その3 妖精の森の巫女
ケット・シーを助けてから二日後、マテオたちは妖精の森に足を踏み入れていた。
特に何かアテがあるわけでもなく、森の様子を確認しがてらの散策である。
昨日、彼らはテネアの村での情報収集に一日を費やし、村の者が知る限りの森の中の地理や、そこに住む動植物についての話を教えてもらった。
途中、ファルコが村の古老からこの辺りに残る伝説を聞きたいと言いだし、マテオは彼と別行動をとった。
ファルコは村の伝承の中に、あの文章の謎を解く手がかかりが隠されているかも知れないと考えたようだが、そのような話をマテオが聞いても何かを掴めるとは思えなかった。
マテオは、自分の役割はあくまでも肉体労働だと認識している。
だから一通り森の中での注意点を聞いた後は、彼は小屋に戻って日課にしている筋肉の鍛錬に残りの時間を費やした。
夕方近くに戻ってきたファルコは、それなりに有意義な時間を過ごせた様子だった。
ただ、それはあくまで彼の古代に関する探究心を満足させる古い伝説を聞き出せたからで、遺跡の場所を特定できるような決定的な情報は得られなかったらしい。
あの文章の内容に何か心当たりがある村人も見つからなかった。
結局、現状では森の入り口を中心に少しずつ捜索範囲を広げながら、あの文章に該当する場所がないかを探るより他に手だてがない。
生い茂る木々や灌木の枝をかき分けながら、マテオは昨日聞いた森の中での注意点を思い出していた。
この森ではみだりに植物を傷つけてはならないと、何度も口酸っぱく言われた。妖精が化けている可能性があるからだという。
果物をとったり邪魔な木の枝を折る際にも、いきなりやるのではなく、まずは果実や枝に触れてから軽く揺すってやる。本物の植物であれば何の反応もないが、もしも妖精が化けたものであれば、そこで驚いて逃げていくとのことだった。
マテオの背負う斧槍についても注意を受けた。
草木の生い茂る森の中では、柄の長い武器は木の枝や蔦に引っかかって邪魔になる。意図せず、そこに潜んだ妖精を傷つけてしまう可能性もある。だから森の中には持ち込まない方が良いだろうと言われた。
実は、同じようなことはファルコからも忠告されていた。
こちらは森の中ではなく、遺跡内でのことだ。
斧槍は広い場所で振り回してこそ、他の武器にはない威力を発揮できる。しかし、狭い遺跡の中では壁や天井に引っかかって、本来の性能は期待できないだろうと言われてしまった。剣士としての顔も持つファルコが、主武器を長剣ではなく小剣としているのも同じ理由であるとのことだった。
それでマテオは、斧槍は小屋に置いていくことにした。
大剣については斧槍ほど広い空間を必要としないし、ファルコやアンジェリカとは別の戦術をとれる利点を考えて、鞘に収めていつも通りに背負ってきている。
妖精が棲むという他にはない特別な森に、彼らは入念に準備をして分け入ったのだ。ただ、中に入ってみれば森の中の様子は、他とあまり変わるところがない。マテオは少し拍子抜けしていた。小一時間ほど歩いてみたが、妖精に出会うこともなかった。
森の中は木々が生い茂り、藪も多いが、隙間なく密生しているというほどではなく、彼らが歩き回れる場所がそこかしこにあった。頭上を覆う木の葉の隙間から木漏れ日が差しているところや、太陽が垣間見える場所も随所にある。
だが、朝日と夕日が同時に拝めそうな、左右が開けている場所というのはなかなか見つからなかった。葉の茂り方は季節が巡れば変わるから、ファルコの言うように木漏れ日程度では、遺跡の場所を示す目印にはならないように思われた。
高い木に遮られて見通しは良くない森の中を、それでも何か手がかりになるものがないかと、しきりに見回しながら先頭を歩くファルコが、突然に足を止めた。
その理由は、マテオにもすぐに分かった。
誰かに──いや、何かに見られている。
その相手は、目には見えぬ妖精ではないように思われた。この感覚には何度も覚えがある。
戦士としての、マテオの危険を告げる本能が反応していた。こちらに害意を持つ、もっと具体的な何者かに見られているのだ。
素早く周囲に目を走らせた彼は、斜め前方の茂みの中に二つの小さな光を見つけた。獣の瞳であるように思われた。
おそらくは肉食の野獣が、彼らの様子を伺っているのだ。
ファルコが素早く小剣を抜き放った。マテオとアンジェリカも、それぞれの武器に手をかける。
獲物に気づかれたことを悟ったのだろう。がさりと茂みをかき分け、一匹の獣がのそりと彼らの前に姿を現した。
剣のように長く鋭い牙を持つネコ科の猛獣、剣歯虎だった。一昨日見たケット・シーなどより遙かに大きい。
相当に腹を空かしているのか、サーベルタイガーはこちらが複数であることも厭わずに鋭い牙を剥き出しにして睨めつけてきている。襲いかかる隙をうかがっているのだ。
じりじりとサーベルタイガーが距離をつめ、先頭のファルコが剣を構えながら少し下がって間合いを取り直す。
野獣が腰をかがめ、こちらに飛びかかる挙動を見せたときだった。
ヒュンッ!
