その9 再び現場検証
「いったい、どういうことなんだ……」
老婆の家から離れつつ、リジャールは呟いた。
「玄関から出ていないということは、オーガは他の部屋から外に出たと言うことでしょうか? 確か、あの家には他に、少なくとも二つ部屋があるように思いましたが……」
アルフォンスが言うのは寝室の隣にある倉庫兼作業場と、台所のことだろう。
しかし、その言葉にリジャールは首を振った。
「どちらも、オーガが出入りできるような窓や勝手口はない」
出口があるとすればラジンの寝室の窓だが、そこはアルフォンスが見張っていた。
「じゃあ、オーガはどこから……?」
そのアルフォンスの問いにリジャールは首を振って、「分からない」という意思を伝えた。
老婆の証言が正しければ、オーガは煙のように消えてしまった、としか言いようがない。
(いや……。一つだけ可能性があるか)
表情には出さずに、リジャールは考える。
アルフォンスが犯人である可能性だ。
自らラジンを殺した後、犯人を追うふりをして玄関から外に出る。第一発見者を装って、何食わぬ顔で野次馬たちに衛兵を呼びに行くようにと頼む。
あの家には元々、アルフォンスとラジン以外は誰もいなかったのだ考えれば、この不可思議な状況は説明可能になる。
ただ、この場合は殺害方法が問題となった。
ラジンは鈍器のようなもので、一撃で頭を叩き潰されていた。
そんなことができる凶器を、玄関から出てきたときのアルフォンスは持っていなかった。相当大きな得物であろうから、持っていれば野次馬や先程の老婆が気づいたはずだ。
であれば、ラジンの家の中に置いてきたと考えるしかないが、後の衛兵達の捜索でもリジャール自身の捜索でも、そんなものは見つかっていない。
ならばやはり、凶器は犯人が持って逃げたと考えるのが妥当だし、であれば鈍器を持っていなかったアルフォンスは犯人ではないことになる。
もう一度ラジンの家の玄関扉を開け、リジャールたちは中に入った。玄関を開けて短い廊下を進み、ラジンの寝室に入る。
「アルフォンス、この部屋の中で何か気になるものは見たかい?」
「気になるもの……ですか?」
顎に手を当て、アルフォンスはしばし虚空を見つめた。その後、部屋の一角を指さして彼は言った。
「まずそこにベッドがあって、人が……ラジンさんが血まみれで倒れていました」
あの日見たものを逐一確認することで、記憶を探るつもりらしい。
「部屋の中には、オーガがいて……」
「どの辺りにいた?」
「最初、窓から見たときはベッドの傍でした。私が飛び込んだときには、すでに戸口の近くに移動していましたが」
アルフォンスは、部屋に飛び込む前に近隣住民に注意を促す叫び声を上げている。その声を聞いたオーガは、声がしたのとは逆の方──戸口の方に逃げようとしたのだ。
「私が飛び込んだのは、この辺りでした」
アルフォンスが窓の傍に移動する。一度部屋の中を見回し、口を開いた。
「部屋の中には……小さなテーブルと椅子が一つずつ。椅子のほうは倒れていました」
どこかの段階で、オーガが倒したのだろう。
「それから、あの辺りに小さな箪笥と……」言いながら、アルフォンスはそれぞれの場所を指さしていく。「それからあの壁際に、祭壇らしきものがありました」
ラジンの祀っていたオウルの祭壇だ。
さすがにどの神の祭壇かまでは、アルフォンスは確認していなかった。だが、突然に遭遇したオーガに、今まさに斬りかからんとするような緊迫した状況では、それも仕方がないだろう。彼の視線は敵の方に向けられていたはずだから。
むしろ箪笥や祭壇まで覚えているあたり、アルフォンスの観察力と記憶力は確かなものだ。このような男が、オーガに限ってだけ見間違いをするようなことはないようにリジャールには思えてきた。
仮に犯人がオーガではないにしても、それは ”オーガによく似た何か” なのではないかという気になってくる。
「──君が飛び込んで、オーガは戸口から廊下に逃げた、と。そして扉を閉めた」
「ええ」
リジャールは戸口に近づき、同じように扉を閉めた。確かに建て付けは悪そうで、動かすときに扉の下部が床にこすれる感覚がした。
