その14 浜辺の死闘
「なに、あれ……」
上陸してきたナックラヴィーを見て、思わずエレナは呟いた。
あまりにも巨大な魔物だった。
馬のような身体についた口の部分だけで、彼女の頭よりもはるかに高い位置にある。そしてその後ろの、馬の背に当たる場所からは巨人の上半身が生えていた。この部分だけで、さらに五メートルはあるだろうか。上半身から生える腕は人間のそれよりも長く、真っ直ぐに垂らせば地面に着こうかというほどだ。
そして何よりも悍ましいのは、怪物の身体の表面だった。海水に濡れてぬらりと輝く肌には、聞いていたとおり皮膚がなく、盛り上がった筋肉や脈動する血管が剥き出しになっている。
ナックラヴィーは、ラゴリノの町外れの浜に上陸していた。
レオンの手下の話を半信半疑で聞いて浜にやって来た野次馬が、今まさに上陸せんとする怪物の姿を見て慌てて逃げだしていく。
そんな人間たちを、ナックラヴィーはヒト型の頭の中央にある大きな一つ目でギロリと睨んだ。炎のように赤く光る目だった。
怪物の頭には、髪の毛のようにも海藻のようにも見えるものが、より合わせた縄のようになってぐるりと取り囲んでいた。ところどころが結ばれた玉のように盛り上がっており、遠目に見たときのゴツゴツしたシルエットはこのためだ。
その大きな頭に比べて、ナックラヴィーの首は存外に細く、歩くたびに頭が重そうにぐらぐらと揺れている。その不安定さを見る限り、馬のような下半身をしているわりに、地上では早く走ることは難しそうである。
体格差はあっても、走ればなんとか逃げきれるかもしれない。だが、女子供にはそれは難しいだろうから、やはりなんとかこの浜で怪物を食い止めねばならない。
少なくとも、街の者が避難する時間を稼がねば──。
悲壮な決意を固めて、エレナは愛用の剣を抜き放った。
レオンとその手下たちも、めいめいに剣や手斧を持ってナックラヴィーに向かっていく。ギムザだけが、得物は槍だ。
──ターニャは、無事に逃げてくれただろうか。
そんなことを考えながら、エレナはナックラヴィーに走り寄ってその足に斬りかかった。
注意すべきは馬の口の部分から吐き出されるブレスだと、事前にギムザが一同に説明してくれていた。この瘴気を浴びると、たちまちのうちに熱病に冒されて動けなくなる。
だがこの巨体では、ブレスを浴びずとも、手足から繰り出される一撃一撃が致命傷になりかねない。
四本の馬の脚。二本の長いヒト型の腕。
馬の蹄はいかにも固そうで、蹴られれば骨折程度では済まないのが目に見えている。体重をかけて踏まれれば、人の頭蓋など簡単に潰されてしまうだろう。
長い腕を鞭のようにしならせて繰り出される一撃にも注意が必要だ。握られた巨大な拳は、下手な棍棒よりも危険な鈍器である。
群がる人間共を振り払い、蹴り飛ばすようなナックラヴィーの攻撃をかわしながら、エレナは地に着く脚の一本に小剣を突き立て、鋭い刃でその肉を切り裂いた。剥き出しの怪物の血管から、ドロリと赤黒い液体が垂れ落ちる。
切られた脚でエレナを振り払うように繰り出された蹄の一撃を避け、彼女は再び小剣を突き出す。
舞う血飛沫。
なんとか彼女を振り払おうとする固い蹄。
何度も、同じ事の繰り返しだった。
この巨大な怪物を殺すには、急所を突くしかないとエレナは考えていた。頭の目か、あるいは馬の腹のどこかにある心臓か。
そのどちらも、今は彼女のはるか頭上にある。弓矢を使う者がこの場にいないことが悔やまれたが、ないものをねだってもしょうがない。
まずは足を傷つけ、ナックラヴィーが立っていられないようにするのだ。そうして下がってきた急所を突くのは、ギムザの槍が良いだろう。彼こそが、自分たちの切り札になると考えながら、エレナは剣を振り続ける。
その鋭い刃を嫌がったナックラヴィーは、やがて執拗に彼女を狙いはじめた。
怪物の足下に辿り着いたエレナには、口から吐き出すブレスを吹きかけることはできない。瘴気のブレスは他の人間達を牽制するために使い、四本の脚を総動員して孤立したエレナを踏みつけにかかる。
頭上から次々と降ってくる魔物の攻撃を素早くかわし続けながら、地に着いた脚を切り裂いてゆく彼女の耳に、突然にレオンの声が届いた。
「危ねえぞ! こっち来んな! 逃げろ!」
エレナや手下たちに対してではなく、離れた砂浜の方に向けて叫んでいるようだ。
逃げ遅れた者でもいるのかと、そちらの方を確認するようにちらりと見て、そしてエレナの顔から血の気が引いた。
ノーム族の少女が、そこに立っていた。
(逃げたんじゃなかったの!?)
