その5 カルロと身重の女(テネア村昔話)
ファルコが、テネアの村の古老から聞いた話──
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昔、このテネアの村にカルロという名の一人の若者が住んでおった。
真面目で働き者の男じゃったが、どういうわけか良縁に恵まれず、同年代の者たちがみな結婚していく中で、彼だけが独り身じゃった。両親を早くに亡くし、兄弟もおらず、まさに天涯孤独の身の上だったそうじゃ。
あるときカルロは、近くの街まで仔牛を売りに行った帰りに、街道脇に座り込んでいる一人の女をみつけた。
とても美しい女じゃった。
身につけている服も仕立てが良く、高貴な人が着ているようなものじゃったというが、どういうわけかあちこちすり切れて、とても薄汚れておったそうじゃ。
女は一文無しで、何日も飲まず食わずでおったらしい。カルロから水とパンを受け取ると、涙を流して礼を言いいながらそれを食うたそうじゃ。
聞けば、女は妊娠しているという。
お腹の子の父親が誰なのかは頑なに話そうとはしなかったが、どうやらその男との縁は既に切れておるようじゃった。
女の左手の薬指にはまだ指輪が嵌まっていたが、カルロが夫はどうしたのかと聞くと、彼女は、
──おりません。私はもう、あの人の妻ではないそうです……。
と、悲しそうに答えたそうじゃ。
どうやら、夫から家を追い出されてきたようじゃった。
女は”妖精の森”に知り合いがいるから、そこに行って子供を産むつもりだとカルロに言った。
じゃが、あそこは今も昔も禁足地じゃ。
そこにいる知り合いとはどういう者かとカルロは訝しんだが、女はそれ以上詳しい話をするつもりはないようじゃった。
いずれにしろ、衰弱した身重の女を一人にしておくわけにはいかぬと、カルロは女を森まで送っていくことにした。
自分がテネアの村の者であることを話すと、女は首をかしげながら「名前を聞いたことはあるが、行ったことはない」と話したそうじゃ。
女が行こうとしていた村は、テネアから少し離れた村じゃった。やはり妖精の森の近くじゃが、今いる場所から行こうと思えば数日ほどはかかる。どうやら道を間違えた様子じゃった。
ただ、女は妖精の森に入れればそれでいいと言うので、カルロはまず自分の村まで女を連れて帰ることにしたそうじゃ。
そうしてカルロの家に着くと、張り詰めていた糸が切れたように女はベッドに倒れ込んだ。
心身ともに限界だったのじゃろう。それから一昼夜にわたって女は昏々と眠り続けたという。
ようやく目を覚ました女は、カルロを床で寝させてしまったことに気がついて赤面しながら謝った。
その女にカルロは、
──体力が回復するまで、いつまでもここにいてくれていい。
と言うたそうじゃ。
それで、女はしばらくカルロの家で暮らすことになった。
元気になって起き上がれるようになると、女は仕事に出かけるカルロのために食事を用意したり、部屋の掃除や洗濯をしたりと、まるでカルロの嫁のように働き始めたという。
じゃが女の腹が目に見えて大きくなり、出産の時が近づいた頃、女は黙ってカルロの家から姿を消した。
仕事から戻って女が出て行ったことを知ったカルロは、三日三晩泣き続けたそうじゃ。その頃にはもう、女はカルロにとってかけがえのない存在になっておった。
そうして四日目の晩、泣き崩れるカルロの家の窓を叩く者がおった。
大きな大きな猫じゃった。
カルロが窓を開けると、猫は人間の言葉でこう言った。
──もしもお前が彼女のことを大事に想っているのなら。彼女に一生を捧げる覚悟があるのなら。明日の朝、目印としてこの羽根を持って妖精の森においで。
そうして七色に光る大きな羽根をカルロに渡し、猫は走り去っていったという。
翌朝、カルロはその羽根を持って妖精の森に足を踏み入れた。女の名を呼びながら、森の奥へ奥へと進んでいった。
そのカルロの前に、突然に何人もの美しい乙女が現れて、魅惑的な踊りを舞い始めた。植物の精霊の化身・ドライアードじゃった。
乙女達はカルロに近づくと、その耳元でこう言った。
──ここで、一緒に楽しく暮らしましょうよ。
いつの間にかカルロは、妖精の世界に迷い込んでおったのじゃ。
そこは綺麗な花が咲き乱れ、暑くもなければ寒くもない。腹が減ることもなく、怪我や病気もない。それはそれは素晴らしい世界じゃったという。
その夢のよう場所で、美しい乙女と夫婦になって永遠の時を過ごそうと、ドライアードはカルロを誘惑したのじゃ。
しかしカルロは首を縦には振らなかった。
ドライアード達は確かに美しかったが、彼の愛する女ではなかった。カルロは見目の麗しさだけで彼女を愛したわけではなかったのじゃ。
カルロの意思を確かめると、ドライアード達はにっこり笑ってこう言った。
──あの子のことをよろしくね。お前になら、安心して任せられる。
