。命令されたわけではなく、彼が自主的にしていることだ。
この旅路では、彼は自分をアンジェリカの従者役だと思っているし、力仕事はマテオの得意分野でもある。アンジェリカの負担を少しでも軽くできれば本望であった。
そのマテオの背負う荷物の量を見て、コーデリアは目を丸くした。
「そんなに持って……大丈夫なの?」
「問題ないっすよ。いつもより軽いぐらいっす」
騎士団で遠征に出かけるとき、彼はいつも食糧などの他に斧槍や大槌などの複数の大型武器を背負っている。今は大剣だけだから、二人分の荷物を背負ってもまだまだ余裕があるのだ。
マテオの言葉に、
「そう……」とだけ返したコーデリアの顔は、しかし少しほころんでいるように見えた。それは、彼女が初めてマテオ達に向けた柔和な表情だった。
コーデリアが森の方を向いて歩き出すと、彼女の傍に蹲っていたヴェルデがのっそりと立ち上がった。パットもトコトコと着いてくる。
「君らも……行くのか?」
訝しげに聞いたファルコに、巨犬が答えた。
『私は、コーデリアの守り役だ。彼女が行くところならば、どこへでもついて行く』
昨日のサーベルタイガーの例もあるように、森の中には危険が多い。
コーデリアが幼い頃からずっと、ヴェルデはこうやって野獣やその他の危険から彼女を護ってきたのだ。
『何か問題があるか?』
「いや。ついて来てくれるなら、むしろ心強い」
真摯な顔でファルコはそう答えた後、「きみは?」というようにパットを見た。
彼女の答えは単純明快だった。
『面白そうだもん』
そういえば、このケット・シーの声も初めて聞いたな──。そんなどうでもよいことをマテオは考えていた。
コーデリアとヴェルデを先頭に、彼らは森の中へと分け入った。
昨日と違って、道はやがて起伏に富んでくる。
マテオの生まれ故郷にも森はあったが、その辺りは広大な平野だった。農地の間に点在する森も、平坦な場所に木が生い茂っていたように思う。
聞けば、妖精の森にもそのような場所はあるということだ。
国一つがすっぽりと収まりそうなほどの広大な森の中に、様々な地形が存在していて、平地もあれば山もある。湿地や湖沼地帯などもあるという。変化に富んだ森だからこそ、様々な属性の妖精が住むことができるのだ。
森の奥地には火山もあって、火の属性を持つ妖精はそういった所に住んでいるという話だった。
テネアから近いこの辺りは、妖精の森の中では比較的山がちな地域だという。
そういえば村の中には丘陵がいくつもあって、放牧された羊たちがそこで草を食んでいたことをマテオは思い出した。村から眺める森の向こう側には、確かに山らしきものも見えていた。
いま歩いているのは、まさにその山へと続く道なのだ。さらに進んでいけば、標高は徐々に上がって森というよりは山岳地帯という風情になり、やがては深い渓谷に出る。
谷の片方の岸にあたる山は、妖精の森の中では比較的高い場所であり、この一帯では最も見晴らしが良い。そこが、今日の目的地である。
言葉少なながら、コーデリアがぽつりぽつりとそう説明してくれた。
テネアから見えていた森は、一面を生い茂る植物の緑に覆われていた。昨日、実際に入ってみるまでは、歩ける場所などあるのかと心配していたマテオだが、表面の藪を分け入ってみれば、森の中は意外に通り抜けられる場所が多かった。
木々の葉というのは高いところに集まり、マテオの背丈ほどのあたりには枝葉が存外に少ないのだ。木の幹自体は隙間なく生えているわけではないから、その間を縫うように歩いていくことができる。
昨日探索した辺りは藪や灌木が多く、それらを避けて迂回しなければいけないことも多かったが、今日歩いている場所は、薄暗い代わりにそのような邪魔な植物も少なかった。
そういう歩きやすいルートをコーデリアが選んでくれているのだ。
優秀な案内人のおかげで、彼らは順調に森の奥へと足を進めていくことができた。
しばらく行くと上り坂がきつくなり、山を登っているのだとマテオは気づく。
「だいぶ登ってきたようだな。目的地は、山の頂上なのか?」
ファルコがコーデリアにそう問いかけた。
マテオは、この物静かな娘に話しかけることをどうしても臆してしまう。何となく話しかけづらい雰囲気を、彼女は帯びている。会話を拒絶されているように思ったこともたびたびあった。
だが、ファルコはあまりそういった空気を感じ取っていないようで、歩きながらも折に触れてコーデリアに話しかけていた。火山の話や、妖精の森の地形が変化に富んでいることを聞き出したのも彼である。
純粋に妖精の森という特異な地に対する興味もあるのだろう。
だがそれ加えて、
(昨日、オーヴェルから言われたことを意識してるんすかね?)