思わず彼女も叫んでいた。
「ターニャ! 逃げなさい!」
その彼女の隙をつくように振り上げられた怪物の蹄が、再びエレナを襲う。危ういところでその蹴りをかわした彼女は、しかしバランスを崩して砂浜に倒れてしまった。
砂の上を転がって逃げようとする彼女を踏みつけようと、ナックラヴィーがその巨大な足を上げる。
「させるかよ!」
エレナに向けて踏み下ろされた足に、レオンが体当たりをした。その勢いでナックラヴィーの蹄がそれ、危ういところでエレナは命を拾う。
ギムザが彼女に代わって怪物の脚に槍を突き立てている間に、エレナはレオンに引き起こされた。
「……ありがとう、レオン」
礼の言葉を口にする彼女に、レオンが言った。
「お前は、あの子のところに行ってやれ」
「でも……」
エレナがそう言った瞬間、ナックラヴィーの長い拳が彼女たちに向けてまっすぐに突き下ろされ、二人は左右に分かれてそれを避けた。
怪物が弱り、地に膝をつきそうな様子は、まだない。
エレナの表情に、徐々に焦りの色が浮かびはじめていた。
※
なぜ自分がここに来てしまったのか、ターニャには分からなかった。
いくら彼女でも、状況が危険であることは十分に理解している。
エレナには逃げろと言われたし、自分でもそうするつもりだった。邪悪な怪物の脅威に対して、彼女ができることなど何もない。
それなのに、どういうわけかターニャの足は山ではなく、浜の方に向かっていた。逃げる人波の流れに逆らい、何かに引き寄せられるかのように彼女は戦いの舞台までやって来てしまう。
実際、何かに呼ばれているような気がしていた。
自分の意志ではなく、何者かの大いなる意思が、彼女を怪物のすぐ近くまで呼び寄せているような気がする。
(エレナさん……)
巨大な怪物と戦うエレナを、ターニャは心配そうな表情で見つめていた。
エレナは、自分に対して「妹ができたようだ」と言っていたが、ターニャも「お姉ちゃんができたみたいだ」と思っている。
エレナには、死んで欲しくない。
それなのに、自分には見守ることしかできない。
それが、悔しくて歯がゆい。
──どうして、こんな所まで来てしまったのか。
そう考える彼女の耳に、腰の革袋からキッドの声がした。
『ターニャ! ボクを投げてくれ!』
えっ、と言う目で、ターニャは腰の革袋に目を向けた。
※
キッドは、戦う人間たちをずっと見つめていた。
巨大で強靱な怪物に対して、レオンの手下たちは──頑張っている彼らには申し訳ないが、所詮、有象無象にしかすぎなかった。
ナックラヴィーのブレスや手足の一撃を交わすことに精一杯で、せいぜい弾よけ程度の役にしか立っていない。
怪物に近づいて有効打を与えることができているのは、三人だけだ。
レオンの豪腕から繰り出される曲刀の一撃、深々と突き刺さるギムザの槍、そして剥き出しの筋肉や血管を華麗に切り裂くエレナの剣──。
しかし巨大な怪物からしてみれば、その人間達の攻撃の一つ一つは、せいぜい小動物に噛まれた程度の痛痒しか与えられない。
傷つき、嫌がってはいるようだが、すぐに命の危険を感じるほどのものでもない。
それでも繰り返していけば、いつかは怪物を弱らせることができるだろう。地に膝をつかせ、なんとか急所を突くことができれば、勝利の目も確かにある。
だが、いかんせん三人だけでは手数が足りない。人間達の体力の方が先に尽きるだろう。足場の悪い砂の上では、疲労の蓄積も早い。
(このままじゃ、勝てない……)
キッドはそう判断していた。
ターニャに逃げろと叫んだエレナが怪物に踏み潰されかけたとき、キッドは心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちになった。
口うるさい女だが、彼女は──エレナとターニャは、魂だけの姿になってから初めてできた友達だ。キャプテン・キッド以来、久しぶりにできた大事な人間たちだ。
このままでは、エレナはナックラヴィーに殺されてしまう。そして彼女たちが全滅したら、ターニャも──。
(そんなのは……イヤだ!)
心の底からそう思う。
でも、今の自分には──魂だけの存在では、見守ることしかできない。海水を操って怪物に浴びせかけたところで、乾きはじめたナックラヴィーの身体に活力を与えてしまうだけである。
(爺さま……オセアンの爺さま、なんとかしておくれよぉ……)
心の中で、縋りつくようにキッドは祈った。
その祈りが届いたのか、突然に”声”が聞こえてきた。耳ではなく、頭の中に直接に響く声だった。
『名もなき海竜よ! 我が眷属としての責を果たせ! そのための準備は、既にしておるはずだ!』
思わず、キッドは海の方を見つめた。
そして考えた。
今の言葉は、一体どういう意味だろう。
「責を果たすための準備は既にしているはず」と、声は言っていた。
しかし、復活してから今まで、自分は何か怪物に対抗する準備などしていただろうか?
ターニャに封印を解いてもらってからの自身の行動を、キッドはもう一度思い返してみた。
この革袋に入ってから、自分はいったい何をしてきただろうか──。
考えているうちに、そういえばどうにも不思議なことがあると、キッドは思い当たった。
復活した後に感じた、あの耐えがたいほどの空腹感と喉の渇き──。
長い海竜としての生の中で、あんなものを感じたことはこれまで一度もなかった。
あれは、一体何だったのか──。
そして唐突にキッドは気がついた。
──あれこそが、オセアンの導きだったのだ!
気づいた瞬間、海竜は叫んでいた。
『ターニャ! ボクを投げてくれ!』