鋭い風切り音がして、サーベルタイガーの前の地面に一本の矢が突き刺さった。
「グルゥッ!?」
サーベルタイガーが慌てて後ずさり、矢の飛んできた方向に目を向ける。
同時に、そちらにある茂みの奥から女の声が聞こえてきた。
「ごめんね……。お腹、空いてるのよね。でも、その人たちはパットの恩人なの。だからお願い……。見逃してあげて」
そう言いながら姿を現した人物を見て、マテオは危険な獣を前にしているということも忘れて、思わずはっと息を呑んでしまった。
それほどまでに美しい娘が立っていた。
年の頃は十七、八だろうか。
すらりとした姿態に白磁のような肌。波打つ綺麗な長い髪。高く整った鼻筋に、ほっそりとした顎。頬にかけてのラインも細めだが、けして痩せているというわけではなく、女性特有の柔らかさも同時に感じられる。
それは神が造った──いや、神でさえこれほどのものを造れるのかと思えるほどに完璧な造形だった。
切れ長の目尻はやや下がり、どこか哀しそうな表情と相まって、いかにも儚げな雰囲気を漂わせている。
横を見ると、ファルコも目を見開いて娘をじっと見ていた。古代遺跡にしか興味がなさそうな彼でも、圧倒的な美を前にすると、さすがに心を奪われてしまうようだった。
マテオもその娘の美しい姿に見惚れてしまい、思わず状況を忘れて立ち尽くす。
そんな二人に、アンジェリカが厳しい声を発した。
「二人とも、何をぼうっとしている!?」
その言葉で我に返って、マテオは目の前の敵に注意を戻した。
「ガルルルルッ!」
サーベルタイガーが威嚇するようなうなり声を上げて、背中の毛を逆立てていた。
現れた娘に不満げな視線を投げかけながら、それでもその野獣の腰はどこか引けているようにマテオは思った。
娘は、一匹の大きな犬のような姿をした獣を連れていた。森の王者とも言えるサーベルタイガーが、明らかにこの巨大な獣を怖れていた。
それがただの犬でないことは、明白だった。
仔牛程もある巨大な体躯に、暗緑色の体毛。
一昨日話に聞いた、クー・シーという犬型の妖精なのだとマテオはすぐに気がついた。
サーベルタイガーとクー・シーはしばらく睨み合いを続けていたが、やがてサーベルタイガーの方が諦めたようにくるりと踵を返し、マテオたちに尻を向けて茂みの奥へと去っていく。
「ごめんね、ありがとう……」
その野獣に向けて、娘がそっと呟いた。
サーベルタイガーの気配が完全に消えたことを確認した後、アンジェリカが娘に話しかけた。
「助かった、感謝する。貴女が、話に聞く“妖精の森の巫女”殿か?」
「ええ……。森の外の人たちは、私のことをそう呼ぶわ」
そう答えた巫女の声は小さく、いかにもか細いものだった。こちらの方を正視しようとせず、伏し目がちになりながら彼女は続けて言った。
「あなたたちが……パットを助けてくれたと聞いたから……」
パットというのが、一昨日助けたケット・シーの名前なのだろう。巫女の背後から、見覚えのある猫耳の女児が姿を現すと、こちらに向けてニイィッという笑みを見せた。
そのパットの頭を優しく撫でながら──やはり少しだけこちらの顔から目線を反らして、巫女が小さく呟くように言った。
「こちらこそ……ありがとう……」
「いや、当然のことをしたまでだ」
巫女とは対照的に、彼女の方をしっかりと見据えながらアンジェリカは返した。
「貴女のことは、なんとお呼びすればいい? 『巫女殿』でよいか?」
「コーデリア……」ぽつりと呟くように巫女は答えた。「森のみんなは、わたしのことをそう呼ぶから……」