そうして一度閉じた扉を、再び開けようとしてみる。しかし、なかなか扉は開かなかった。扉が戸枠に引っかかる感覚が強く、かなり力を込めてようやく引き開けることができた。
アルフォンスは扉を開けるのにかかった時間を数秒程度と言っていたが、今のリジャールの体感では、もう少しかかったような気もする。
戸口から出た下手人が廊下を全速力で走れば、玄関から外に出る時間は充分にあっただろう。
おそらくラジンは、この扉は開け放したまま使っていたのではないか。開け閉めするのに毎度こんなに時間がかかっては、あまりにも利便性が悪すぎる。
あるいは、ラジンの生前はこの扉の建て付けは普通で、オーガが力任せに閉めたせいで扉が歪んでしまったのかもしれないが。
リジャールが開いた扉から、二人は連れだって廊下に出た。左手を見ながら、リジャールは言った。
「廊下に出たとき、玄関の扉は閉まっていた。……足音とか、扉を開け閉めするような音とかは?」
「……すいません、あまり覚えていません。はっきりとは聞こえなかったと思います」
開け放した戸口から見える壁の厚みを見ながら、無理もないとリジャールは思った。
ローラン新市街の石造りの家は、どれも堅牢だ。万が一、城壁内に敵に攻め込まれた場合、家屋に立てこもって一軒一軒を小さな砦代わりにできるようになっている。
デニスの事件でもそうだったが、屋内で悲鳴が上がっても隣家には届かないことが、ままあるのだ。
立て付けの悪い扉を開けることに四苦八苦している状況では、小さな音に注意が向かなくても責められない。
「ただ……」アルフォンスが言った。「そういえば、敷かれた玄関マットは綺麗でした」
そのときは、オーガがマットを踏まずに越えていったのだと彼は思った。
「しかし……よくよく考えてみれば、あのマットに足を乗せずに扉を開けるのは、巨体のオーガといえども難しいように思います」
そこでリジャールは玄関まで行き、マットのあったあたりを踏まないようにしながら、扉に手を伸ばしてみた。転びそうになるほど身体を前に乗り出さなければ、ノブには手が届かない。
オーガは彼よりも腕が長いだろうが、それでもマットに足を乗せずに扉を開けるには、かなり不自然な体勢が要求されると思われた。慌てて逃げなければならない状況で、わざわざそのようなことをするとは考えにくい。
やはりあの老婆が言うとおり、オーガはこの扉からは出なかったのか──。
「ここから出たのではないとすると……」思案しながら、リジャールは言った。「廊下を右に曲がったことになる」
振り返って廊下の先を眺める。
彼らが出てきた寝室の隣に、倉庫兼作業場に続く扉。そして廊下の突き当たりに台所兼食堂がある。
同じように振り返って廊下の先を見たアルフォンスが言った。
「あのときは、台所に続く扉は閉まっていましたね」
「え……?」
その言葉に、リジャールは衝撃を受けた。
「扉が……閉まっていた?」
「はい」アルフォンスが頷く。彼はまだ、リジャールが衝撃を受けた理由を知らない。
「ですから隣の部屋か台所か、オーガはそのどちらかに逃げたあと、扉を閉めて隠れたことになります」
アルフォンスの言葉を聞いて、リジャールは最初にこの家に入ったときに感じた違和感の正体が、はっきりと分かった。
確かにアルフォンスは最初の証言の時から、廊下の右の突き当たりの扉は閉まっていたと言っていた。その時は聞き流していたが、リジャールが検分した現場の状況との大きな相違点が、そこにはある。
リジャールは言った。
「あの台所に、扉なんかないぞ?」
「え?」
今度は、アルフォンスが聞き返す番だった。
「扉が、ない……?」
二人は台所の入り口に向かい、戸口に立った。
かつては扉があったのだろう。入り口には戸枠が設けられている。しかし今は扉は外され、蝶番を留めていたのであろう釘穴だけが残されていた。
それを見て呆然としているアルフォンスに、リジャールは言った。
「ラジン氏か、あるいはそれ以前の入居者が、煩わしく思って外したのだと思っていたんだが……。君が見たときにここに扉があったのなら、外されたのはその後ということになる」