そして気がつくと、カルロは森の中に一人で立っておった。ドライアードたちもどこかに消えて、もう二度と姿を見せることはなかったそうじゃ。
気を取り直してまた森の奥へと進んでいったカルロは、木々の向こうにようやく愛しい女の姿を見つけた。
大声でその名を呼ぼうとしたとき、カルロは木の上から女を狙う悪鬼たちの姿に気づいた。いくつもの鋭い矢が、女の身体に向けられておった。
女は、悪鬼達の存在には気づいていないようじゃった。
危険を知らせようとしたカルロの声は、どういうわけか女には届かなかった。風の精霊が、カルロの声を運ぶことを拒んでいたのじゃ。
悪鬼達が弓を引き絞るのを見て、カルロは走った。
走って走って、悪鬼たちの放った矢が女に届く寸前、自分の身体を盾にするように、カルロは女に覆い被さった。
無数の矢が突き刺さる激痛が、カルロを襲った。
それでもカルロがなんとか愛しい女を抱き起こし、痛みに堪えながら安全なところまで連れて逃げようとしたとき、腕の中にいたはずの女の姿が忽然とかき消えた。
木の上にいた悪鬼達も、カルロの身体に突き刺さったはずの矢も消えていた。幻を見せられておったのじゃ。
呆然としながら女の姿を探して辺りを見回したカルロは、少し離れたところに女がうずくまっているのを見つけた。
また幻かもしれないと思いながらも、カルロは女のところに急いだ。
女の前に一人の男が立っていて、抜き身の剣を構えていたからじゃ。
二人のところに走り寄ったカルロは、女と男の間に割って入るように立ちはだかった。
男は高級そうな服を身につけ、とても整った顔立ちをした偉丈夫じゃったという。
その男はカルロに、自分が女の腹の中にいる子供の父親だと名乗ったそうじゃ。そしてその後、こう言った。
──そんなにその女が大事なら、そいつはお前にくれてやろう。だが、腹の中の子供は私が引き取る。お前にとっても邪魔であろう。
子供を連れて行ってどうするのかとカルロは尋いたが、男は何も答えなかった。
続けてカルロはこう尋いた。
──彼女を見捨てるのか? もう、彼女を愛してはいないのか?
それを聞いた男はニヤリと笑って左手を挙げ、手の甲の側をカルロに見せた。その薬指には、豪奢な指輪が嵌まっておった。カルロと出会ったときに女がしていたものとは違う、いかにも真新しい指輪じゃったという。
──その女は、もう用済みだ。私はもっと若くて美しい娘を、新しい妻として迎えたのだ。
その言葉を聞いた瞬間、カルロは男に飛びかかっておった。
男が剣を持っていることも構わずに拳を握りしめ、その頬を殴りつけたのじゃ。
──お前なんかに彼女は渡さない! 彼女のお腹の中の子供もだ! 二人は自分が守る。自分が、必ず二人を幸せにする!
カルロがそう叫んだ瞬間、男の姿がすっと消えた。
背後にいたはずの女も消えて、代わりに一匹の大きな猫が座っておった。カルロに七色の羽根を渡したあの猫じゃった。
猫は、ニイィッという笑みを見せてこう言った。
──ついていおいで。あの子のところに連れて行ってあげる。
歩き出した猫のあとを、慌ててカルロは追いかけた。
猫は、カルロを森の中の朽ちかけた小屋へと案内した。
その中に、彼の愛する女がおった。大きくなった腹を抱えて、一人で小屋の中で暮らしておった。
カルロを見た女は、目に涙をためてこう言った。
──わたしは、あなたに相応しい女じゃない。こんな身重の女を娶れば、あなたに迷惑がかかる。あなたの重荷になってしまう。
だから女はカルロの前から姿を消したのじゃ。森の中の小屋で一人で子を産み、育てていくつもりじゃった。
そんな女を抱きしめて、カルロは自分の想いを彼女に述べた。
自分がどれほど彼女を愛しているか。彼女を大事に思っているか。お腹の中の子供も、重荷などとは思わない。彼女の子供なら、自分の子供と同じだ。我が子として、大切に育てていきたいのだ──。
女も最後にはカルロの気持ちを理解して、愛する男の許に戻ると決めた。
そして二人は、カルロの家でささやかな祝言を挙げたという。
その夜、テネアの村では不思議なことが起こった。
オーロラ……というのかのう? 空に光り輝く七色の帯が現れて、暗い夜空を美しく染めていたそうじゃ。妖精達の祝福なのじゃろうと、村の者たちは後に語り合ったという。
やがて女は元気な男の子を産み、カルロはその子を自分の息子として育てた。
カルロと女の間にはやがて娘も産まれ、テネア村にちなんでティーニアと名付けられた。そして、家族四人で仲良く暮らしたそうじゃ。
子供達が独り立ちをし、家を出て働き始めてからしばらくたった頃、女は病に倒れた。
愛する夫と、帰省してきた子供達に見守られながら、彼女は穏やかにその生涯を終えた。
カルロと子供達は、女の亡骸を妖精の森の中に葬ったそうじゃ。
──なに? その女の墓は、今も残っておるのかじゃと?
さあのう……。
あの森は、今も昔も禁足地じゃ。
カルロとその子供達以外、女の墓がどこにあるのかは誰も知らぬのじゃよ──。