と、マテオはそう考えていた。
普段は寡黙なファルコが、無理をして彼女に話しかけているようにも見えたからである。
口下手なりに、オーヴェルから出された条件を守ろうとしているのであろう。
「頂上ではないけれど……」コーデリアが小さな声でファルコの問いに答えた。
「崖になっていて……木があまり生えていなくて……見晴らしはとてもいいわ」
考え考え、コーデリアがそう説明する。その場所をうまく表現する言葉が見つからないようだった。
「岩場だから……木があんまりないんだと思う……」
彼女の説明を聞きながら山道を登っていくと、植物の間に苔むした大きな岩が顔を出している場所が、だんだんと増えてきた。
たまに木が途切れて見通しの良い場所に出ると、谷や岩壁なんかも見える。崖のような場所も増えてきて、谷底を流れる川が見えたりもした。
目的とする渓谷が近いのだ。
彼らが目指しているのは、高所で見晴らしの良い場所のはずである。山の頂に近いところだろうかと想像しながら坂を登っていくと、目の前の視界が突然に開けた。
木々が途切れ、眼前に青い空が広がっていた。足下は腐葉土ではなく、わずかな土混じりの岩になっている。木々が根を張れず、だから、そこだけ開いた空間になっているようだ。
「……絶景だな」
アンジェリカが思わずといったように呟いた。鬱蒼とした森の中ではあまり感じられなかった風が、優しく彼女の金色の髪を揺らしている。
薄暗いところから突然に光を浴びた彼女の姿は、まるで太陽の祝福を受けた戦女神のようで、マテオも思わず目を細めた。
彼女の横に立つと、そこには確かに素晴らしい景色が広がっていた。
目の高さから上は青い空。視線を下げると、地平線の向こうまで緑の森が広がっている。所々に山影や湖も見えていた。
振り返ってみると、後方には彼らが通り抜けてきた森と、この場所よりも高い山の頂が見える。それらに遮られて、テネアの村は見ることができなかった。村から望んでいた山の反対側に出たことになる。
そこは、山の頂上付近から中空に突き出した巨大な岩棚だった。背後の視界は山で遮られているが、左右や前方は切り立った崖になっていて、三方の見晴らしはすごぶる良い。この場所なら、確かに朝日も夕日も見えそうだった。
「朝日差し、夕日輝く場所か……」
ファルコが呟き、マテオは懐から例の紙片を取り出して内容を確認した。おずおずとコーデリアも覗き込んでくる。
『朝日差し 夕日輝く 猫の額
山猫の毛を撫で 現れし大蛇に呑まれよ
大蛇はやがてヒュドラに変わる──』
「ここが、猫の額なんすかね?」
言いながら、マテオはキョロキョロと辺りを見回した。
彼ら四人に加えて、パットと、牛ほどの大きさもあるヴェルデがめいめいに歩き回れるほどの、かなり広い場所だ。テネアで借りているような小屋ならば数軒は建てられそうである。しかし、眼下に広がる雄大な森に比べれば、相対的には狭い場所であると言えなくもない。
「微妙だな……」
やはり周囲を見渡しながら、ファルコが答えた。
「そもそも当時、”猫の額のように狭い”なんて言い回しがあったのかどうか──」
顎に手を当て、人差し指で下唇に触れながらファルコが歩き回る。
山側に近い崖際まで来たとき、その歩みがピタリと止まった。
「みんな……来てくれ」
ファルコに呼ばれて全員が集まり、彼が指さす崖の先を見た。
「あれが、猫の額なんじゃないか?」
最初に彼らがいた場所からは死角になっていたが、ファルコが指し示す辺りの崖の下にはもう一段、岩のでっぱりがあった。背後の山肌にかなり近い場所で、山の急斜面から生える木々の枝にいまにも触れそうである。
その中空に突き出した岩のでっぱりの左右には、二つの大きな石があった。子供の背丈ぐらいの高さで、どちらも似たような形の三角形をしている。
その石に気づいたマテオは、思わずパットの方に目を向けた。その頭の上にぴょこぴょこと揺れる、二つの大きな三角形をした耳を。