外で家を見張っていたアルフォンスは、朝になってから再びこの家に入ることはなかった。屋内の探索は、集まった衛兵たちに任せていた。だから彼は、この扉がなくなっていることには気がつかなかったのだ。
衛兵たちが最初に入ったとき、ここに扉があったのかどうかを確認しなければならないとリジャールは考えた。もしもその時にまだ扉があったのならば、衛兵達が引き上げてからリジャールが来るまでの間に、誰かが忍び込んで扉を外すこともできなくはない。
だが、もしも衛兵たちが入ったときすでに、ここに扉がなかったとするならば──
「扉を外したのは、オーガだということになってしまう……」
リジャールは呟いた。
無論、あの夜にもしもオーガ以外の誰かがこの家に潜んでいたのならば、その者が扉を外した可能性もあるにはある。だが、今のところそのような者の存在を示唆する根拠がない。
「オーガが夜の間に扉を外したというのですか? 工具か何かを使って?」
アルフォンスがそう言った。さすがにその光景は、彼にも想像しがたいようだった。
「それに、その場合、外した扉はどうしたんでしょう?」
「外された扉は発見されていない。オーガが持ち出したと考えるより他はないが……」
「何のために、そんなことを?」
そう言われて少し思案した後、リジャールは言った。
「……だよな。やはり、扉が外されたのは、衛兵たちが引き上げてからのことなんだろう」
リジャールたちがここを訪れるまで、家の周囲には見張りなどいなかったから、割れた窓から侵入して、こっそり扉を外すことは可能である。
誰が、何のためにそんなことをしたのかという疑問は残るが、夜間にオーガが扉を外したと考えるよりは、そちらのほうが遙かに筋が通るように、リジャールには思えた。
気を取り直して、二人は倉庫兼作業場と台所に順に入っていった。とはいえ、どちらも中の物は全てデニスによって持ち去られていたから、見るべきものはほとんどない。
せいぜいどちらの部屋の窓からも、オーガはもちろんのこと、人間ですら出入りすることはできないことが確認できたぐらいだ。
腑に落ちないものを抱えたまま、二人はラジンの家を出た。大家に鍵を返し、付近の空き家の捜索に向かう。
道の交差する場所が広場のように少し開けたところまで来たとき、アルフォンスがふと足を止めた。
「どうした?」
「いえ……あの子たちは、何をしているんでしょう?」
彼が指さす先の道ばたには子供たちが集まっていた。めいめいに遊んでいるわけではなく、円座になって同じ方向を向いている。
子供達の視線の中心に、リュートを持った一人の男が立っていた。
それを見たリジャールには、彼らが何をしているのかがすぐに分かった。この街では、特に珍しい光景ではない。
「吟遊詩人が、子供たちに歌や物語を聞かせているんだ」
「子供たちに?」
「アルフォンス、君は出身は?」
「オルレシアです」
ローランの西に隣接するヴァロア王国の、さらにそのまた西にある皇国だ。
「そうか。オルレシアじゃあ、あまりやらないのかな。この辺りでは昔から吟遊詩人が、ああして子供たちを集めて、歌やお伽話を聞かせてくれるんだ。事前に親たちが金を出しあって渡しておくのさ」
特に旧市街では、貧乏人の子だくさんという家が多い。
リジャールも思い返せば人のことはいえないが、こういう子らは、親の目が行き届かないのをいいことに、放っておくと様々な悪さや悪戯をしでかす。
それを防ぐために、吟遊詩人に頼んで子供を一カ所に集めて暇つぶしをさせるのだ。吟遊詩人にとっても、パブの客が少ない時間帯のよい小遣い稼ぎになっていた。
「なるほど……」
感心したようにアルフォンスがうなずいた。
そのまま物珍しそうに吟遊詩人を見ている彼に付き合って、リジャールも何とはなしに詩人の話す物語を聞いていた。
彼も子供の頃から何度も聞いている、『立派なケット・シー』という話だった。
懐かしい思いに駆られながら、リジャールはその話を頭に思い浮かべた。
 