「では、コーデリア殿」
アンジェリカが貴人に対するときのように姿勢を正した。
「私は、ヴァロア王国近衛騎士団のアンジェリカと申す。こちらは部下のマテオと、協力者のファルコだ。我々は、ヴァロア国王・フェルディナンド三世の命を受けてこの森に参った。貴女と、森の妖精たちに頼みがある。どうか聞いてはくれまいか」
そう言われて、コーデリアはようやくアンジェリカの方に目を向けた。
「頼み……?」
「この森に、かつて我が国の王が造った遺跡があるという。その中には、王の宝が隠されているという話だ。どうか我々にその遺跡を探索し、中にある物を持ち帰る許可を頂きたい」
「元々、あなた達の物なら……」つっと、またコーデリアの目が逸れる。
小さな声で彼女は続けた。
「持ち出すのに、わたしの許可なんて必要ない……」
「森の中の探索は……」
「森を荒らしたり、妖精たちを傷つけないというのなら……たぶん、構わないと思うけれど……」
それも彼女が許可する類いのことではないという。
巫女などと呼ばれてはいるが、彼女は妖精達に保護されて育てられている身に過ぎない。妖精に何かを指示したり、森の重要なことを決められるような立場にはないのだ。
「もう一つ……」
二人の会話にファルコが口を挟んだ。
「俺たちは、その遺跡がどこかにあるのかを知らない。できればこの森に詳しい人間に──きみに、案内を頼みたい」
そう言ったファルコの顔をコーデリアはじっと見た。
マテオたちが彼女の美貌に見惚れたように、彼女もファルコの整った容貌に目を奪われたのではないかと、マテオはふと考えた。
「残念だけど……」やがて口を開いたコーデリアがかぶりを振った。
「わたしは、そんな遺跡のことは知らないの……」
そう言った後、彼女は横の巨大な犬の姿をした妖精の方を見た。
「ヴェルデ……あなたは知ってる?」
そう問いかけられたヴェルデという名らしき犬妖精は、一度彼女を見上げ、それからふうっと人間のようなため息をついてから、口を開いた。
驚いたことに、そこから発せられたのは人間の言葉であった。
『かつて人の王が、この森に何かを造ったという話は聞いたことがある』
男か女か判別が付けがたい中性的な声音だった。怖ろしげな獣の外見だが、その声からはむしろ、この犬妖精の知性と落ち着きとが感じられた。
『その王の母親は、我々が育てた娘だという話だ。だから我々は、その人間の王の行動を黙認した』
ヴェルデの言う”娘”とは、ルクレツィアのことであろう。
ルキウスの母である彼女は、幼い頃に父と死別した後、この森で妖精によって育てられたと言われている。
まさに今のコーデリアと似たような立場だ。
人間達とは一線を画して生活する妖精たちも、どうやら彼女とその息子に対しては愛情のようなものを感じていたらしい。
だから特別に、人間がこの森に何かを造ることを容認したのだ。ルキウスの頼みを断りきれなかったのであろう。
『だが、それは私がこの世に現れる前の話だ。残念ながら私も詳しいことは聞いていないし、その場所に案内することはできない。お前達が自分でこの森の中を捜し歩くことについては……一度、オーヴェルに聞いてみよう』
「オーヴェル?」
「あなたたちの言葉でいう”王”のようなもの……。妖精達は、森の色々なことをオーヴェルに決めてもらうの」
妖精王とでも言うべき存在なのだろう。
コーデリアの言葉に、アンジェリカが頷いて言った。
「ご高配、感謝する。それでは、オーヴェルが結論を出すまで、私たちはテネアの村で待つことにしよう」