「あの二つの岩が、猫の耳というわけか?」
同じことを考えたのだろうアンジェリカの問いに、ファルコが頷いて言った。
「そして、その間にある岩棚が、猫の額なんじゃないだろうか」
三角形の石の先端は、やや斜めに宙へと飛び出していた。少し上を向いた猫の頭なのである。
「なるほど……。確かにそう見えなくもない」
納得したようにアンジェリカが頷いた。
「では、次の”山猫の毛を撫で”というのは……?」
言いながら、アンジェリカが何かを探るように崖下を覗き込んだ。
マテオもその横に立つ。
「あの”猫”と、毛を撫でる山猫は同じものなんすかね?」
ファルコがみつけた猫耳の形の岩を見ながら、マテオがそう言ったときだった。
「あの……」
彼の耳に遠慮がちな声が聞こえてきた。コーデリアが口を開いたのだ。
全員の視線が彼女に集まり、そのことに気づいたコーデリアが手を身体の前で組み合わせながら下を向く。
「どうした? 何か考えがあるのなら、遠慮なく聞かせて欲しい」
もじもじと手をこすり合わせるコーデリアに、ファルコが語りかけた。
「きみの知恵を借りたいんだ」
「知恵という程じゃ……ないけど……」
ファルコに迫られたコーデリアの頬がわずかに染まる。岩棚の方を指さしながら、彼女は小さな声で言った。
「あそこ……下りられるわ……」
「下りられる?」
「ここからは見えないけれど……岩が段のように積み重なっているの」
その段差は、ちょうど二つの耳の形をした岩の間にあり、階段のように崖下まで続いているのだという。
下りた先は、背後の山から続く尾根のような場所で、なだらかな坂になっている。さらにそこを下っていけば、眼下にある低地の森まで行けるとのことだった。
「尾根……」ファルコが小さく呟いた。「そうか……。それを、山猫の背に見立てたのか」
ファルコの視線は、パットの方に向けられていた。
それを見てマテオも思い出す。今朝、優しい笑みを浮かべて膝の上のパットを撫でていたコーデリアの姿を。
あのとき彼女の手で撫でられていたパットのなだらかな背中は、確かに山の尾根のようにも見えた。
「猫の額から耳の間を通り、後頭部、首と下りていって背中に至るわけだな」
後頭部から首の部分がこの崖なのである。
首や背中の規模に比べれば、耳や額はいかにも小さいが、だからこそ崖から下りられる場所を指し示す目印にもなっていた。
「ごめんなさい。もっと早くに言えば良かった……」
コーデリアが身を縮こまらせて、もじもじと言った。
彼女はしばしばそこを通って、この崖の上までやって来るのだという。猫の耳のようだという発想はなかったが、特徴的な形の二つの岩があることも知っていた。
「ただ……危ないかもしれないと思って……」
コーデリアがマテオの方を見てぽつりと言った。
石段のようなものがあるとは言え、高い崖の上である。万が一にもバランスを崩したりすると危険だ。
大荷物を背負ったマテオのことを、彼女は心配してくれたのだ。それで、ここに来るときにも山道の方を選んだ。
「ありがとうございます。でも、大丈夫っすよ。足を踏み外すようなヘマはしませんて」
マテオが努めて明るく言うと、コーデリアは恥ずかしそうに目を伏せた。
「命綱は用意しよう。アンジェリカも金属鎧だしな。だが……」
崖を下りるのは明日にしないか、とファルコは続けた。
日は中天を少し過ぎたあたりで、夜営のことを考えはじめるにはまだ早い。
ただ、”猫の耳”は彼らが立つ岩盤の東側の崖にあった。もう少し太陽が西に移動してしまうと、コーデリアのいう石段は影になってしまう可能性が高い。
危険な崖下りは明るい時間帯にした方が安全だろうから、明日の午前中に決行した方がいいだろう、というのがファルコの考えだ。
「それに……」そう言って、ファルコがかすかな笑みを浮かべた。
「どうせなら、ここで夕日と朝日を見てみたくはないか?」
その彼の意見に反対をする者は誰もいなかった。




